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八王子城

八王子城(はちおうじじょう)は、日本の16世紀に、当時の武蔵国(東京都八王子市元八王子町)に存在していた日本の城である。北条氏の本城である小田原城の支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点であった。延喜13年(913年)に華厳菩薩妙行が山頂で修行中に牛頭天王と8人の王子が現れた因縁で延喜16年(916年)、この城の山頂に八王子権現を祀ったことから、八王子城と名付けられた。八王子城は標高445m(比高約240m)の深沢山(現在の城山)に築城されており、典型的な中世山城である。縄張りは、北浅川・南浅川に囲まれた東西約3km・南北約2~3kmの広大な範囲に及び、山の尾根や谷など複雑な地形を利用し、いくつかの地区に分けられていた。地区は、山頂に置かれた本丸、松木・小宮曲輪など何段もの曲輪を配置した要害地区、城山川沿いの山腹に御主殿と呼ぶ館を構えてその東側にアシダ曲輪で防衛している居館地区、城山川に沿った麓に城下町を形成した根小屋地区、などで構成されていた。周辺にはいくつもの砦を配し、それらを結ぶ連絡道の要所には、深い堀切や竪堀、兵舎を建てるための曲輪などが造成されていた。特に、居館地区の南側尾根にある太鼓曲輪は、5つの深い堀切で区切られ、南側を石垣で固めるなど、容易に尾根を越えられない構造となっていた。城全体が余りに広大であったため、落城時には未完成であったと言う説もある。城下町には、武家屋敷のある中宿、刀剣鍛冶職人の居住区である鍛冶屋村に加え、滝山城下から移転した商業地区の八日市・横山・八幡三宿があった。また出城には、搦手の防衛線を形成する浄福寺城(案下城)、小田野城の他、初沢城などがあった。なお、八王子市文化財課が管理する現在の「八王子城跡」としての範囲には、太鼓曲輪尾根の南斜面を含む南部のエリアなどが含まれておらず、各所に霊園や私有地も入り組んでいるため、史跡としては実際よりかなり狭い範囲に限定されている。このため、住宅地の側にも多くの遺構を確認することができる。北条氏康の三男・氏照が1571年(元亀2年)頃より築城し、1587年(天正15年)頃に本拠とした。氏照は当初、大石氏の滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)・武田信玄軍に攻められ、その際に滝山城の防衛の限界を感じ、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行い、本拠を滝山城から移した。滝山城は広大かつ多くの角馬出や内枡形を備えた近世的な平山城であったが、山城である八王子城に移ったことで氏照は時代に逆行したとも言われている。しかし、八王子城は一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、侵入してくる敵に対しいたる所から側射をかける仕組みになっている。織豊系城郭と比較するとかなり独特ではあるが、より近世的な戦術を志向している。小田原征伐の一環として1590年(天正18年)7月24日(旧暦6月23日)、八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には、城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠ったに過ぎなかった。豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)・北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、一時攻撃の足が止まった。その後、絡め手側別働隊の奇襲が成功し、その日のうちに城を落とした。氏照正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。八王子城攻防戦を含む、この小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は当主・北条氏政とともに切腹した。その後新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。1945年(昭和20年)当時は、山頂付近を除く城山一帯が戦時中の木材伐採のため禿山となっていたのが、戦後米軍機の撮影した航空写真(国土交通相保管)に残されている。戦後、ヒノキなどが植林され、現在の状況となった。1951年(昭和26年)6月9日、国の史跡に指定され、発掘調査や整備も進み、御主殿跡付近の石垣、虎口、曳橋などが復元されている。しかし曳橋は、橋脚の部分しか資料が発見されていないために、橋脚以外の部分は復元工事の担当者の推定で建てたものである。居館地区など、重機が入り易いエリアの発掘調査や復元作業は進んでいるが、城山要害部については樹木の伐採も一部を除いてはほとんど行われていない。各所に僅かに残された石垣も、土砂崩れや樹木の根こそぎ倒壊によって失われつつあり、崩落により既に通行不能となった水平道もある。自然や人の往来による遺構の破壊の他、林道の整備や、登城道(新道)の整備によって、部分的に失われた遺構も多い。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(22番)に選定された。城山要害部の西端直下に首都圏中央連絡自動車道の八王子城跡トンネルが通っている。整備工事は、御主殿跡の虎口と、そこに至る大手道を整備範囲として行われた。石垣は、長い間にゆがんだり欠落していたため、当時の工法で積み直し、さらに失われてしまった石材は補充して復原した。橋や門、柵、塀は、はっきりした痕跡が発見されなかったため、当時の通路形態を再現することにより、八王子城の特徴的な城の守り方を理解できるよう、想定して作られた。麓から山頂付近までは、東西南北に様々なルートがあるが、管理事務所から登るルート(新道)は比較的道も広く、軽装で登る事ができる。ただし剥き出しの岩盤など足場の悪い部分も多いので、靴だけは最低限運動用のものが必要。その他のルートは道が狭く、分岐にも標識はほとんど無い。風雨の後には土砂崩れや草木が道を塞いでいる事もある。新道ルートは八王子神社まで約40分で、途中の金子丸跡まで約10分、そこから八王子神社まで約30分かかるルートである。新道の北斜面には旧道ルートが並行してあるが、道が狭い上、雨水のよる侵食が酷い。新道も旧道ほどではないが、何十年も前に整備されたままで、階段の痛みも目立つ。ところどころに「マムシに注意」の看板がある。8合目(柵門台)で旧道と新道は合流する。9合目(高丸)を超えた先に、天気の良い日は埼玉の西武ドーム・東京都心から横浜までが見渡せる場所がある。「頂上」と書かれた小さな石碑の先にある階段を上ると八王子神社があり、左手に進むと二つの大きな慰霊碑のある展望スペース・休憩所(松木曲輪)がある。本丸跡と小宮曲輪跡へは、八王子神社裏手の坂道を更に登る。道が細く分かりにくい上にかつては案内板すら無かったが、近年は標識が整備されている。本丸跡も小宮曲輪跡も八王子神社から約5分で到達する。なお、「○合目」の石碑は、八王子神社の管理物であるため、八王子神社手前の階段の前(中の曲輪)を「頂上」としており、位置も正確ではない。7合目までは早いが、そこが実際の5合目辺りとなる。ちなみに1合目の石碑は見つかっていない。御主殿から山王台を経て本丸付近まで直登する「殿の道」は短時間で本丸付近に到達する事が出来、その途中に築城当時の石垣群が見られるが、急峻であり登山道として整備が行き届いていないため、公式には推奨されないルートとしてガイドされておらず案内板等も設置されていない。

出典:wikipedia

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