湛江市(たんこうし)は 中華人民共和国広東省南西部に位置する省直轄市。中国南部の重要な港湾都市で、19世紀末から1945年までフランスの租借地(広州湾租借地)であった。1984年に沿海開放都市に指定され、中華人民共和国の改革開放政策下で最初に対外開放された都市の一つ。広東省南西部、雷州半島東側付根の広州湾(省都・広州とは無関係)一帯に位置し、熱帯性気候を生かして水稲、サトウキビ、ゴム、コーヒーなどの栽培や漁業、水産養殖業が盛んである。湛江市区域には5000から6000年前(夏殷時代)には人間の居住が行われており、市内からは新石器時代中晩期の遺跡が発掘されている。秦始皇帝による中国統一がなされると、湛江地域は象郡の管轄となり、前漢には徐聞県が設置され雷州半島を管轄、合浦に郡治が設置された。南宋末にはモンゴル軍の侵攻を受け多くの住民が海路東南アジア地域へ移住している。元代になると湛江は製塩業で繁栄し、明清代には広東省遂渓県(後に呉川県と改称)の管轄地域となり手工業が発展、特に葛布の生産地として知られた。清末の列強の中国進出が始まると、フランスが広州湾が深水良港であることに着目し、1899年11月に「」が締結されフランスの租借地となり「広州湾」と称された。広州湾租借地にはバヤール要塞が建設され、仏領インドシナ連邦に組み込まれてフランスの中国進出基地として発展した。日中戦争中は租借地であるため日本軍に占領されなかった湛江は海上貿易の拠点として繁栄したが、1943年2月に日本軍による占領が行われると経済は停滞していった。日本が敗戦した1945年、フランスは広州湾租界を中華民国に返還し、同年9月湛江市と改称、1946年1月15日湛江市政府が成立した。1949年12月、人民解放軍が入城し、広東省直轄市となった。その後いくらかの変遷を経て、1983年12月1日地区と市が合併して現在の湛江市が誕生した。翌1984年には国務院によって沿海開放都市に指定された。なお、湛江所属の県級市である雷州市は1994年、国家歴史文化名城に指定されている。中国南部の重要な港湾都市であり、貿易センターとして造船、繊維機械、製糖、プラスチック加工、水産加工など各種工業が発達し、外国からの直接投資も受け入れている。湛江港は、中華人民共和国が独自に設計した最初の近代的深水港であり、中国と東南アジア、オーストラリア、インド洋沿岸、ヨーロッパ諸国とを結ぶ航路の最も短い外国貿易港である。中国海軍南海艦隊の司令部が所在する軍港でもある。4市轄区・3県級市・2県を管轄する。加えて、湖光岩(世界ジオパーク、中国国家地質公園)、龍海天、中豪友好庭園、南国熱帯庭園、湛江マングローブ国立自然保護区などの観光地がある。言語は、湛江市街地は主に広東語が、雷州半島と呉川県の一部は主に閩南語の下位方言である雷州語が、一部地域では客家語が話されている。
出典:wikipedia
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