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雷電 (航空機)

雷電(らいでん)は、太平洋戦争末期に日本海軍が運用した局地戦闘機(乙戦)。略符号はJ2M1~7。連合軍のコードネームはJack(ジャック)。局地戦闘機(以下「局戦」と略)とは、主に航空母艦から運用される艦上戦闘機とは異なり、陸上基地からの運用を前提とした戦闘機を、また乙戦とは対爆撃機戦闘・迎撃戦闘(インターセプト)を行う戦闘機(要撃機)を指す日本海軍独自の用語である。「雷電」という名称は愛称ではなく制式名称であり、乙戦の場合は「雷」または「電」の字を含むことと定められていた(詳細は軍用機の命名規則 (日本)#大日本帝国海軍を参照)。大型爆撃機の迎撃を主任務の一つとする局戦に要求される性能は、敵爆撃機が飛行している高度に短時間で到達する上昇力と、敵爆撃機に追い付く速力、そして一瞬のチャンスに敵爆撃機へ致命傷を与え得る火力の三つである。これらを重視して開発されたのが雷電であるが、雷電の開発は困難で時間がかかり、任務に就いた後でも全ての技術的な問題が解決されたわけではなかった。戦歴を通して終始エンジンに起因する問題を抱えており、三菱で476機、高座工廠および日本建鉄で若干数が生産されたのみである。支那事変時、中華民国空軍の爆撃機隊により少なくない被害を受けた海軍は、十二試艦上戦闘機(零式艦上戦闘機)試作一号機を領収した直後の昭和14年(1939年)9月に三菱単独指名で「十四試局地戦闘機」(以下、「十四試局戦」と略)を提示、翌昭和15年(1940年)4月に「十四試局地戦闘機計画要求書」を交付した。計画書に記載されていた海軍の要求値は、概ね以下の様なものであったとされる。これを受けた三菱では十二試艦戦に引き続き堀越二郎を設計主務者とした設計陣を組み、開発に取り組んだ。速度と上昇力を確保するためには大馬力エンジンが必要だが、当時の日本には戦闘機に適した小型軽量の大馬力エンジンが存在しなかった。そのため、一式陸上攻撃機等の双発機用に開発された、エンジンの直径は大きいが、当時の日本で最大馬力を発揮する「火星」が選定されている。但し大直径を補うために採用された紡錘形の胴体(後述)に適合するよう、延長軸と強制冷却ファンを追加した火星一三型甲が十四試局戦用に開発されている。強制冷却ファンは、機首を絞ったことによるエンジン冷却用空気流入量の減少による冷却効率の悪化を補うために装備されたが、冷却用空気流入量が減少する上昇時の冷却効率を上げる効果も期待されていた。このような努力にも関わらず、十四試局戦の最高速度が要求性能を大きく割り込むと試算されたことから、昭和16年(1941年)7月に水メタノール噴射による出力向上を図ることが内定、同年12月に火星二三型に換装した十四試局地戦闘機改(以下、十四試局戦改)として本格的に開発が開始された。昭和17年(1942年)2月に初飛行した十四試局戦の最高速度や上昇力が予想通り要求性能に達しなかったため、より大馬力の火星二三型を装備する十四試局戦改の開発が促進されることになった。同年10月に初飛行した十四試局戦改(昭和18年(1943年)8月に試製雷電と改称)は、十四試局戦の要求性能をほぼ達成(十四試局戦改の要求性能は未達成)したものの、今度は最大出力発揮時に激しい振動が発生して大問題となった。この振動の原因はなかなか判明せず、防振ゴムの改良等の対策にも関わらず解消にはほど遠い状態であった。この間、引込脚の設計不備、整備不良に起因する帆足工大尉が殉職する墜落事故が発生したこともあり、この振動問題が解決されるまでに1年以上の月日が経過し、雷電の実用化を大幅に遅らせることになった。延長軸の採用による振動の誘発は、事前に実機を使用した実験が行われたほど開発当初から懸念されており、十四試局戦改/試製雷電で振動問題が発生した際も真っ先に延長軸が疑われている。しかし、様々な分析からこの振動の原因は減速機構の振動とプロペラ強度不足による振動の共振であることが明らかとなった。これを根本的に解決するには、発動機の設計を大幅に変更するか、プロペラ効率を保ったまま剛性を高めたプロペラブレードを新たに開発する方法が考えられたが、それには長い時間がかかることから、対症療法的な対策としてプロペラ減速比の変更とプロペラ効率の低下を享受した上でのプロペラブレードの剛性向上(実際に最高速度等の低下を招いている)によって、実用上問題ないところまで緩和している。計画要求書交付から3年半近く経過した昭和18年(1943年)9月からようやく一一型の生産が開始されたが、部隊配備開始後、高高度において定格通りの出力が出ないという問題が起きたことから、高高度性能を向上させた火星二三型丙や火星二六型への換装型の開発が進められている。また、従来の火星二三型甲を装備する既存機や新造機の双方に対して、昭和19年(1944年)後半より高高度で有利(最高速度の面では不利)な付け根までブレードの太いプロペラに変更するという対策が施されている。搭載エンジンが大直径の割に低馬力であったため、空気抵抗を可能な限り減少させなければならなかった。そのため、に基づき、機首を絞り込み、全長の40パーセントで最も太くなる紡錘形の胴体が採用されている。この胴体形状ではエンジンが機首よりかなり後方に位置することから、上記したように延長軸を追加したエンジンをわざわざ開発する必要があり、操縦席部分が機首より太くなるため、背の低い風防と相まって、機首上げ時の前下方視界が極めて悪化するという弊害も招いた。このため、速力の低下を承知の上で風防上部の嵩上げ・拡幅が行われ、最終的には風防前部付近の胴体側面の削り落としまで行われている。また、風防に使用された曲面ガラスが視界を歪めることも問題視され、平面ガラスの使用範囲が増やされている。場当たり的に見える対応だが、これは、強風から紫電改の様に細く絞った胴体へ再設計する案が三菱から提出されたが、量産に支障が出るという理由で却下されたため、既存の胴体形状のままで最大限可能な視界改善策が妥協策として採用された結果である。また、側面を削って前下方視界を確保するのは、フォッケウルフ Fw190においては設計当初から行われていた手法である。主翼については、1940年代当時抵抗軽減のため高速機に有利として着目されはじめていた層流翼の翼型を内翼側に採用した半層流翼を採用している。この主翼は零戦で問題となった中・高速域の横転性能が大幅に改善されており、280ノット(518.6 km/h)付近まで良好な横転性能を発揮できたとされている。また高速力の代償として主翼面積を抑えたことから、日本機としてはかなりの高翼面荷重となったため、フラップを九六艦戦や零戦が装備した単純なスプリット式ではなく、高揚力装置としての能力が高く、また空戦フラップとしても利用できるファウラー式を採用している。雷電と同時期以降に開発された日本海軍機に軒並み採用された層流翼は、当時の加工精度では設計で意図したほどの抵抗軽減効果は上げられなかった。ただし、P-51で成功を収めたアメリカを除く国々でも状況は似たり寄ったりで、ドイツでも設計どおりの性能を発揮できない層流翼が問題になっている。また「設計で意図したほどの抵抗軽減効果」が得られなかったのは事実だが、同等の加工精度の従来型翼型と比較すると抵抗は低かった。また雷電の主翼は、限界領域での飛行特性に不安定な面があったようで、着陸速度付近での旋回時の失速による墜落事故も複数記録されている。このため雷電への搭乗を嫌う搭乗員もいた。急降下制限速度については、同時期に配備されていた五二型甲以降の零戦や紫電改と同じ400ノット(740.8 km/h)だったが、これは雷電と比較されることの多い二式単戦「鍾馗」二型より諸元で100 km/h 近く高いものだった。防弾装備としては、操縦席背後に8 mm 厚防弾鋼板を装備している。また、一一型以降は翼内タンクに自動消火装置を装備、二一型以降は前部風防内に防弾ガラスを追加し、胴体タンクを自動防漏式としている。一一型までの武装は零戦と同じく翼内に20 mm 機銃2挺、胴体に7.7 mm 機銃2挺であったが、二一型以降は胴体の7.7 mm 機銃を廃止し九九式二〇ミリ機銃4挺を翼内に装備している。ところが二一型の開発時期と九九式20 mm 機銃の生産が短銃身の一号銃から長銃身の二号銃に移行する時期が重なり、二号銃を必要数確保出来ない恐れがあったことから、外翼部に一号銃、内翼部に二号銃をそれぞれ1挺ずつ混載するという妥協案が採られている(紫電改の前身である紫電一一型の初期生産型も、二号銃ではなく一号銃を装備している)。一号銃と二号銃は同じ九九式ながら構造がかなり異なり、また弾薬包も互換性がないため、機銃そのものの整備や補給に支障をきたし、また弾道にバラツキが出るなどという結果となった。他にも、極少数ではあるが30 mm 機銃を装備した機体もあった。大馬力エンジンを装備し、更に大火力を併せ持つ雷電は海軍の大きな期待を集め、昭和18年(1943年)頃には零戦に替わる海軍の主力戦闘機として大増産計画が立てられた。この計画では雷電の増産に併せて零戦は減産し、昭和19年(1944年)には三菱は零戦の生産を終了(中島飛行機では空母搭載用の零戦を僅かに生産)して雷電のみを生産する予定であった。しかし、上記の諸問題により実用化が遅れたことから計画は白紙に戻され、雷電はほぼ同時期に実用実験が行われていた紫電改と比較され、特に紫電改に比べ対戦闘機戦闘能力が低いことが指摘された。海軍における新型機の審査を受け持つ横須賀航空隊は、両者の試作機を比較テストした上「紫電改は対戦闘機戦闘も可能だが、雷電は零戦と組み合わせなければ性能を活かすのは難しい」と結論し、雷電の生産を中止して紫電改の生産に集中すべきだという報告書を航空本部に提出した。しかし、期待された紫電改も誉発動機の不調に悩まされており、その解決に要する間隙を埋める機体が必要であったこと、また雷電の太い胴体はアメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃機に対抗するために必須と考えられていた排気タービン過給器(ターボチャージャー)と中間冷却機(インタークーラー)の搭載に有利と考えられたことから、少数ではあるが生産と改良型開発の継続が決定され、拠点防衛部隊を中心に配備されることになった。最初の雷電配備部隊として、バリクパパンにある日本の油田防衛部隊である第三八一海軍航空隊が編成されたが、雷電の生産がはかどらないため零戦を配備してスピンガンに進出している。後にスピンガンへ空輸された雷電を受け取った第三八一航空隊は、製油所から豊富に産出される高品質燃料を使って訓練を積み、短期間ではあるが油田攻撃に飛来するアメリカ軍やイギリス空軍のB-24、P-38、P-47の迎撃戦を行い、少なくない戦果を挙げた。そのほかの部隊では、本土防空専任部隊として編成された第三〇二航空隊(厚木)、第三三二航空隊(岩国、鳴尾)、第三五二航空隊(大村)台湾の台南航空隊(台南)に主として配備され、特に神奈川県厚木飛行場所属の小園安名大佐率いる第三〇二航空隊の乙戦(雷電)隊は、東京京浜地区に侵入するB-29爆撃機迎撃で最も戦果を挙げた。雷電隊の赤松貞明中尉(当時空曹)は厚木基地でのエース・パイロットであった。また変わったところでは、輸送機部隊であった第一〇〇一海軍航空隊(第二鈴鹿)では、第一・第二鈴鹿飛行場に併設されていた三菱重工三重工場で製造・整備された雷電を実戦部隊に空輸するまでのあいだ、一〇〇一空隊員が載ってB-29爆撃機の迎撃にあたった。昭和19年(1944年)12月に名古屋空襲が始まると臨戦態勢に付き、佐々木原正夫飛曹長によるB-29 1機撃墜や宮田房治中尉の三号爆弾による攻撃などの戦闘記録を残している。2013年(平成25年)には戦時中に少年工として雷電製造に携わった台湾人への叙勲が行われ、少年工たちは2000年(平成12年)に雷電をモチーフに誂えたそろいのネクタイを締めて式典に集った。日本の搭乗員の評判は芳しくなかったが、戦中戦後にテスト飛行したアメリカ軍のパイロットには好評であった。これはずんぐりした胴体によって、日本機にしてはコックピットが広く、大柄なアメリカ人にとっても乗り心地が良かったからと言われる。日本では問題視された振動や着陸性能の悪さも、アメリカの基準ではさして問題とされなかった。なお、フィリピンでアメリカ軍に接収された二一型初期生産機(製造番号3008号機)である鹵獲機「S12」を用いたテストでは、最高速度671 km/h(高度5,060 m)、上昇力5分10秒/高度6,100 m と日本側の諸元値を大幅に上回る結果を残している(試験環境における燃料は、92オクタンの燃料に水メタノール噴射を組み合わせたものである。試験時の重量は、7,320 lb(3,315 kg)であり、これは180 kg ほど軽い。旧日本海軍でいう「軽荷重量」のデータである。増槽を装備した重量8,130 lb(3,682 kg)のOverload状態でも、385 mph 弱(383 mph として616 km/h)と海軍航空本部の公称速度を上回る数値を出している)。フィリピンで鹵獲された第三八一航空隊所属の二一型「81-124号機(製造番号3008号機)」がアメリカ・カリフォルニア州チノに静態保存されている。塗装は太平洋戦争後に再塗装されたもので、胴体は三五二空所属の青木義博中尉機の稲光マークを模した塗装が施されているが、機番は三〇二空(厚木)所属を示す「ヨD-1158」になっている。

出典:wikipedia

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