石 虎(せき こ)は、五胡十六国時代の後趙の第3代皇帝。唐代に編纂された『晋書』では、唐の高祖李淵の祖父である李虎の諱を避けるため、字の季龍を用いて石季龍と記されている。石勒(後趙の初代皇帝・明帝)の従子(甥もしくは1世代下の親族)であり、石勒の没後、石弘から帝位を奪って皇帝になった。石虎は将として有能だったことから石勒に信頼され、後趙の華北周辺の平定に多大な貢献をした。しかし同時にその暴虐さでも知られ、後趙の天王を称した際には非道な法律、重い税金と労働を課し、それを大宮殿を建てたり妾を集めることに費やした。その没後は、子の石祗らと養孫の冉閔が後継争いを繰り広げ、後趙の崩壊を早めた。石虎の父・石寇覓は石勒の父・周曷朱の従兄弟の子にあたる。早くに両親を失った石虎は、石勒の両親の周曷朱と王氏に養育されたため、石勒の弟ともされた。太安2年(303年)、并州の大飢饉のため羯族は部落離散し、石虎は石勒から離れた。のちに石勒が前趙の有望な将となると、并州刺史の劉琨が石虎と石勒の母を見つけ、東晋に来るよう説得する使者とともに石勒に送ったが、石勒は礼品を送ったものの誘いを受けなかった。もともと羯族は姓を名乗らず、石勒の「石」姓も友人の汲桑が決めたものである。したがって石勒が石虎にその名と、自身の字「世龍」と対になる「季龍」の字を付けたのもこの頃だと思われる。石虎は石勒の軍中で育ったが、軍律を守らず、狩りを好むことで知られ、弾弓で人を打つのを楽しみとした。評判があまりにも悪いので、石勒が殺すことも考えたほどだったが、母王氏が石虎が乱暴なのは若いからだと言い張ったため思いとどまった。18歳になると、その勇猛さと騎射の腕から軍に恐れられるようになった。石勒は郭栄の妹を石虎の正妻にしたが、石虎は妾の鄭桜桃のほうを好み、鄭桜桃にそそのかされて郭氏を殺した。次いで正妻となった崔氏も同様に殺された。石虎は戦中の残虐さでも知られており、有能であったり意に従わない将がいると処刑した。また、占拠した町の全人口を殺してしまうことも多々あった。石勒はたびたび石虎を責め叱ったが、石虎が振る舞いを変えることはなかった。しかし石虎の度量は広く、恐れずに戦ったので石勒に多用された。石虎はしだいに、石勒が信用していた程遐や徐光と対立するようになった。趙王8年(326年)、石勒は程遐の助言に従って石弘に鄴を任せた(この時、禁兵と車騎将軍の全てが石弘の配下に移され、王陽が非漢族の統率者にされた)ので、石虎は鄴を出なくなければなくなった。石虎は報復として、覆面をした兵に程遐の家を夜中に襲わせ、家にいた者の身ぐるみを剥いで強姦をした。建平元年(330年)に石勒が天王を称すると、石虎は太尉・守尚書令・中山王とされ文官の首位に立ち、長男の石邃が冀州刺史・斉公となったが、自分ではなく石宏が大単于となったのが気に入らず、ひそかに石勒の座を狙ってその死を望むようになった。石勒はこれに対抗するため、以前は石虎に任せていた政治的な決断を厳震や太子石弘にやらせるようになったが、この行為は石虎の怒りを増幅させた。石勒が建平5年(333年)に病床に就くと、石虎が看病をして外部から遮断し、石勒の代理のようになった。こうして情報を操作し、石宏を秦王に、彭城王の石堪を首都襄国に就かせて留めた。石勒が崩御すると、石虎は太子石弘を擁して、程遐と徐光を処刑させた。恐れた石弘は位を石虎に譲ろうとしたが、石虎は許さずに即位させた。圧力の下、石弘は石虎を魏王・丞相、石邃を魏太子にして九錫で祝った。石勒の重臣だった者は無力化され、代わりに石虎の配下が力を持つようになった。石勒の皇后劉氏と石堪はこれに対して蜂起しようと図ったが、石堪が廩丘で失敗し、石虎に捕まり非道に焼き殺された。劉氏が関わっていたことも後に露見して処刑された。同年、河東王の石生が長安、石朗が洛陽の守りのため石虎に宣戦布告し、東晋の援助を求めた。蒲洪(後の苻洪)も背いて前涼の援助を期待した。石虎はたやすく石朗を攻め捕らえ殺害して、長安を石挺と共に攻めたが、石挺は石世の将郭権に敗死し、石虎は撤退した。しかしこの勝利を知らなかった石世は、鮮卑の涉瑰が背いた途端に恐れて長安を棄て、逃避行の途中で殺された。郭権は天水へ奔ったが翌年殺された。蒲洪は降伏して赦された。これにて石虎の権力への抵抗はおおかた終息する。延熙元年(334年)、石弘は玉璽を持って石虎を訪ね、禅譲を求めたが、石虎は皮肉げに拒んだ。同年、石虎は石弘を廃して海陽王とし、その母と石宏と石恢を殺させた。臣下は即位を勧めたが、石虎は「摂政天王」を称した。建武元年(335年)、石虎は後趙の首都を襄国から鄴へ移した。建武3年(337年)に大趙天王となり、鄭桜桃を天王皇后、石邃を天王皇太子とした。一方で、以前は王だった子らを公に下げた。皇太子となった石邃(石虎と同様に残虐な性格で、女を斬首して食すことを楽しみとしていた)は重用な判断をよく任されていたが、それを報告すれば「細かいことを報告するな」と、報告しなければ「何故しなかった」と石虎に怒鳴られ、ときには鞭打ちにされていたので、石虎の殺害を企てた。これが露見すると、石虎は共犯の側近を殺して石邃を幽閉した。しかし石邃が謝らなかったため、石虎は怒って妻の張氏と26人の子と共に殺し、一つの巨大な棺に収めた。さらに鄭桜桃を太妃に落とし、代わりに皇太子となった石宣の母杜珠を皇后とした。しかし石虎は石宣と同腹の石韜も可愛がったため、2人は対立した。建武14年(348年)、石虎が寵愛していた石韜が石宣の諱と被る「宣光殿」を建てようとしたことをきっかけに、地位を奪われることを恐れた石宣は石韜を殺害し、さらに石虎も殺そうと考えた。この計画は、石宣が兄弟の死を弔う様子がなかったことを石虎が怪しんだので、早々に露見した。石虎は石宣とその臣下を捕まえ幽閉し、仏図澄の忠告を聞かずに惨殺し、皇后杜珠を庶民に落とし、宗族や臣下をみな殺して、側近を涼州に追放した。なお、石虎が可愛がっていた石宣の末子だけは腕に抱えて赦すことを考えていたが、処刑官が許さずに子を取り上げて処刑した。これにショックを受けた石虎は発病した。同年、新たに太子を立てることになり、燕王石斌(養子、明帝の子)、彭城公石遵(九男、石邃の同母弟)のうちから選ぼうと考えたが、張豺の助言(先の太子2人が刃向かったのは母親の出自が低いから、というもの)に基づき、斉公石世(劉曜の娘劉氏の子)が選ばれ、劉氏が皇后に立てられた。太寧元年(349年)に天王の称号を廃して皇帝の位につき、公であった子を王にした。しかし、大赦があったにもかかわらず許されなかった梁犢(石宣の側近であった)を中心に、大規模な反乱が起きた。石虎が送った軍はことごとく敗れ、羌将の姚弋仲が負かすまで鎮圧されなかった。これを機会に姚弋仲は、後継が若すぎて危険だと説得しようとした。石虎は姚弋仲を尊重していたものの、聞き入れなかった。同年、病状が悪化すると、石遵を大将軍、石斌を丞相にして石世の摂政をさせようとした。しかし、自身が摂政する腹積もりであった劉皇后と張豺は、石遵を左遷、石斌を幽閉し、石虎が危篤になると殺した。石虎が病没すると、石世が跡を継いだが、わずか33日後に石遵に弑された。その石遵も弟の石鑑に弑され、石鑑は石閔に殺された。翌年、石閔は羯族と匈奴を虐殺すると、本来の姓の冉閔を名乗り、冉魏を打ち立てた。これに対抗して石祗が後趙の皇帝を称したが、翌年には石祗も殺された。石虎の死後2年、一連の内乱の後に後趙はほぼ滅び、代わって冉魏、前秦の苻洪(姓を改めた蒲洪)、前燕の慕容儁らが台頭した。石虎の治世は石虎自身の暴虐非道な性格を反映して、乱世である五胡十六国時代の中でも最も非道がまかり通った時代と評されている。中でも次々に大宮殿を造営したり、統治下の漢人から馬、美女、物資などありとあらゆるものを徴発し続けた結果、漢人の10人に7人が破産し、妻を取られて自殺する者も後を絶たなかったという。建武2年(336年)、石虎は宮殿の建造を始めた。太武殿ほか九つの宮殿を建て、美女を選んで入れた。これらを建てるため重税や労働を課し、人民を疲弊させた。建武8年(342年)、これらの建造事業に加え、対外戦争にも力を入れようと大規模な徴兵や徴発を行ったが、結果として賄賂が横行したり、自殺者が続出したりした。対外戦争の計画は、趙攬の助言により取りやめになった。石虎は凶暴な性格ではあったが、仏教に対しては寛容で、自ら仏教徒を称しており、仏図澄を国師待遇した。建武元年(335年)、石虎は税や労働から逃れるため仏僧になる者に立腹したので、庶民が出家することを違法とすることも考えた。しかし、臣下があまりに過剰な法を提案したので取りやめた。
出典:wikipedia
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