舒明天皇(じょめいてんのう、推古天皇元年(593年)? - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))は、日本の第34代天皇(在位:舒明天皇元年1月4日(629年2月2日) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。諱は田村(たむら)。 和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。先代の推古天皇は、在位36年3月7日(628年4月15日)に崩御した時、継嗣を定めていなかった。 蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子と山背大兄皇子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとしたという説と他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説がある。また近年では、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子)と、庶子である用明天皇の直系(山背大兄皇子)による皇位継承争いであり豪族達も両派に割れたために、蝦夷はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方もある。ともあれ、舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にあった。在位中、最初の遣唐使を送り、唐からの高表仁の返訪を受けた。 唐には使者の他にも学問僧や学生が渡り、隋の頃に渡った者も含め、僧霊雲、僧旻、僧清安、高向玄理が帰国した。百済と新羅からの使節も訪れた。『本朝皇胤紹運録』や『一代要記』などでは、49歳で崩御と伝えられている。古い史料による確認は困難なものの、母である糠手姫皇女(田村の御名は彼女から継承されたものである)が舒明天皇よりも20年以上長く生きて天智天皇3年(664年)に没している事や、皇子である天智天皇らの年齢を考えると、ほぼ正確な年齢(もしくは数年の誤差)ではないかと見られている。押坂彦人大兄皇子(敏達天皇皇子で、母はその最初の皇后である広姫)の子で、母は糠手姫皇女(敏達天皇皇女で押坂彦人大兄皇子の異母妹)。 『日本書紀』が記す以上の皇子女の他、『一代要記』『帝王編年記』などに布敷皇女(母は法提郎女)・押坂錦間皇女(母は粟田臣鈴子の女 ・香櫛娘)・箭田皇女(母は蘇我蝦夷の女 ・手杯娘)の名を伝えるが、所拠不明である。※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る。『万葉集』に御製歌あり。舒明天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県桜井市大字忍阪にある押坂内陵(おさかのうちのみささぎ、)に治定されている。公式形式は上円下方。考古学名は「段ノ塚古墳」で、下方部は一辺約105メートルを測り、上円部の基礎は実際には八角形をなす上八角下方墳とされる。埋葬について、『日本書紀』では天皇崩御翌年の皇極天皇元年12月13日(643年1月8日)に喪を起こし、皇極天皇元年12月21日に「滑谷岡(なめはざまのおか)」に葬られたうえで、皇極天皇2年9月6日(643年10月23日)に「押坂陵」に改葬されたとする。『延喜式』諸陵寮(諸陵式)では現在と同じ「押坂内陵」の名称で記載され、大和国城上郡の所在で、兆域は東西9町・南北6町で陵戸3烟を付すとしたうえで、遠陵に分類する。加えて、陵内には田村皇女(糠手姫皇女)押坂墓、陵域内には大伴皇女押坂内墓、陵域内東南には鏡女王(鏡王女)押坂墓が所在するとする。その後、陵は所在不明となったが、元禄探陵の際に当時「段ノ塚」と呼ばれていた本古墳が舒明天皇陵に決定された。幕末の元治元年(1864年)9月には修陵が開始され、慶応元年(1865年)11月に竣工した。現在は陵内の糠手姫皇女押坂墓、近在の大伴皇女押坂内墓とともに宮内庁の管理下にある(鏡女王押坂墓は治定外墓)。また明治天皇陵(伏見桃山陵)以降の天皇陵が採用する上円下方の陵形は、本古墳がモデルになっている。なお、初葬地とされる「滑谷岡」の所在は明らかでなく、諸説がある。飛鳥時代中頃の古墳としては小山田遺跡(こやまだいせき、奈良県高市郡明日香村川原、)において大型方墳が発見されており、同古墳が一辺50メートル以上と飛鳥時代最大級の規模になることから、上記の「滑谷岡」に比定する説が挙げられている(ただし蘇我蝦夷の「大陵」に比定する説もある)。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに舒明天皇の霊が祀られている。
出典:wikipedia
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