若羽黒 朋明(わかはぐろ ともあき、1934年11月25日 - 1969年3月2日)は、神奈川県横浜市中区曙町出身で、1950年代から1960年代にかけて活躍した大相撲力士である。本名は草深 朋明(くさぶか ともあき)。立浪部屋に所属していた。最高位は東大関(1959年11月場所、1960年1月場所など)。得意手は左四つ、寄り、押し。現役時代の体格は176cm、150kg。冬が近く朝晩が冷え込むようになった1934年晩秋(同年11月25日)に、神奈川県横浜市でクリーニング店を営む、草深栄吉の長男として誕生した。後に愛称にもなる「ドライ坊や(ボーイ)」は、実家がクリーニング店であることに由来している。子供の頃から体格が良く、小学校の頃は1年生にも関わらず相撲で6年生を破る程で、近所ではわんぱく大将として鳴らした。横浜市立吉田中学校では水泳選手として活躍していたが、中学3年生のある日に、父親と親しかった行司(後の19代式守伊之助)が自宅へ訪問して相撲部屋への入門を勧められた。だが、あまりの突然さに戸惑ったため、まずは観戦ということで相撲観戦に連れて行かれた。それでも入門を尻込みしていると、立浪親方(元小結・緑嶋)から「部屋でゆっくり遊んで行きなさい」と言われたために2~3日遊んでいるうちに北海道巡業に誘われ、現地で「廻しを付けて相撲を取ってみろ」と言われて自然に立浪部屋へ入門した。新弟子検査では入門前の激しい稽古から体重が基準を下回っていたため、直前に水をがぶ飲みして受験したが、21貫と言われて足元を見ると立会人かつ立浪部屋付きの親方だった白玉親方(元前頭10・大八洲)が計りに片足を載せて助けていた。1949年10月場所にて、14歳の若さで初土俵を踏んだ。1950年1月場所より番付に自身の名が記されたが、四股名はどうしても「若」の字が欲しいとのことで、同部屋の大先輩である横綱・羽黒山政司に因んだ「若羽黒」に決まった。以来順調に出世し、1954年3月場所で新十両昇進。1955年3月場所で新入幕を果たすが、この時、20歳3ヵ月という若さであった。1956年3月場所では東前頭15枚目で12勝3敗と好成績を残し、朝汐太郎・若ノ花幹士との優勝決定巴戦に出場した。しかし、さすがに平幕下位の若羽黒には荷が重く、あっさり敗退してしまった(優勝は朝汐)。だが、この活躍が認められて、初の三賞となる敢闘賞を受賞した。その後は幕内上位から三役に定着し、1959年9月場所では関脇で12勝3敗と好成績を収めて場所後に大関へ昇進。尚これは1958年に大相撲本場所が年6場所制となって以降、若羽黒が史上初めての大関だった。その新大関の同年11月場所では、13勝2敗と入幕以来、自己最高の成績を挙げ幕内最高優勝を遂げた。そしてこの優勝を、同場所限りで引退する「ひげの伊之助」こと、19代式守伊之助への餞とした。同年12月には、自身の大関昇進披露と結婚披露宴を帝国ホテルにて同時に開催し、長嶋茂雄らが参列して祝福した。新大関の場所で幕内最高優勝を果たしたことから、周囲からは「押しの横綱が誕生か」と言われ始めた。若羽黒の体型はゴムまりを思わせる球体のようなアンコ型で、しつこくネチネチと押して行く独特の押し相撲が持ち味だった。しかし、綱獲り場所となった1960年1月場所で不覚にも7勝8敗と負け越しを喫すると、それ以降は横綱昇進どころか2度と「綱獲り場所」を迎えることができなかった。同年11月場所では後に大横綱とされる大鵬幸喜(当時、関脇)が13勝2敗で初の幕内最高優勝を果たしたが、10日目に彼を破って、同場所では12勝3敗と大きく勝ち越した。また、1961年1月場所では後に大鵬と共に「柏鵬時代」という大相撲の黄金時代を築くことになる柏戸剛(当時、大関)が13勝2敗で幕内最高優勝を果たすが、若羽黒は柏戸に対しても同じく10日目に土を付けて(若羽黒の同場所での成績は、10勝5敗)、さらにこの際「オレは柏鵬の反逆児」と発言した。しかしそれ以降は稽古不足が災いしてか、大関・若羽黒は場所終盤まで優勝争いに絡むことは一度も無くなった。1961年7月場所は5勝10敗、9月場所は全休と連続負け越し。若羽黒自身初めての大関角番となった1961年11月場所は、11日目に柏戸に敗れて7敗目となり絶体絶命の大ピンチ、翌12日目には大鵬に敗れてついに8敗目を喫し、3場所連続負け越し(当時の規定により)で大関陥落が決定。同場所は結局5勝10敗に終わってしまい、結果的に柏戸・大鵬への「反逆」は、返り討ちに遭う皮肉な結果となった(この場所後、柏戸・大鵬の両者は揃って横綱へ昇進した)。1961年11月場所での大関陥落後は、関脇で9勝6敗・10勝5敗・8勝7敗と3場所続けて勝ち越して、元大関の実力を示した。だが、1962年7月場所で右足首関節の捻挫で途中休場すると平幕中位へ転落、以後は2度と三役へ返り咲けなかった。そして、1965年3月場所が始まる直前に廃業(当時。現在は引退)を表明、30歳で角界を去っていった。大関経験者であったものの、年寄名跡を取得できなかったために日本相撲協会に残ることを断念し、廃業の憂き目を見ることとなった。力士としての素質は素晴らしいものだったが、性格にムラが大きかったのに加えて、大の稽古嫌い・大の賭博好きで借金を作るなどの力士としての生活の乱れもあった。このために引退相撲も開催できず、断髪式は同年7月に、神奈川県三浦市内のホテルでひっそりと行われた。廃業後は東京都北区でおにぎり屋「若」を経営したが、同年5月に拳銃をハワイから山口組系国粋会へと密輸入したことが発覚してその後逮捕され、その自供から警視庁が立浪部屋などを捜索した結果拳銃3丁が押収された。これは、現役時代に対戦した大鵬・柏戸までもが書類送検された角界拳銃密輸事件に発展。この事件がきっかけでおにぎり屋も閉めることとなり、妻子とも離縁した。若羽黒は刑務所暮らしを経て翌年にようやく釈放されたが、この窮状を見かねたかつてのファンの誘いで岡山県岡山市にある相撲料理店「軍配酒場」の副店長に就任し、そこでは心機一転してよく働いた。しかし、1969年3月2日に脳塞栓症のため、岡山市内の病院にて亡くなった。。大関にまで昇進し、幕内最高優勝の経験もある元力士としては寂しい末路だったが、拳銃密輸事件の後にようやく掴んだ更生の機会も病によって奪われてしまったことは誠に哀れだった。前述のように、ゴムまりを思わせる球体のようなアンコ型の力士で、しつこく相手を土俵際まで押す独特の押し相撲が持ち味だった。その一方で、大の賭博好き・稽古嫌いで、イメージとしては損をしている。それでもビデオで自分の相撲を何度も見て独特の押しの型を完成させる研究熱心な面や、年老いた師匠・立浪の世話を進んで行ったり、羽黒山政司の娘(小林千恵子、のちに安念山治(後の羽黒山治)と結婚する)の小学校時代に勉強を教えるなど優しい一面もあった。この押し相撲は並の力士には威力を発揮したが、同じ押し相撲を繰り広げた朝潮太郎には分が悪く、通算で3勝21敗と大きく負け越している。また速攻型の栃錦清隆には3勝16敗、若乃花幹士にも3勝24敗、特に若乃花には初顔から16連敗と全く歯が立たなかった。1959年7月場所で若乃花に初めて勝利したが、制限時間一杯から3度も待ったを繰り返して怒らせての勝利だったことから全く評価されず、「土俵態度があまりにも悪い」との理由で、11勝4敗と大きく勝ち越しながら三賞候補に名前が挙がらなかった。時には押し切る稽古に堪えられず、「沢庵石じゃあるまいし、押してばかりいられるか」と音を上げたこともある。
出典:wikipedia
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