明智 秀満(あけち ひでみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田家家臣の明智光秀の重臣。女婿または異説に従弟(明智光安の子)とも言う。同時代史料に出る実名(諱)が秀満で、当初は三宅弥平次と称し、後には明智弥平次とも名乗っている。俗伝として光春の名でも知られ、明智光春や満春の名でも登場する。左馬助(左馬之助)の通称も有名。俗伝では幼名は岩千代、改名して光俊とも言うが、その他にも複数の別名が流布している。秀満は当初、三宅氏(三宅弥平次)と名乗っていた。三宅氏は明智光秀の家臣として複数の名前が確認できる。また俗伝では、明智光秀の叔父とされる明智光廉が三宅氏を名乗ったとも言われる。一説には父の名を三宅出雲、あるいは美濃の塗師の子、備前児島郡常山の国人・三宅徳置の子という説もある。『明智軍記』などによると、秀満(同史料では「光春」)は明智氏の出身とされる。明智光秀の叔父である明智光安の子(「明智氏一族宮城家相伝系図書」によると次男)であり、光秀とは従兄弟の関係にあったとされている。別号として三宅氏を名乗った時期もあるとされている。明治期に阿部直輔によって謄写校正された『恵那叢書』(鷹見弥之右衛門著)によると、明智光春(秀満)の父・光安が美濃国明知城主である遠山景行と同一人物とされており、それを参考にして遠山景行の子である遠山景玄が明智光春と同一人物、そして明智光春が秀満ではないかとの説が出されている。遠山景玄は元亀3年(1572年)上村合戦で戦死しているが、この説によると史料の不整合もあり誤伝であるという。また遠山景行の妻が三河国広瀬城主三宅高貞の娘であるため、遠山景玄の母に相当する三宅氏の跡を継いだという補説もある。江戸前期の随筆『武功雑記』では近江国大津の白銀師の子であったと伝えている。秀満の前半生は『明智軍記』を始めとする俗書でのみ伝わっているが、それは秀満の出自を明智氏と断じていることに留意する必要がある。明智氏説では、明智嫡流だった明智光秀の後見として、長山城にいた父・光安に従っていたが、弘治2年(1556年)に斎藤道三と斎藤義龍の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ落城。その際に父は自害したが、秀満は光秀らとともに城を脱出し浪人となったとする。天正6年(1578年)以降に光秀の娘を妻に迎えている。彼女は荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため離縁されていた。その後、秀満は明智姓を名乗るが、それを文書的に確認できるのは、天正10年(1582年)4月である。天正9年(1581年)、丹波福知山城代となる。天正10年(1582年)、光秀が織田信長を討った本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き、羽柴秀吉との山崎の戦いでは光秀の後詰めとして打ち出浜で堀秀政と戦うが敗れ、坂本城に入った。秀吉方の堀秀政軍に城を囲まれた秀満は、光秀が所有する天下の名物・財宝を城と運命を共にさせる事は忍びないと考え、それら名物をまとめて目録を添え、天守閣から敵勢のいる所に降ろした。そして「寄せ手の人々に申し上げる。堀監物殿にこれを渡されよ。この道具は私物化してはならない天下の道具である。ここで滅してしまえば、この弥平次を傍若無人と思うであろうから、お渡し申す」と叫んだ(『川角太閤記』)。しばらくの後、直政と秀政が現れ「目録の通り、確かに相違ござらぬ。しかし日頃、光秀殿が御秘蔵されていた倶利伽羅の吉広江の脇差がござらぬのは、如何いたしたのか」と返すと「その道具は信長公から光秀が拝領した道具でござる。吉広江の脇差は貴殿もご存じの如く、越前を落とした際に朝倉殿の御物奉行が身に差していたもので、後に光秀が密かに聞き出し、これを求めて置かれたもの。お渡ししたくはあるが、光秀が命もろともにと、内々に秘蔵されていたものなので、我が腰に差して、光秀に死出の山でお渡ししたく思う。この事は御心得あれ」と秀満は返事し、秀政・直政らも納得した。6月15日の夜、秀満は光秀秘蔵の脇差を差したまま、光秀の妻子、並びに自らの正室を刺し殺しあるいは介錯し、自ら城に火を放って自害したとされる。享年は俗書に従えば47。『兼見卿記』では、同年に処刑された秀満の父(名は不明)は享年63とされる。明智光秀を江戸初期の政僧・天海の前身とする説は有名だが、秀満こそ天海大僧正とする説がある。もしくは光秀と2代で天海であったともされる。天海の出自は奥州蘆名氏であるとされるが、使用した家紋が遠山氏と三宅氏の家紋(丸に二引両と三宅輪宝)と同じであるため、上記の遠山景玄が天海にまでなったという説もある。「丸に二引き両紋」と「三宅輪宝紋」は今日においても喜多院あるいは上野の輪王殿両大師堂、日光山輪王寺三仏堂で見ることができる。坂本城の近くの盛安寺(天台真盛宗)には、秀満が僧衣に着替えたという伝承があり、天台真盛宗本山の西教寺には、その鞍が置かれている。当初は、鎧兜(現在、東京国立博物館所蔵)や陣羽織も西教寺に保管されていたという。秀満の遺児が後に細川家に仕え、三宅重利を称したとも言われている。秀満の庶子、太郎五郎が、幕末に活躍した坂本龍馬の先祖であるという説がある。秀満(光春)の嫡系として宮城氏があるとする史料が存在し、それには彼の事績の他、近親の詳細なプロフィールが掲載されている。
出典:wikipedia
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