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月刊OUT

月刊OUT(げっかんアウト)は、1977年から1995年にかけて毎月27日に発行されていたみのり書房刊の月刊雑誌。アニメ雑誌とされる事が多い。判型はB5判。創刊号は1977年3月発売の5月号。みのり書房の『オカルト時代』が休刊となり、その後釜として『艶楽書館』とともに創刊された。創刊テーマはアウトサイダー的に若者文化を見ようというもの(実質サブカルチャー系)であり、「型にとらわれない」という姿勢から、創刊後しばらくの間は判型も毎月異なっていた。創刊2号で『宇宙戦艦ヤマト』を巻頭特集。当時はまだアニメはマイナーな存在であり、創刊テーマにもあうということで、アニメを取り上げたが、3代目編集長の大徳曰く「それ以外の全部が失敗した」ことから徐々にアニメ路線にシフトを置くようになる。『宇宙戦艦ヤマト』劇場版公開に合わせた第5号での特集が大当たりしたことで、方向性が決定付けられることになる。ただし、企画や感覚で勝負するという編集方針があったため、当時流行の兆しを見せていたアニメ情報誌には転向せず、あくまでもサブカルチャー系の雑誌という立ち位置を崩さなかった。読者の投稿ページが多かったこと、またオリジナルの企画物が特徴的だった。投稿主体のアニメ雑誌として「ファンロード」と並び称されていたが、イラスト主体の「ファンロード」に対しOUTは文章ネタの投稿が主体であり、読者年齢層も高いとされていた。また、アニメを元ネタにしたパロディ「アニパロ」はこの雑誌から広まった。カルトQで出題された「日本で最初に発行されたアニメ雑誌は?」の回答が、1975年創刊の自費出版誌『季刊ファントーシュ』ではなく当誌だった事を考え合わせても、アニメ雑誌としてイメージは強かったものと推測される。一方、1981年に優れたムックである『ガンダムセンチュリー』を刊行したようにアニメに対して真摯な一面もあり、評論記事や新作アニメ映画を評価する定期的な座談会(1984年頃まで)なども掲載されていた。『アニメージュ』を除くアニメ雑誌5誌が連携して日本アニメ大賞を主催していた1985年には、この5誌の編集長座談会という記事も掲載している。さらに1986年には宮崎駿がおこなったアニメ業界に対する苦言を含む会見を、抄録とはいえアニメ雑誌で唯一掲載したこともある。なお、他の掲載誌は漫画評論誌の『コミックボックス』のみだった。もっとも、その会見で宮崎が『プロジェクトA子』を非難した発言を、半年ほど後の記事では、アニメキャラクターによる「新春スター隠し芸大会」で、宮崎監督作品のヒロインが『A子』の寸劇をするというネタにして使うなど、硬軟一方に偏らない幅の広さも持っていた。読者投稿コーナーに力を入れていたのも特徴である。その結果読者同士の横の連帯も生まれ、読者が自らを「アウシタン」と呼称するようになり、読者集会(アウシタン集会)が全国各地で開催された。しかし投稿コーナーの常連メンバーが固定化し、古参読者にしか分からないような内輪ネタが増加し同時に新規の読者に対してハードルが高くなるという弊害を招き、読者層の高年齢化に拍車をかけた。OUT読者のことは「アウシタン」(女性は「アウシターナ」)と呼ばれていた。アウシタンは1979年5月号で、重度のOUT読者を指すものとして、奈良県の読者が提唱した呼称。やがて一般読者もアウシタン、また「隠れアウシタン」などとも呼ばれるようになった。一方のアウシターナは1985年4月号で男性読者が提唱。いずれもOUTファンに受け入れられ、休刊後も読者を指す言葉として定着している。みのり書房解散による休刊後、青磁ビブロス(のち「ビブロス」)から発行された後継誌。編集長は引き続き南波健一郎。1995年5月に0号(準備号)が出され、9月より正式に創刊された。その誌面は既存のアニメ誌のスタイルと、月刊OUTの路線(主に読者投稿コーナー)を折衷したものだった。結果としてOUTの倍以上の部数を売り上げた。しかしその後部数は伸び悩み、南波は96年11月号をもって編集長の座を降り、誌面からOUT色は一掃された。しかしこれはOUT時代からの読者層が離れる一方で、新規の読者層の取り込みにも失敗し、部数が低迷する結果となった。結局翌年5月に休刊。配列は役職別・次いで五十音順。複数の節に入る人物は、原則として上から優先で分類する。(五十音順)(五十音順)(五十音順)

出典:wikipedia

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