飛行機の歴史(ひこうきのれきし)について、大まかな発展の状況と各時代を象徴する機体について解説する。関連する項目については#関連項目のセクションを参照。アメリカのライト兄弟は、1903年12月17日に飛行機(動力を備えた重航空機)「ライトフライヤー号」による世界初の本格的な有人飛行を行った。この機体はただ飛んだだけではなく、下記の技術的特徴を備えていた。ライト兄弟以後、飛行機はより速くより高くより遠くへ飛べるよう改良が続けられた。また陸上の飛行場だけでなく、海面や軍艦の甲板からも発進できるようになっていった。この時代の機体構造はフライヤー号と同じく木製の骨組に羽布張りが主体だった。また操縦桿による操縦方法も現在と同じ方式に統一されていった。第一次世界大戦では、飛行機は最初偵察機として使用された。当初敵の偵察機と遭遇しても「同じパイロット仲間同志」としてハンカチを振り合ったという逸話があるが、すぐにピストルを撃ち合うようになり、武器自体も機関銃へと進化して戦闘機が生まれた。また敵地上空まで飛んでいって爆弾を落とす爆撃機も誕生した。イギリスは世界最初の雷撃機を製造した。一部の機体では骨組みや外板に金属が用いられるようになった。飛行機は第一次世界大戦で大きく発展し、信頼性も向上した。そこで戦後は飛行機による本格的な輸送が開始された。最初は上流階級による旅行のための旅客機や郵便運送に利用されたが、機体が大型化するにつれて一般の金持ち階級も利用できるようになっていった。大洋を渡る路線や長距離を飛ぶ大型機としては、離着陸や万が一の際に広大な海面が利用できる飛行艇が充当された。骨組や外板全てをアルミニウム合金(ジュラルミンなど)で製作した全金属製の機体が開発されたが、鋼管骨組に羽布張り等の構造を持つ機体も残っていた。また1930年代には高揚力装置(フラップ)が実用化され離着陸特性が改善された。第二次世界大戦で飛行機は戦闘の主役となった。陸上・海上を問わず制空権を握った側が戦いに勝利した。大戦初期にドイツがポーランドやフランスに侵攻した作戦は、その進軍の速さから電撃戦と呼ばれたが、ドイツ空軍戦闘機による制空権の元での多数の爆撃機による攻撃が侵攻の速さを支えた。ドイツがイギリス侵攻を目指した航空戦バトル・オブ・ブリテンでは、ドイツ戦闘機は本国上空周辺での戦闘しか想定しておらず、爆撃機に対し充分な援護ができなかった。その結果ドイツ爆撃隊はイギリス防空戦闘機によって重大な損害を受け、イギリスへの侵攻は断念された。地中海では、イギリスは有力な航空母艦勢力を利用してジブラルタルからイタリアの鼻先にあるマルタ島を経由しアレキサンドリアに達する地中海のシーレーンを維持した。イギリス空母イラストリアスに搭載された攻撃機は、1940年11月11日の夜、イタリアのタラント軍港を雷爆撃し、停泊注のイタリア海軍の戦艦2隻を大破着底させ他の艦にも損傷を与える大戦果を上げた。大西洋では戦争初期に大いに暴れまわったドイツの潜水艦(Uボート)であったが、1943年以後アメリカで大量生産された護衛空母に搭載された飛行機による対潜作戦が始まると形勢は全く逆転した。戦争末期ドイツ本土は昼間はアメリカのB-17、夜間はイギリスのランカスターという4発重爆撃機コンビの攻撃を受けて荒廃していった。これらの攻撃に対しドイツは高速のジェット戦闘機やレーダーを装備した夜間戦闘機を開発して対抗したが、米英の物量の前に敗北した。なお世界初のジェット機はドイツのエルンスト・ハインケルが完成させ1939年8月に初飛行したHe 178だが、この機体は実用化されなかった。アジアでは日中戦争が勃発していた。大陸奥地へ退いた国民党軍を攻撃するため、航続距離の長い日本海軍の陸上攻撃機が重慶などの都市を爆撃した件は戦略爆撃の始まりと言われている。この爆撃でも中国軍戦闘機による被害が大きく、爆撃機のみの侵攻が危険であることが明らかになった。太平洋戦争は1941年12月8日日本空母6隻から発した雷撃機・爆撃機・護衛戦闘機隊によるハワイ・真珠湾攻撃から始まった。この攻撃で戦艦2隻が沈没、4隻が大破着底した。アメリカ太平洋艦隊は、その後航空母艦を主力とする戦法に切り替えた。2日後の12月10日には、航行中のイギリス戦艦2隻が日本の陸上攻撃機の雷爆撃で撃沈され、海上での航空優位が明らかとなった。戦争が長引くにつれアメリカの生産力が生む大量の航空機が太平洋を制し、日本の海上戦力を壊滅させ輸送能力を奪った。日本が占領していた島々も補給が途絶え戦力を喪失し、順次アメリカに奪われていった。アメリカはこれらの島々に飛行場を整備し、大型爆撃機B-29を発進させ戦略爆撃を行い日本の継戦能力を奪った。B-29は最後に実験的に広島と長崎に原子爆弾を投下し、日本は敗戦を迎える。第二次世界大戦中、陸上輸送機による長距離・高速輸送が定着し、飛行艇はその存在意義を低下させていった。この時代に作られた機体は殆どが全金属製であったが、イギリスやソ連では木製機も登場した。機体の高速化に伴い離着陸性能改善のための高揚力装置(フラップ)は不可欠となったが、一部の機体ではフラップを空中での運動性改善にも応用した。ライト兄弟以来のガソリンエンジンは排気タービンの使用により殆ど完成域に達した。また高空を飛ぶ大型機には与圧室が採用されるようになった。大戦末期に実用化されたジェットエンジンは直ちに軍用機に採用され、戦闘機や爆撃機はジェット化されていった。また後退翼や三角翼に関する技術もドイツ敗戦直後にソ連とアメリカに流出し、戦闘機や爆撃機の高速化に貢献した。レシプロエンジン爆撃機や直線翼ジェット戦闘機は朝鮮戦争でその使命を終了した。またそれまで超えることができないと考えられていた音の壁はアメリカのロケット実験機 X-1 により突破され、その後は超音速飛行が可能な戦闘機が続々と製作された。1948年のベルリン封鎖では、旧ソ連に陸路を封鎖されたベルリン市に対しアメリカ空軍を中心とした航空輸送が行われ、飛行機のみで大都市の機能が維持された。民間航空のジェット化はイギリスがコメットで先鞭をつけたが、その後は大量のアメリカ機に圧倒されていった。飛行機の大型化・高速化に伴い、人力による直接の操縦は不可能となり、油圧アクチュエータを介して舵面を操作する方式が一般化した。飛行機はこれまで「より速く・より高く・より遠くへ」と発展してきたが、1960年代には、飛行速度・高度・航続距離とも実際上頭打ちとなった。ジェット戦闘機の速度は、熱の壁などの問題からほぼマッハ2が相場となり、旅客機の飛行高度も10,000 m付近が効率的に運用できる最良な高度である。長距離飛行する機体は、地球の裏側へ到達可能な航続性能を有するようになった。
出典:wikipedia
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