釜石線(かまいしせん)は、岩手県花巻市の花巻駅と釜石市の釜石駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。愛称は「銀河ドリームライン釜石線」。これは釜石線の前身である岩手軽便鉄道が、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のモデルと言われていることに因む。同じく宮沢賢治の『シグナルとシグナレス』は、東北本線と釜石線の信号機を擬人化し、男女に見立てた恋物語である。また、宮沢賢治が作品中にエスペラント語の単語をよく登場させていたことから、各駅にエスペラントによる愛称が付けられている。2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災で一部が被災し運休したものの、翌月には全線での運行を再開した。全線盛岡支社の管轄である。各駅停車は、基本的に花巻駅 - 釜石駅間の運行であり、2時間に1本程度の運行であるが、朝と夜には遠野駅 - 釜石駅間の区間列車がある。また、一部の列車は東北本線を経由して盛岡駅発着で運転している。2015年5月1日現在、東日本大震災の影響で山田線宮古駅 - 釜石駅間が運休中であるが、震災前には山田線に直通する宮古駅発着列車もあった。2010年12月3日までは釜石発いわて銀河鉄道線直通好摩行きも1本設定されていた。1994年3月30日から、盛岡車両センター配置のキハ100形気動車によるワンマン運転が行われている。各駅停車のほか、盛岡駅 - 釜石駅間に一部指定席の快速「はまゆり」が3往復運転されている(震災前の2010年3月13日改正時点では4号が宮古発で運転されていたが、前述の通り山田線が不通のため釜石駅 - 盛岡駅間のみの運転)。2002年11月30日までは、急行「陸中」として運転されていた列車で、回転リクライニングシートを装備した専用のキハ110系気動車が使用されている。このキハ110系は釜石線に初投入され、はじめは前面が黒色でブラックフェイスであったが視認性向上のために白系に塗り替えられたものである。快速「はまゆり」は基本的に3両編成である。当初キハ110系0番台だけを使用していたが、2007年から指定席に同0番台を使用(一部自由席にも使用)し、自由席は同100番台を使用している。従来使用していた同0番台の一部は、気仙沼線の快速「南三陸」の指定席車両に充当されている。列車番号は花巻から釜石方面が「下り」列車に付ける奇数で、その逆(釜石から花巻方面)が「上り」列車に付ける偶数である。かつては、東北本線 - 釜石線 - 山田線を回る盛岡発盛岡行きの循環急行列車「五葉」と、逆回りの「そとやま」が存在した。また、かつての「五葉」・「そとやま」辺りと同様のルートを走る観光列車として、「ぐるっとさんりくトレイン」なる列車が一時期運行されたこともあった。釜石製鉄所が高炉を24時間体制で操業していた時代には、山田線とともに夜勤者用に時刻表非掲載の深夜列車が運行されていた。1979年当時のダイヤでは、釜石を深夜の1時20分に発車し、終着の遠野には午前2時54分に到着していた。このほか、当線には様々な列車が臨時に運行される。その代表的な列車が2014年4月12日から運行を開始した蒸気機関車C58 239牽引による列車「SL銀河」である。前身は、1989年から2001年にかけて毎年運行された蒸気機関車によるイベント列車「SL銀河ドリーム号」で、路線名の愛称である「銀河ドリームライン釜石線」と、「銀河鉄道の夜」にちなんだもの。2001年で一旦運行は打ち切りとなったが、その後も2004年、2012年と運行され、2014年度より、専用の蒸気機関車となるC58 239を新たに動態復元し、週末を中心に定期運行がなされる「SL銀河」の誕生に至ることとなった。また、当線を管理する盛岡支社は、宮沢賢治の名前にちなんだジョイフルトレイン「Kenji」を所有している。この列車も、時折入線し、イベント運行を行っている。釜石線は岩手軽便鉄道が敷設した花巻 - 足ケ瀬 - 仙人峠間の釜石西線と、国が敷設した陸中大橋 - 釜石間の釜石東線が、1950年の足ケ瀬 - 陸中大橋間の開業によって結ばれ成立したものである。花巻 - 仙人峠(1950年廃止)間は、岩手軽便鉄道が軌間 762 mm の軽便鉄道として敷設したもので、1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけて全通した。この間、終点側で部分開業していたことから、花巻 - 岩根橋間の西線と柏木平 - 仙人峠間の東線に分かれて運営を行っていた時期がある。この岩手軽便鉄道時代の西線と東線は、国有化後の路線ではすべて釜石西線側に含まれている。仙人峠 - 大橋間は距離約 4 km に対して標高差が 300 m あり、この間に仙人峠を越えなければならず、建設費の負担に耐えられないことから、鉄道の敷設を断念した。代わりに全長3.6kmの索道(ロープウェイ)により貨物・郵便を輸送することとし、旅客は同区間約5.5kmの山道を徒歩連絡とされた。1927年(昭和2年)には、ようやく鉄道敷設法別表第8号の2に「岩手県花巻ヨリ遠野ヲ経テ釜石ニ至ル鉄道」が追加され、1929年(昭和4年)には現在の釜石線となる路線の着工が決定した。1936年(昭和11年)に岩手軽便鉄道は買収、国有化され、釜石線となった。この時に索道も買収されて、国鉄史上唯一の索道営業が行われることになった。1944年(昭和19年)、釜石東線の開業により釜石西線(かまいしさいせん)に改称する。岩手軽便鉄道は軌間 762 mm であったため、1067 mm への改軌が順次実施された。またこれと平行して仙人峠を越える鉄道の建設が始められた。国有化前に岩手軽便鉄道から国鉄へ依頼して行われた検討では、足ケ瀬駅と仙人峠駅の間に金山駅を設置して分岐し、仙人峠の下を長いトンネルでくぐって東側にループ線を設置し、北進してスイッチバック式の甲子駅を設置、大きく南へカーブして釜石鉱山鉄道の路線に並行して南東へ進み、唄貝駅で合流するという路線構想があった。再検討の後、1936年(昭和11年)6月に実際に国鉄が着工したのは、足ケ瀬駅から分岐して足ケ瀬トンネルで一旦気仙川流域へ出て、上有住駅を経由して土倉峠の下を土倉トンネルで抜けて仙人峠東側斜面を大きく北へ「Ω」(オメガ)字状のカーブを描いて陸中大橋駅へ降りていくルートとなった。改軌工事に関しては、1944年(昭和19年)に花巻 - 柏木平間の工事が完成した。花巻駅は、国鉄の駅前にあったものが国鉄の駅へ乗り入れるように改められ、似内駅までの区間はこの時に大きく線路を付け替えられている。元の花巻駅は花巻温泉電気鉄道(後の花巻電鉄)の駅として残った。これ以降の改軌工事は太平洋戦争の激化のため、仙人峠の新線建設工事と共に中断された。この時点でかなりの部分まで路盤工事もできあがっており、新線区間の土倉トンネルも貫通している状態であった。戦後の1946年(昭和21年)にアイオン台風により壊滅的被害を受けて長期不通となった山田線の代替路線として、釜石線の建設・改築を優先することとなり、1948年(昭和23年)に工事を再開し、翌年に柏木平 - 遠野間の改軌が完成した。1950年(昭和25年)には遠野 - 足ケ瀬間の改軌が完成し、足ケ瀬 - 陸中大橋間が新線で連絡して釜石線が全通した。なおこの際、新線建設ルートから外れた足ケ瀬 - 仙人峠間は軌間 762 mm のまま、仙人峠 - 陸中大橋間の索道とともに廃止されている。これにより、国有鉄道の特殊狭軌線(軽便鉄道)はすべて姿を消した。東(釜石)側は、1944年に開業した釜石東線(かまいしとうせん)以前に、民営鉄道がすでに開業していた。まず1880年(明治13年)8月30日に、富国強兵を目指す政府の工部省によって釜石桟橋 - 大橋採鉱所18.3kmと、小佐野 - 小川山間4.9kmなど支線を含んで26.3kmを結ぶ釜石鉱山専用鉄道が敷設された。これは、釜石製鉄所への鉱石を輸送するためのものであり、日本で3番目となる鉄道路線であったが、釜石製鉄所での製鉄が不振で銑鉄生産を1883年(明治16年)に中断してしまったため、官営釜石鉱山は閉山し、そのための鉄道も開業僅か3年で廃線となった。このときの鉄道設備は阪堺鉄道(南海電気鉄道の前身)へ譲渡されている。その後、1884年(明治17年)に釜石鉱山馬車鉄道(釜石町 - 甲子村間、軌間 762 mm)が岩手県下初の民営鉄道として開業、1911年(明治44年)に個人(田中長兵衛)経営の鉱山鉄道(鈴子 - 大橋間、軌間 762 mm)に移行した。これは、釜石製鉄所の再建を目指す田中によって開業させたものである。1916年(大正5年)に田中鉱山(1924年釜石鉱山に改称)に譲渡され、1940年(昭和15年)には日鉄鉱業に譲渡された。前述の岩手軽便鉄道はこれとの接続を目指して計画されたものである。同鉄道は、釜石東線開業後は貨物専用線として残り、1965年(昭和40年)4月1日に廃止された。仙人峠を越えて釜石に入るとき片側2車線片側1車線の変則的国道があるが、これが廃線跡である。詳しくは、「釜石鉱山鉄道」の項目を参照。
出典:wikipedia
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