小野寺 義道(おのでら よしみち)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。出羽国横手城主。小野寺輝道(景道)の次男。子に小野寺保道。永禄9年(1566年)、出羽国の武将・小野寺輝道(景道)の次男として誕生。母は鮭延氏出身といわれる輝道の側室。父・輝道が上洛し織田信長との会見、兄で嫡男の小野寺光道の病死、正妻の父・大宝寺義氏の横死など周辺情勢が混沌とするなか、天正11年(1583年)に父から家督を譲られた。武勇には優れていたが知略に乏しく、支配下にあった鮭延秀綱の離反、由利十二頭の人質の一部が自害したことによる領内の一揆発生、楯岡満茂の謀略によって家臣を誅殺するなど、次第にその勢力を減退。最上義光や戸沢盛安との戦いを通じて雄勝郡や平鹿郡の一部などの所領を失った。天正13年(1585年)、同盟勢力である庄内平野の大宝寺氏が、最上義光の侵攻を受けると、これに乗じて最上領への侵攻を開始した。ところが天正14年(1586年)、最上義光や戸沢盛安らが領内への侵攻を始め、天正15年(1587年)には盛安と和睦し、仙北七人衆をしたがえて秋田郡の秋田実季と戦っている。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めに参陣し、秀吉に謁見して、所領を安堵された。しかし、その後の奥州仕置において自領内で仙北一揆が起こったのを咎められ、天正19年(1591年)に所領の3分の1が没収され、上浦郡3万1600石を安堵された。没収された雄勝郡は最上氏の領土とされたが、父祖伝来の地であったため義道はこれを不服とし、雄勝郡の支配を継続しようとした。その後も豊臣氏に従い、同年には九戸の乱に従軍。文禄元年(1592年)、文禄の役においては肥前国名護屋に参陣し、その功績から叙位・任官した。文禄4年(1595年)、最上義光の謀略によって家臣・八柏道為を誅殺。その後、義光は雄勝郡を支配するため楯岡城主の楯岡満茂が率いる軍勢を湯沢城に差し向けた。湯沢城が落城した事を聞いた岩崎城主の岩崎義高は義道に援軍を要請したが、同日に今泉城、角間城、鍋倉城、植田城、新田目城が最上軍の猛攻にあったため義道は岩崎城の方には手が回らず、ほとんど援軍を出せなかった。その後、前森城主の原田大膳が岩崎城に夜襲攻撃をかけて湯沢城は落城した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初は東軍に与したが、のちに上杉景勝に味方し、西軍に寝返ったため、最上氏・六郷氏から攻撃を受けた。戦後の1601年に徳川家康によって改易され、弟・康道とともに石見国津和野に追放された。正保2年(1645年)、同地で80歳で死去した。以上のように中央の政争に振り回され、家の存続には失敗した人物ではあったが、その一方で人情味もあったようで、幽閉の身の自分を温かく遇してくれた津和野藩主・坂崎直盛が謀叛の疑いで自害に追い込まれると、秘かにその墓を建立したといわれている。その後、小野寺氏は坂崎氏の後を受けた津和野藩主・亀井氏の重臣となって明治維新を迎えた。赤穂浪士のひとり小野寺秀和は子孫だといわれる。
出典:wikipedia
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