BVボルシア09 e.V. ドルトムント(Ballspielverein Borussia 09 e.V. Dortmund)は、ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州・ドルトムントをホームタウンとするスポーツクラブである。通称・ボルシア・ドルトムント(Borussia Dortmund、)である。ドルトムントもしくは略字表記のBVB(ベーファウベー)とも呼称される。サッカー部門ではドイツプロサッカーリーグ(ブンデスリーガ)に加盟するプロサッカークラブ。ボルシア・ドルトムントは1909年にドルトムントの17名のサッカー選手によって創設された。これまでにドイツリーグを8回、DFBポカール(カップ戦)を3回、DFLスーパーカップを4回、UEFAチャンピオンズリーグを1回、UEFAカップウィナーズカップを1回、インターコンチネンタルカップを1回制している。1966年のカップウィナーズカップ制覇はドイツのクラブとして初の欧州タイトル獲得であった。BVBは“バルスピール・フェライン・ボルシア”(ボルシアの球技クラブ)の略である。“09”はクラブの創設年である1909年を表している。多くのファンは“BVB”にそれ以上の意味を見いだし、“ボルッセン・フォム・ボルシクプラッツ”(ボルシクプラッツからやって来たボルシアの選手たち)の略だという説も出回ってる。ボルシクプラッツとはドルトムント北部にある広場で、BVBはこの広場に面した“ツム・ビルトシュッツ”というレストランで1909年12月19日に創設された。“ボルシア”はプロイセン(かつてドイツで栄えた王国)のラテン語名称である。美術や文学で、この王国は“ボルシア”という名の女性としてよく描かれている。19世紀末から20世紀初めにかけては、ほかにも“ベストファリア”や“レナニア”、“ゲルマニア”など、地域の結束を示す名称を持つクラブが多数誕生した。BVBの創設は1909年の待降節聖日(12月19日)で、ヘッシュ(今は存在しない化学品メーカー)地区の移民の母国に対する支援を示す目的で名付けられた。当初は青、白、赤がクラブカラーであった。“ブリタニア”、“レナニア”、“ドイチェ・フラゲ”という3つのスポーツクラブがBVBに加わり、第一次世界大戦前に現在の黒と黄のクラブカラーに変わった。。であり、スポーツクラブである。最も事業規模が大きいサッカー部門はブンデスリーガに属しており(2016年1月現在)、ドイツ国内ではバイエルン・ミュンヘンなどと並び人気のあるサッカークラブとなっている。サッカー以外では、女子ハンドボール部門、男子卓球部門がある。1974年から、ヴェストファーレンシュタディオンでホームゲームを開催している。このスタジアムはドイツ最大で、2009-10シーズンのドルトムントの1試合当たりの平均観客動員数(76,780人)ならびにスタジアム観客入場率(約94%)は世界一である。チームカラーの黒色と黄色から、「die Schwarzgelben(黒と黄)」の愛称で呼ばれている。ホームスタジアムの名物はホーム側のゴール裏スタンドで、このスタンドだけで2万2千人を収容できる。ドルトムントがこのスタジアムで試合を行うと、この一角は黄色いユニフォームを纏ったサポーターで一杯となり、壮観な印象を作り出す。長年のライバルはルール地方に本拠地を有するシャルケ04であり、この2クラブの対戦はルールダービーとして知られている。クラブのモットーは「Echte Liebe」(真実の愛)。1909年、教会が運営していた厳しいサッカークラブに飽き足りない青少年により創設された。「ボルシア」(Borussia) はラテン語での「プロイセン」の意味で、ドルトムントがプロイセン王国に属していたこと、および近隣にあるボルシア醸造所の名称にちなむ。ブンデスリーガ発足前の1955-56シーズンに初優勝し、1956-57シーズンには連覇も果たした。ブンデスリーガ発足後は1962-63シーズンに優勝し、 1965-66シーズンにはUEFAカップウィナーズカップも制した。ちなみに、旧西ドイツ国内では初めてUEFA主催の大会でのタイトル獲得でもあった。しかし、1970年代に失速し、1971-72年シーズンでブンデスリーガ2部へと降格した。1976年に2部で準優勝して1部復帰を果たしたものの、その後は中位を推移していた。ゲルト・ニーバウムが会長に就任したことでクラブに大きな変化が訪れた。海外のリーグへの適応に追われ疲弊したドイツ代表選手(シュテファン・ロイター、マティアス・ザマー、カール=ハインツ・リードレなど)を次々に獲得して戦力を充実させ、バイエルン・ミュンヘンと毎年優勝争いを演じるようになり、。1990-91シーズンにはオットマー・ヒッツフェルトが監督に就任し、優勝争いを演じると、1992-93シーズンにはUEFAカップで決勝まで上り詰めた。しかし、ユヴェントスとの決勝戦ではロベルト・バッジョ、アンドレアス・メラーなどにゴールを許して大敗した。1994-95シーズンに、ユヴェントスからメラーをが加入したことで選手層が強化され、圧倒的な強さでリーグを制した。1995-96シーズンはユルゲン・コーラー、ルベン・ソサらを獲得。リーグ戦では連覇を果たした。1996-97シーズン、ボスマン判決により、パウロ・ソウザ、ヴォルフガング・ファイアージンガー らEU圏の選手獲得が目立った。リーグ戦ではバイエルンに3連覇を阻まれたが、UEFAチャンピオンズリーグでは初優勝を果たした。チャンピオンズリーグでは前評判は高くなく、ユヴェントスとの決勝では不利と言われたが、3-1で勝利した。また、チャンピオンズリーグ決勝という舞台でヨーロッパカップ初出場したラース・リッケンが、途中出場のファーストタッチで豪快なミドルシュートを決めたことはサポーターの語り草となっている。チャンピオンズリーグの優勝は、その後のクラブの混乱と低迷の始まりでもあった。また、ドイツのクラブでは初めて株式上場を果たし、これによって大物選手獲得が可能になった。1997-98シーズン、ヒッツフェルトは数人の主力の放出を含めたチームの刷新をクラブに望んでいたが、結局放出候補の主力選手は残留、ヒッツフェルトはスポーツディレクターに降格、新監督にネヴィオ・スカラが就任し、1997年にはトヨタカップも制したが、主力のザマーが選手生命に関わるほどの大怪我をしたことや大半の主力選手がピークを過ぎたこともチームの低迷に少なからず影響し、国内リーグでは低迷した。CLでは準々決勝でバイエルンとの対戦を制して準決勝へ進出したが、準決勝でレアル・マドリードに敗れる。1998-99シーズン、ミヒャエル・スキッベが監督に就任したことで当時のクラブ史上最年少監督となった。ヨルグ・ハインリッヒをフィオレンティーナへ放出、クリスティアン・ネルリンガー、セルゲイ・バルバレス、デデ、トーマス・ヘスラーを獲得、シーズン途中よりイェンス・レーマンを獲得したが、既にチームは2チーム分のオーダーを組める陣容になっていた。これに起因する選手の不満が続出、シュテファン・クロスやシュテファン・フロイントなどはこれが原因でシーズン途中でチームを去っていった。最終的に4位に入りCL予備予選出場権を獲得。1999-2000シーズン、クリスティアン・ヴェアンス、フレディ・ボビッチ、エヴァニウソン、ヴィクトル・イクペバを獲得。CL一次リーグ敗退、一次リーグ3位によりUEFAカップ戦に回るも敗退し、リーグ戦でも勝てなくなったことでスキッベを解任。ベルント・クラウスが監督に就任するも1勝も出来ずに途中で退任し、チームは2部降格の危機を迎えることになった。シーズン終盤には、監督にウド・ラテックが、ヘッドコーチにマティアス・ザマーがそれぞれ就任し、チームを立て直して1部残留に成功した。シーズン終了後にラテックは辞任した。2000-01シーズン、マティアス・ザマーが監督に就任。これによりザマーは、1998年に就任したミヒャエル・スキッベの最年少監督記録を更新し、クラブ史上最年少監督となった。監督に就任したザマーは、人員整理とチームの立て直しに着手する。長年チームの中心メンバーだったアンドレアス・メラーがライバルのシャルケ04へ移籍したが、サンデー・オリセーが加入、ヨルグ・ハインリッヒをフィオレンティーナから連れ戻すなどした。シーズン途中よりトマーシュ・ロシツキーが加入。チームの再建に成功し、3位というまずまずの成績で就任1年目を終了した。2001-02シーズン、マルシオ・アモローゾ、ヤン・コレル、セバスティアン・ケールを補強して戦力アップが図られたことで、1995-96シーズン以来のリーグ優勝を果たす。CLでは一次リーグ敗退したが、一次リーグ3位によりUEFAカップに参戦して決勝戦へ進出したが、フェイエノールトに敗れて、UEFAカップウィナーズカップ、UEFAチャンピオンズリーグに続く3つ目の欧州のタイトルを逃した。この試合限りで現役引退したユルゲン・コーラーはレッドカードにより退場した。2002-03シーズン、マルシオ・アモローゾが不振に陥ったことでチームは低調したが、CL予備予選出場権を獲得。CL一次リーグ最下位で敗退してリーグ戦に専念したバイエルンに連覇を阻まれた。2003-04シーズン、守護神のイェンス・レーマンをアーセナルへ放出。CL予備予選は敗退、リーグ戦でも低調なパフォーマンスによって、最終的にCL出場権を逃した。レーマンの放出に端を発した一連の出来事によって、クラブ経営が火の車であることが明るみになった。ザマーは監督を退任し古巣VfBシュトゥットガルトの監督に就任した。シーズン終了後シュテファン・ロイター、ハイコ・ヘルリッヒが現役引退。21世紀に入るとクラブの株式を上場する経営戦略が裏目に出て巨額の損失を抱え込み、2004-05シーズン途中には債務超過による破綻寸前にまで追い込まれ、€120,000,000と言われる借金を残し、ゲルト・ニーバウム会長、現場最高責任者のミヒャエル・マイヤーがクラブを去ることとなった。2006年になってホームスタジアムの命名権売却に至る。各金融機関へ融資を頼み込むなどして財政は上向き、増資を株主総会で発表できる状態になった。。しかし、低迷期にあっても数多くのサポーターがドルトムントに対する情熱を保ってスタジアムに通い、スタンドからの声援でドルトムントを後押しした。クラブの経営危機により前任者らは去ったが、クラブに残ったミヒャエル・ツォルクや、CEOに就任したハンス・ヨアヒム・ヴァツケらが中心となって経営再建を進めることになった。また、2008年に引退したラーシュ・リッケンがユースチームを担当し、チームは若手育成中心の体制となった。2006-07シーズン、トマーシュ・ロシツキーをアーセナルへ、ヤン・コレルをASモナコへ放出。リーグ戦での不振によりファン・マルワイクは前半戦終了を待たずに解任された。最終的に9位で終えるも一時は残留争いに巻き込まれた。2007-08シーズンはDFBポカールで準優勝しUEFAカップの出場権を得たものの、国内リーグでは1999-2000シーズン以来の二桁順位となる低迷が続いたが、平均観客動員はブンデスリーガで1位、欧州主要リーグ全体でもレアル・マドリードやマンチェスター・ユナイテッドFCに続く3位となる7万3000人弱を記録している(ホームスタジオの最大観客数8万3000人)。シーズン限りでクリスティアン・ヴェアンスが現役引退。2008年夏、1.FSVマインツ05を躍進させたユルゲン・クロップ監督を招聘した。新加入のDFネヴェン・スボティッチがブレイクを果たし、リーグ2位の37失点と鉄壁を誇った守備陣を支えた。25節から7連勝で順位を上げ、UEFAヨーロッパリーグ出場権まであと一歩の6位に入った。ホームでは8勝9分と無敗で、シーズンを通しての敗戦数5はリーグ最少だった。2008-09シーズン終了後にFWアレクサンダー・フライが母国のFCバーゼルに復帰したが、CSDコロコロで36試合出場34得点を挙げたパラグアイ代表FWルーカス・バリオスを獲得するなど、戦力維持に努めた。2010年夏、Jリーグ1部・セレッソ大阪のMF香川真司らを獲得。香川を始めケヴィン・グロスクロイツ、マリオ・ゲッツェ、ロベルト・レヴァンドフスキらがブレイクし主力の多くが23歳以下、スタメンの平均年齢が22~24歳という若いチームが完成、序盤から勝ちを積み重ねたチームは2010-11シーズン前半戦終了時点でブンテスリーガ史上第2位となる勝ち点43を達成し首位で折り返し、圧倒的な強さで9シーズンぶり7度目の優勝を飾った。2011年11月のチームの収支報告では、収入は前のシーズンの1億100万ユーロから大きく増えて1億5000万ユーロに、利益はチーム史上最高額の950万ユーロを記録した。一時は1億4000万ユーロ近くまで膨れ上がった負債額も、5600万ユーロと大幅に減らしている。2011-12シーズン、UEFAチャンピオンズリーグ 2011-12ではグループ最下位で敗退、リーグ戦も低調なスタートに沈むも、その後はブンデスリーガ新記録となるリーグ戦28試合無敗・勝ち点81を成し遂げ、優勝を争うバイエルン・ミュンヘンとの直接対決を香川の活躍などで2戦2勝と制するなど安定した強さを見せ、2シーズン連続8回目の優勝を達成した。さらに、DFBポカール決勝でもバイエルンを破りクラブ創設史上初の国内2冠を達成した。2012-13シーズン、マルコ・ロイスを獲得。香川真司をマンチェスター・ユナイテッドへ放出。リーグではバイエルンの独走優勝を許し3連覇を逃す。DFBポカールは準決勝で敗退した。UEFAチャンピオンズリーグ 2012-13では、グループリーグでレアル・マドリード、マンチェスター・シティといった強豪と同組となるもグループ1位で突破。決勝トーナメントでも準決勝でマドリードを下し決勝に進出するも、決勝でバイエルンに敗れ16シーズンぶりのCL制覇を逃しチームは3シーズンぶりの無冠に終わった。2013-14シーズン、マリオ・ゲッツェをバイエルンへ放出。リーグでは前年に引きつづき2位。UEFAチャンピオンズリーグ 2013-14では、決勝トーナメントに進出するも、準々決勝でマドリードに1勝1敗、得点2戦計2-3で敗れる。ベスト8止まりで終わる。2014-15シーズン、バイエルン二冠のため、ドルトムントがリーグ2位として出場した2014 ドイツスーパーカップでは2-0で勝利した。ロベルト・レヴァンドフスキをバイエルンへ放出したが、トリノFC所属でセリエA2013-2014シーズン得点王のチーロ・インモービレ、ヘルタからアドリアン・ラモスを獲得し、マンチェスター・ユナイテッドから香川真司が2シーズン振りに復帰した。対戦相手に戦術が研究され尽くしたことや、放出したレヴァンドフスキの穴を埋められず、新戦力が軒並み不振に陥ったことで、リーグ戦では前半戦を最下位で折り返すなど混迷を極め、シーズン途中にしばしばクロップの解任論が出ていた。しかし、ウインターブレイク後の後半戦から、マルコ・ロイス、ピエール=エメリク・オーバメヤンが得点を重ね、ヘンリク・ムヒタリアンと香川を加えた攻撃陣を中心にチームは息を吹き返して徐々に順位を上げていく。シーズン中の2015年4月15日、本拠地であるジグナル・イドゥナ・パルクで記者会見を開き、ユルゲン・クロップ監督の今季限りでの退任を発表した。クロップとの契約は2013年10月の時点で、期間を2018年まで延長していたが、今季の状況を受けハンス・ヨアヒム・ヴァツケ (CEO) などと会談、最終的にそれを途中解除の形での辞任となった。後半戦での最下位からのV字回復によって最終的にリーグ戦は7位に終わり、CL出場権は逃したもののEL出場権を獲得。チャンピオンズリーグでは決勝トーナメント初戦でユヴェントスに合計スコア1-5で敗れベスト16で終了。DFBポカールでは、準決勝でバイエルンをPK戦の末に破って決勝進出するものの、ヴォルフスブルクに敗れて優勝を逃し、クロップの最終年をタイトルで飾ることは叶わなかった。シーズン終了後にセバスティアン・ケールが現役引退。クロップは、2008年にドルトムントの監督に就任して以降、「ゲーゲンプレッシング」と呼ばれる特徴的なプレッシングと選手の平均年齢が若いことを踏まえ、走力と速度を活かす戦術を創りあげ、その結果、7年間で3つのタイトル(ブンデス2度、ポカール1度)を得る結果をもたらすなど、チームの「復興」を印象づける功労者といえる存在だった。しかし、クラブの厳しい財政事情により、成長し活躍する選手を強豪チームに売却するというクラブの方針から、チームのやりくりには都度工夫を強いられた。2015年4月19日、後任として元1.FSVマインツ05監督トーマス・トゥヘルを新監督に迎える旨発表があった。契約は2015年7月1日より3年間。2015-16シーズンは、トゥヘルが監督に就任。昨シーズン後半戦に活躍した主力選手の多くが残留した。また、昨年までゲーゲンプレスをベースにしてたが、4-3-3をベースに4-2-3-1、4-4-2、3バックなどさまざまなシステムを使用した。UEFAヨーロッパリーグでは、決勝ラウンドでポルト、トッテナムを下し躍進をした。8強でユルゲン・クロップ率いるリバプールに敗退。2016-17年、トゥヘル体制2年目。夏の移籍市場ではフンメルス、ギュンドアン、ムヒタリアンといった主力が流出。そのため、ローデ、バルトラ、ゲッツェ、シュールレを獲得。また、ゲレイロ、デンペレ、モルといった若い選手を中心に戦力を補強した。 () ()※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。
出典:wikipedia
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