中田 賢一(なかた けんいち、1982年5月11日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(投手)。妻はフリーアナウンサーの角野友紀。北九州市立永犬丸小学校では3年生から父親がコーチ・監督を務めるチーム(永犬丸レッドライオンズ)でソフトボールを始めた。北九州市立沖田中学校では硬式野球の上津役ロビンスに所属し本格的に野球を始めた。高校は地元の進学校福岡県立八幡高等学校へ進学。0時間目からの授業や夏休みの補習等、進学校特有の授業構成の中勉強との両立に苦しみながら練習を積んだ。三塁手兼控え投手だったが、2年秋からエースとなった。3年春は県北部大会8強、夏は県大会3回戦敗退と甲子園出場は叶わず無名のままだった。高校3年時での速球の最高球速は130km/h台後半だった。大学は公立の北九州市立大学へ進学。野球の練習時間を確保するため経済学部経済学科・夜間コースに在籍し、昼間に練習して午後6時から講義を受ける毎日だった。大学2年時より頭角をあらわし、2年春秋にリーグの連続ベストナインを獲得した。無名公立校の快腕としてプロや米大リーグのスカウトから注目を浴びるようになった。3年時には球速も150km/hをマーク。9月に内転筋を痛めたのをきっかけに、後にマンツーマンで肉体改造を行う新日本製鐵八幡硬式野球部のトレーナーだった宗廣誠一と出会った。大学4年時は九州六大学春季リーグにおいて母校を39年ぶりに優勝に導き、全日本大学選手権大会出場を果たした。3チームによる優勝決定戦で1日で2試合を完投した。第1試合では9回を完投し勝利、わずか45分の休憩後、第2試合も延長11回を完投しサヨナラ勝ちし、1日で2試合20イニング310球を投げ抜き、リーグ制覇を決めた。このとき両親から渡されたお手製のお守りをポケットに入れてマウンドに立っていたという。また最多勝、特別賞(リーグ通算300奪三振)、ベストナイン、MVPを獲得した。全日本大学選手権大会では創価大に勝ち、神宮初勝利をあげた。また同年は日米大学野球選手権大会日本代表にも選出された。秋季リーグ戦では久留米大相手にノーヒットノーランを達成した。10月中旬に部員の不祥事発覚により、ユニバーシアード記念九州大学野球選手権大会には出場できなかった。11月17日のドラフト会議で、中日ドラゴンズから2巡目指名を受けてプロ入りを果たした。北九州市立大学から初めて直接プロ入りした選手(北九州市立大出身のプロ野球選手は森山良二以来二人目)。本人も中日以外の指名時は社会人へ進むことを明言しており、相思相愛の入団となった。中日入団に際して、杉下茂、権藤博、星野仙一、小松辰雄ら中日の歴代エースが背負った伝統の背番号20番を引き継いでいる(前シーズンまで着けていた川崎憲次郎が引退して空き番号となっていた)。中日では1998年の川上憲伸以来となる新人での開幕ローテーション入りを果たした。開幕3戦目となる4月3日の対横浜ベイスターズ戦にプロ初登板初先発し、4回まで相川亮二のセンター犠牲フライのみの1失点と好投していたが、3点リードの5回二死無走者から代打・万永貴司に死球を与えると、連打で2点差、さらに満塁とし佐伯貴弘のタイムリー打で同点とされ降板、後続の鈴木義広、高橋聡文に走者を返され4回0/3を投げ6失点の逆転負けというデビューとなった。先発2試合目となる4月15日に本拠地・ナゴヤドームで行われた対阪神タイガース戦では8回まで4安打無失点と好投、その後9回に金本知憲にツーランホームランを打たれて降板したがプロ入り初勝利を手にした。5月12日の対西武ライオンズ戦で5回2点ビハインドからリリーフとして初登板し、2イニングを無失点に抑えた。5月15日の対福岡ソフトバンクホークス戦では2番手でリリーフ最長となる4イニングを無失点に抑えた。5月22日の対千葉ロッテマリーンズ戦でプロ最短の2回2/3で7失点ノックアウトとなりチームを首位から陥落させ、翌日5月23日に二軍降格となった。この時点での防御率は6.25だった。5月29日のウエスタン・リーグ対広島東洋カープ戦に先発し4イニングを投げた後、右足内転筋に違和感を覚え、5月31日に名古屋市内の病院で検査の結果、右足内転筋の肉離れと診断された。8月4日のウエスタン・リーグ対広島戦に先発し、故障後初の実戦登板で4イニング無失点、毎回の8奪三振と好投した。8月21日に再昇格すると、同日の対横浜戦で先発して7回を無失点に抑えて勝利した。その試合も含めて先発6試合で6連勝を挙げ、ルーキーイヤーでの6連勝は1979年藤沢公也以来の球団タイ記録となった。再昇格後の7試合は防御率1.78という好成績で投手陣を引っ張った。新人王は青木宣親に奪われたが、中日スポーツ制定の昇竜賞新人賞を受賞した。4月4日開幕第4戦の対横浜戦で先発したが4回途中でノックアウトされて1試合で先発ローテーションを外された。4月12日の対阪神戦で3点ビハインドから2番手で登板し、先発の走者は全て返したが、自身は2回2/3を無失点だったため、4月18日から再び先発へ戻った。4月30日の対読売ジャイアンツ戦でプロ2年目にして初となる中4日で先発したが3回1/3を6失点と炎上し、5月3日に右手中指の爪割れと右足内転筋痛で出場選手登録を抹消された。7月8日に一軍へ復帰し、同日岐阜県長良川球場で行われた対横浜戦で7回7点リードから3イニングを5奪三振無失点に抑えてプロ入り初セーブを記録した。7月16日から再び先発ローテーションへ復帰、8月15日に1試合ロングリリーフでの登板(敗戦)があったが、シーズン終了までローテーションを守った。秋田県立野球場で行われた9月12日の対巨人戦ではプロ入り後初の完投勝利を挙げた。QS率64.7パーセントで7勝4敗とまずまずの成績を残した。日本シリーズでは10月25日第4戦で初先発したが、4回1失点の内容も打線の援護なく敗戦投手となった。シーズン終了後、中里篤史らとともにドミニカ共和国のウィンターリーグへ参加し、1試合に先発し3回1/3を投げ3失点、防御率8.10という結果だった。なお好投した11月12日、11月19日の試合は公式記録には含まれていない。春は2月23日の紅白戦を最後に父の看病・葬儀などで戦列を離れ、3月5日から練習を再開した。4月1日の開幕第3戦からローテーション入りし、先発で3連勝した。しかし続く4月22日の対東京ヤクルトスワローズ戦では自己ワーストとなる10失点(自責10)を記録し、チームを首位から陥落させた。変化球の制球に苦しみ与四球がかさみ、6月10日以降1ヶ月以上勝ち星がつかない時期が続いた。7月18日の対東京ヤクルトスワローズ戦では6回1点リードの場面から救援登板し、2イニングを無失点に抑えてプロ入り初ホールドを記録した。オールスターゲームに監督推薦選手として選出され、7月21日第2戦に2番手として初出場を果たし、1失点こそしたものの151km/hの速球などで2イニングで3三振を奪った。8月19日の対横浜戦で先発し、プロ入り初となる2桁勝利を達成した。シーズン終盤まで内海哲也(巨人)と熾烈な奪三振王争いを繰り広げた。トップと11個差で迎えたシーズン最終登板の10月6日のヤクルト戦では、5回までで8奪三振と快調なペースで進み、このまま続投すれば奪三振王のタイトルをほぼ確実に手中に収めるのではないかと思われたが、クライマックスシリーズへ向けての他投手陣の調整登板のため5回終了後にマウンドを降り、惜しくも初のタイトル獲得を逃した。同年は1度も出場選手登録を抹消されず、自身がシーズン前に掲げた「2桁勝利と一年間一軍」という目標を全うし、チームトップ、リーグ2位タイの14勝を記録した一方、与四球・暴投数がリーグ最多となるなど、制球面で課題を残した。また、奪三振率は9.35でリーグトップとなり、規定投球回数をクリアした投手の中では中日球団史上初めてとなる奪三振率9.00以上を達成した。クライマックスシリーズ第1ステージでは10月14日第2戦で先発して阪神打線を1失点に抑え、クライマックスシリーズ初勝利を挙げた。第2ステージでは10月20日第3戦に先発して7回2/3を投げ、巨人打線から11三振を奪い勝利した。なお2試合ともに自身の勝利でステージ突破を決めた。日本シリーズでは10月28日第2戦に先発し、8回を投げ3安打1失点に抑えて日本シリーズ初勝利を挙げ、チームの日本一に貢献した。アジアシリーズでは11月8日第1戦となるSKワイバーンズ戦に先発したが、新井良太、森野将彦の失策、谷繁元信の捕逸と味方のミスが絡み6回3失点(自責1)で敗戦投手となった。これは同シリーズ始まって以来の日本勢の初黒星である。3月31日に北京五輪日本代表第一次候補選手に選出された。リーグ戦では3月30日に一軍登録され、4月1日開幕第4戦からローテーション入りした。4月22日にナゴヤドームで行われた対阪神戦で9イニングを5安打無失点に抑えてプロ入り初完封勝利を果たした。6月22日の対千葉ロッテマリーンズ戦では1回2/3を投げ5失点と、プロ最短KOを更新してしまった。2試合連続KOで7月2日に二軍へ降格、7月19日に再昇格すると、7月20日の対阪神戦では4回から2番手として登板し、リリーフとしては自己最長の5イニングを投げ、9回には3失点したものの1ヶ月ぶりの勝利を手にした。7月26日から先発へ戻ったが、8月25日の対読売戦で守備の際に転倒して左膝を痛めて、8月27日に登録を抹消された。9月19日に一軍へ復帰したが3試合とも結果を残せずシーズンを終えた。クライマックスシリーズ第1ステージでは10月19日第2戦で3番手として2点ビハインドの6回から登板したが、先頭の鳥谷敬にソロ本塁打を打たれ、満塁にして赤星憲広に押し出し四球を与えた所で降板となった。犠打の1アウトしか取れず3安打2四球2暴投3失点という結果でチームは敗戦した。投球フォームに悩み入団後初めて壁に突き当たるシーズンとなった。開幕5戦目の4月8日に対ヤクルト戦で先発したが、5回に捕まり6失点でノックアウトされ、翌日4月9日に二軍降格となった。7月1日に昇格し、最後までローテーションを守った。8月23日の対横浜戦では488日ぶりに完封勝利を挙げた。クライマックスシリーズ第1ステージでは10月19日第3戦に先発し、ヤクルト打線を5回1失点に抑えて第2ステージ突破を決めた。第2ステージは10月24日第4戦に先発したが、谷佳知に満塁本塁打を打たれるなど2回0/3で7失点の大炎上で敗戦投手となり日本シリーズ進出は叶わなかった。同姓の中田亮二が入団した為、スコアボードは「中田」から「中田賢」になった。2月のキャンプ中に右前腕を痛め別メニュー調整となり、開幕一軍から漏れた。5月4日に一軍へ昇格し、5月7日の対ヤクルト戦で先発して8回1失点と好投し、先発ローテーション入りした。7月17日の対広島戦で完封勝利を挙げ、これにより山井大介、中田、チェン・ウェインの球団初の同一カード3連続完投完封勝利を達成した。オールスター期間を挟むため7月19日に一旦抹消され、7月28日に再昇格し、8月8日の対阪神戦で再び完封勝利を挙げ、その後もローテーションを守った。規定投球回には届かなかったものの4完投2完封で7勝4敗、防御率2.90の成績を残し、チームのリーグ優勝に貢献した。クライマックスシリーズでは登板機会がなかった。日本シリーズでは11月4日第5戦に先発したが、初回から5連打とロッテ打線の猛攻を受け敗戦。4月13日開幕第2戦から先発ローテーションに入り同日の対横浜戦は5失点しながら勝利投手になったが、その後2連敗し、4月30日に再調整を命じられ二軍降格となった。6月4日に一軍へ昇格、同日の対西武戦では8回1失点と好投したが続かず、6月19日の対オリックス・バファローズ戦では10回延長同点の場面で4番手としてリリーフ起用され1イニングを無失点に抑えて小池正晃のサヨナラ本塁打により2勝目を挙げたが、その試合を最後に6月25日に右肩痛により一軍登録を抹消され、そのままシーズンを終えた。10月30日にみやざきフェニックスリーグ最終戦となる対ヤクルト戦で約4ヶ月ぶりに実戦復帰し、4番手で1イニングを無失点に抑えた。同年はわずか6登板とプロ入り以来最低の登板数に終わった。開幕第4戦の4月4日対横浜戦からローテーション入りした。開幕から6月13日までの先発11試合の成績はQS率100パーセント、防御率2.00、与四球率0.64、WHIP0.90と好投を続けた。しかし交流戦5月16日からの7試合は味方の援護が全て1点以下、合計でもわずか3点と運に見放され0勝6敗という成績を残した。6月23日の対広島戦を境に調子を崩し、7月7日の対横浜戦で5回4失点で連敗は止めたが、7月19日に二軍降格となった。8月16日に一軍へ昇格、再びローテーションに戻ったが9月13日の対横浜戦で5回5失点と炎上し、9月14日に再び二軍へ降格。9月30日に再昇格して同日の対横浜戦で7勝目を挙げ、10月5日はCSへの調整で2イニングの登板だったが1失点したため敗戦投手となった。クライマックスシリーズファーストステージは第1戦に先発して5回無失点と好投し勝利投手となった。しかし、試合後に右肩の違和感を訴え、MRI検査の結果右肩関節炎のため出場選手登録を抹消され、ファイナルステージへの出場は叶わなかった。3月30日開幕第2戦で救援登板し2回を無失点に抑え、中4日で開幕第5戦から先発ローテーションに入り、4月29日の巨人戦で8回4失点でシーズン初勝利を挙げたが、続く5月5日の横浜戦から中継ぎへ配置転換された。以降1、2点リードおよび同点で投げるリリーフとしてチームを支え、7月17日までの28試合で3勝2敗15ホールドの成績を残した。7月31日から再び先発へ戻るが、同日からの6試合で援護1以下の試合が5試合と再び不運に見舞われ0勝4敗という結果となった。9月15日に試合前のフリー打撃中に打球を胸に当てて先発を回避し、9月19日に球団は左第2肋骨の胸骨付着部骨折と発表し、出場選手登録を抹消した。同年はそのままシーズンを終えた。最終的に先発11試合で1勝4敗、防御率3.80、リリーフ29試合で防御率2.65、WHIP1.26の成績を残した。シーズン終了後の11月6日、国内FAを宣言して、出身地の地元球団である福岡ソフトバンクホークスへ移籍。12月7日に同じくFAでホークスへ移籍した鶴岡慎也(前・日本ハム)と共に入団会見を行った。3月29日開幕第2戦から先発ローテーション入りし、同日の対千葉ロッテ戦で移籍後初勝利・本拠地福岡 ヤフオク!ドーム初勝利を挙げ、その後も開幕から5戦5勝を記録した。5月3日の対楽天戦では1000投球回を達成。5月は5月31日の対ヤクルト戦で自己ワーストタイとなる10失点(自責10)する試合があり0勝3敗と低迷したが、6月以降は復調し、8月23日の対千葉ロッテ戦では移籍後初の完投勝利を挙げ、1年を通して先発ローテーションの一角を守り、防御率4点台ながらチームトップタイの11勝を挙げて自身2度目の2桁勝利を達成した。CSファイナルステージでは10月18日第4戦に先発し、2回に3連続四球があったものの粘りの投球で5回を2失点にまとめて勝利投手となった。日本シリーズでは10月29日第4戦に先発し、初回と3回に2度3連続四球と苦しみ、同点とされた3回で降板となった。12月16日の契約交渉では2500万円増の年俸9500万円で更改した。オーバースローから平均球速約143km/h、最速153km/hの速球と決め球としている落差の大きいフォークボール、そしてスライダー、カーブ、カットボールを武器にする。アマチュア時代の持ち球チェンジアップは中日時代のキャンプから何度か挑戦しているが納得の行く球が投げられず断念している。スタミナがあり、2007年9月16日の対阪神戦で、自己最速の153km/hを8回の128球目に記録するほどである。学生の時から長距離走が得意で、2005年中日秋季キャンプでは投手陣で行った4km走を15分29秒のタイムで2位に1分以上の差をつけての1位となった。キャンプ最終日に行われた球場からホテルまでの17km走でも断トツでゴールした。中日のホームグラウンドであるナゴヤドームで滅法強く、ルーキーイヤーの2005年4月15日の対阪神戦でのプロ初勝利から、2007年6月24日の対ソフトバンク戦で敗れるまで、足掛け3年でナゴヤドーム13連勝を記録した(中日時代の全9シーズンのナゴヤドームでの通算成績は36勝10敗)。2007年シーズン開幕直前に父が他界、父の死からちょうど一ヶ月後の開幕シリーズで勝ち投手になり、ヒーローインタビューでアナウンサーからそのことに触れられると、中田は涙を浮かべて父への感謝の言葉を口にした。2007年シーズンに日本一となった後、名古屋タイムズ紙上で手記を発表。亡くなった父親について「小学校から、ほとんどの試合をバックネット裏の特等席で見てくれていた。変な言い方かもしれないけれど、平均寿命の残り分の試合を亡くなるまでに見に来てくれたのかなと思っています」「父に『15勝、20勝はしなくていい。毎年10勝、けがのない選手になれ』と言われてきた」などと述べた。2007年7月29日の対ヤクルト戦で3回に3ボールなのに四球を出すという珍記録を残している(対戦打者青木宣親)。2-2からの7球目がボールとなり、カウント2-3であるにもかかわらず青木が一塁に出塁。原因はスコアボードの誤表示であるが、森健次郎球審や他の審判員も気が付かず、中田や捕手の谷繁元信をはじめ両球団からも指摘がなかった。次打者の時に青木が盗塁死したためこの誤審が得点に絡むことはなく中日が勝利、試合終了後に誤審が発覚し審判4人が厳重注意処分を受けた。中日入団前は複数の球団から注目されていたが、中日の中田宗男スカウト部長は同じ姓であることを利用し「俺の親戚の子だから」という噂を流して他球団のスカウトを牽制したという内情をドラフト後の久野誠のドラゴンズワールドに出演した時に暴露した。実際には中田本人との血縁関係はない。球界屈指の球威と、制球の悪さから中日スポーツや落合博満監督に『暴れ馬』という異名が付けられた。2014年12月23日、かねてより交際していた朝日放送所属の角野友紀アナウンサーと同年12月5日に入籍した旨を明らかにした。
出典:wikipedia
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