本項では、邪馬台国の所在地に関する学説のうち、九州地方にあるとする邪馬台国九州説(やまたいこくきゅうしゅうせつ)を概説する。新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いたのちに「外国之事調書」で筑後国山門郡説を説いた。以降、江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内説」(内藤湖南ら)と「九州説」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。ただし、九州説には、邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとする。久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「女王国」と、「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「邪馬台国」とは別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に都した新王都が邪馬台国であるとする。その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある。一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権の関与はないとするものがある。邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など諸説が乱立している。邪馬台国九州説の基本論拠は以下のものが挙げられる。逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。かつて、九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないもの距離問題については「短里」の概念が提示されている。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説である。魏志倭人伝では狗邪韓國から對海國(対馬)までが千里、對海國から一大國(壱岐)までが千里とあるが、実距離もそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている。この短里という概念で計測すると、実際に、帯方郡から狗邪韓国までの距離が魏志倭人伝の記載通り、七千餘里となる。九州説を唱える多くの者は、この短里説を基本論拠としている。邪馬台国九州説を唱える論者には、新井白石、白鳥庫吉、田中卓、古田武彦、鳥越憲三郎、若井敏明らがいる。また記紀などの国内資料に基づく研究については、坂本太郎『国家の誕生』や原秀三郎らの指摘にも関わらず、考慮されない傾向があるといわれ、若井敏明はこうした傾向について、戦前に弾圧された津田左右吉の学説が戦後一転してもてはやされたことに起因するとして批判している。神武東征を史実とするかはともかく、記紀などの国内資料に基づく研究では、九州で成立した王朝(邪馬台国)が東遷したという説がある。白鳥庫吉、和辻哲郎が戦前では有名であるが、戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。しかしこの東遷説は戦後も主に東京大学を中心に支持され発展し続けた。栗山周一、黒板勝美、林家友次郎、飯島忠夫、和田清、榎一雄、橋本増吉、植村清二、市村其三郎、坂本太郎、井上光貞、森浩一、中川成夫、谷川健一、金子武雄、布目順郎、安本美典、奥野正男らが論じた。古田武彦によって提唱された説に、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝(太宰府が首都)があったとする九州王朝説がある、古田は「倭」とは九州のことであり「邪馬壹國」(「邪馬臺國」)は九州王朝の前身であるとし、その後、九州王朝が成立したが、663年(天智3年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている。邪馬台国から「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から、戦後では長沼賢海らがいる。 ただし現在、本説は、井上光貞、榎一雄、山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されている。以下、主張の論点を記す(注:これは古田の説ではありません、古田の主張を元に各論者の説を統合し改善されたものです)。
出典:wikipedia
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