ドミンゴ・セラーノ・グスマン(Domingo Serrano Guzmán , 1975年4月5日 - )は、ドミニカ共和国出身の元プロ野球選手(投手)。1993年にサンディエゴ・パドレスと契約し、1999年にメジャーデビューを果たしたが定着には至らず、その後台湾に渡り、中信ホエールズで「多明哥」の登録名でプレーした。2002年に横浜ベイスターズに登録名「グスマン」でテスト入団。同年は中継ぎではなかなか結果を残せなかったが、先発転向後は安定するようになり最終的に19試合で5勝5敗、御率2.79とまずまずの成績を挙げた。2003年は登録名を「ドミンゴ」に変えて1年間先発ローテーションを守り、チームトップの8勝をあげたものの、チームが勝率3割台で最下位に沈んだことやムラッ気の多い性格が災いし、12敗と負け越したことを理由に解雇された。まもなく中日ドラゴンズが興味を示し獲得した。2004年は自身初の2桁10勝を挙げてリーグ優勝に貢献した。しかし西武ライオンズとの日本シリーズ第3戦に先発するも先制点を与え5回4失点で降板した。ただしチームが一度は逆転したため負けはつかなかった。3勝3敗で迎えた第7戦にも先発し、2回までは無失点だったが3回に捉えられ、ホセ・フェルナンデスの適時打の後に井端弘和が送球をフェルナンデスに当ててしまいその間に走者が生還し3点目が入りここで降板した。その後2番手の山井大介が4番アレックス・カブレラに2ラン本塁打を打たれこの回5失点となった。最終的に2回2/3を4失点と第3戦の投球内容よりも悪化してチームは9回に2点を返すのが精いっぱいで日本一を逃した。翌2005年は肩の故障でほとんど投げられず、3試合の登板で1勝に留まった。2006年も4試合で2勝2敗と振るわず5月に2軍落ちし、8月にウエーバー公示され同月21日に自由契約選手になった。2007年6月に東北楽天ゴールデンイーグルスが獲得を発表。シーズン開始当初はリハビリに専念していたため何処の球団にも属していなかった。その故障の影響が懸念されたため、2度の投球テストとメディカルチェックを経て、6月22日に契約の締結が発表された。登録名は引き続き「ドミンゴ」。背番号は空いていた背番号が皆無だったことと、「99マイルの速球を投げてほしい」という意味を込め、99が与えられた。7月17日、復帰後初登板で先発し、初勝利を挙げた。外国人投手の3球団での勝利としては西田亨、ジェレミー・パウエル、ケビン・バーンに次ぐ史上4人目。9月1日の西武ライオンズ戦では4度のボークを記録(プロ野球初)。このうち3度は同一イニングでの記録(プロ野球タイ記録)。さらに、降板時に3塁塁審の秋村謙宏に駆け寄り、中指を突き立てるという侮辱行為を働き、退場処分を受けた。最終的に11試合の登板で2勝4敗、防御率5.01と安定感を欠いた。2008年に背番号を50に変更。福盛和男の移籍や小山伸一郎の出遅れなどから抑えに転向。オープン戦ではまずまずの成績を残すが、3月20日の開幕戦(対ソフトバンク戦)にて、楽天リード(3-1)で迎えた9回裏に、柴原洋にパ・リーグでは14年ぶりとなる開幕戦でのサヨナラ本塁打を打たれる。1日置いた22日の第2戦でも、楽天リード(4-3)で迎えた9回2死で登板したが同点打を打たれる。立て続けに救援失敗が続いたことから先発に回り、4月11日の対オリックス戦で好投を見せ(登板後に本人も救援より先発の方がしっくりくると発言している)、4月26日の対日本ハム戦は2安打完封を記録。ところが、今度は抑えのときとは逆に抑えても打線の援護がない状態に陥り、僅差での敗戦を繰り返してしまう。結局、先発では終始安定した投球を見せて100イニング以上を投げ、最終的に23試合の登板で防御率も3点台にまとめながら2勝7敗というやや不運な成績に終わった。シーズン終了後、12月1日に同年限りでの退団が発表された。2009年4月6日に四国・九州アイランドリーグ所属の高知ファイティングドッグスに入団することが発表された。同年4月8日よりチームに合流した。前期は4試合に登板し、1勝1敗の成績であったが、故障のため一時帰国したことが7月10日に明らかにされた。シーズン終了後の11月30日に球団は来シーズンの契約を結ばないことを発表し、退団が決まった。日本食は大好きで、特に刺身や寿司は昔からの好物である。試合中の投球前に股間などをいじる癖がある。
出典:wikipedia
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