侯 景(こう けい)は、中国南北朝末期の武将。侯周(乙羽周)の孫、侯標の子、侯和の父。侯景の乱の首謀者。漢を建ててその皇帝に即位したものの、わずか在位5ヶ月で殺害された。朔方(陝西省)の人とも、鴈門(山西省)の人ともいわれるが定かではない。侯景の精兵はみな「羌胡雑種」であり、羯族などの北族出身であったともされる。その生家は六鎮の一つである懐朔鎮(内蒙古)の守備に従事していた胡族化した漢族とも、あるいは漢化した鮮卑系の貴族の家柄(乙羽氏?)であるとも考えられている。侯景は524年の六鎮の乱で北魏の爾朱栄軍の部下として頭角を現し、北魏が東西に分裂すると東魏の高歓の旗下に入り、河南大行台として河南方面の軍事を任じられる。高歓が死去した後に、東魏への叛乱を起こしたが、高歓の嗣子高澄が侯景を殺そうとしたためという。高歓の嗣子高澄が命じた司空の韓軌らによって、散々な目に遭ったため、彼が支配する州郡の軍勢を率いて、南下して梁の武帝に帰順した。東魏に残された妻と長男の侯和が謀叛罪で処刑された。その後、東魏の武将慕容紹宗に敗れ、寿春(安徽省)へ退いた。梁と東魏の間に和議成立の情勢となると、軍師の「兵は拙速を貴ぶ」の助言を容れて建康を突くこととし、梁への叛乱を起こす。太清2年(548年)、梁宗室の蕭正徳を味方に取り込んで8,000の兵を集め、都の建康(現在の南京市)に迫った。籠城者は戦闘員が2万人、住民あわえて10余万人が籠城していたが、食糧の蓄えが尽きて、ネズミや雀の他、人肉も食べるような情況であった(『南史』)。翌549年、梁の援軍の到着により、いったんは和議が結ばれるが、2月末に侯景は再び宣戦布告した。籠城者のうち戦闘力のあるものはわずかに4000人に満たず、道には死体がいたるところに横たわり、埋葬もされないまま腐乱した遺体から流れた液汁が溝に満ちた。3月10日、建康は陥落した。城陥落後、難民は数10万に及び、さらに飢饉によって多数が死んだ(魏書島夷蕭衍伝)。武帝は台城に幽閉され、5月には武帝は失意のうちに憤死した。当時の梁は、分裂した東魏・西魏の勢力を凌駕する国力を持っていたが、東魏から投降してきた一将軍により都城が陥落した原因としては、梁国内に分封された宗室の諸王が相互に牽制し、武帝の救出を積極的に行う者がいなかったことが考えられている。武帝崩御後、侯景は簡文帝を擁立し、自らは相国・宇宙大将軍・都督六合諸軍事に就任した。しかし簡文帝が自立する動きを察知すると簡文帝を弑殺、蕭正徳を除き、予章王蕭棟を擁立した。この時、侯景は漢王を称している。天正元年(551年)10月、予章王から禅譲を受け、自らが皇帝に即位、国号を漢とし、元号を太始と定めた。しかし太始2年(552年)3月、江陵(湖北省)で梁帝に即位していた蕭繹が派遣した王僧弁及び陳霸先の義兵によって都を追われた。侯景は2人の息子を長江に溺死させ、腹心数十人と単舟で逃げた。その途上で、羊鵾(羊侃の三男)らの近侍に殺害された。侯景の遺骸は分割されて、首は江陵城門に掛けられ、両腕と両脚は北斉の文宣帝へ送り届けられ、胴体は建康の市に曝された。建康の庶民は侯景の肉を膾として喰らった。1937年の南京戦で日本軍による虐殺事件が起こったとされ、南京大虐殺(南京事件)と呼ばれるが、侯景による南京虐殺との歴史的関連性も指摘されている。
出典:wikipedia
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