城石 憲之(しろいし のりゆき、1973年4月17日 - )は、埼玉県さいたま市大宮区出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球コーチ。元フリーターという異色の経歴を持つ。からまで東京ヤクルトスワローズの選手会長。元妻はテレビ東京アナウンサーの大橋未歩。最初はサッカーをしていたが、リフティングが上手く出来ないためソフトボールに転向、中学時代は軟式野球部に所属していた。春日部共栄高校に進学後、野球部に所属して主将も務める。1991年には三番(または六番)・遊撃手として第63回選抜高等学校野球大会と第73回全国高等学校野球選手権大会に出場し、夏は初戦で敗退したが春に1勝を挙げる。夏の埼玉大会決勝では門倉健を擁する聖望学園高校を破った。高校通算7本塁打を記録。卒業後は青山学院大学に進学(同級生に坪井智哉がいた)するも、1週間で中退。大学中退後、ガソリンスタンド従業員として生活していたが、日本ハムファイターズの入団テストに合格し、1994年度プロ野球ドラフト会議において日本ハムから5位指名を受けて入団。日本ハムの入団テストに先んじてヤクルトスワローズの入団テストも受験しているが、こちらは不合格だった。入団3年目のにはフレッシュオールスターゲームに出場したほか、球団史上初のファーム日本選手権制覇に貢献した。のパシフィック・リーグ公式戦開幕前日、野口寿浩との交換トレードでプロ入り前の入団テストで不合格となったヤクルトスワローズへ移籍。このトレードの背景には、ヤクルトがプロ野球脱税事件による出場停止処分を受けた正遊撃手・宮本慎也の代役を探す必要に迫られていたという事情があった。宮本復帰後は主に二塁手として出場。4月2日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で、土橋勝征の故障のため八番・二塁手で初の開幕戦先発出場を果たす。に2度目の開幕戦先発出場(二塁手)を掴むも、4月28日に左肘を脱臼し、長期離脱を余儀なくされる(この脱臼の後遺症で、左肘は現在も真っ直ぐ伸ばせない)。しかし、この年は自己最高となる8本塁打を記録した。は土橋から二塁手のレギュラーを奪って自己最多の130試合に出場し、打率.256、安打92、本塁打2とまずまずの成績を残した。シーズン終了後、ヤクルトの選手会長に就任。は腰痛により開幕二軍スタート。4月25日に昇格すると本塁打を放つなど好調だったが、直後に帯状疱疹により医師から絶対安静を指示されるなど、不運が続いた。は田中浩康の台頭や、日本ハムから移籍してきた川島慶三が頭角を現したこともあり出場が激減、前半戦は主に畠山和洋の守備固めで出場した。後半戦は腰痛で離脱、打率.048に終わるなど苦しんだ。は腰痛に苦しみながらも、二軍で打率3割以上を記録。2002年の左肘脱臼に続いて右肘痛も重なったことから身体の限界を感じ、同年10月2日に現役引退を表明。同年10月12日の読売ジャイアンツ戦(明治神宮野球場)では1点を追う8回に代打で出場、越智大祐から左中間を抜ける二塁打を打ってチームの逆転勝利に貢献、試合後に花田真人と共に引退セレモニーが行われた。10月28日に、翌から一軍守備走塁コーチに就任することが発表された。9月28日から休養し、現役時代からの腰痛の原因である椎間板ヘルニアの手術を受けた。元々はシーズン終了後の予定だったが、ノックなどにも支障が出るため手術に踏み切った(週刊ベースボール2011年10月24日号より)。同年10月7日に復帰(休養中は、当時二軍内野守備走塁コーチだった土橋が代役を務めた)。限りでヤクルトを退団し、は北海道日本ハムファイターズの二軍打撃コーチを務め、翌年の2016年度からは一軍打撃コーチに就任となった。。
出典:wikipedia
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