趙 毓松(ちょう いくしょう)は、中華民国の政治家・ジャーナリスト。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。変名は邵松。初めは貴州軍の袁祖銘や直隷派の呉佩孚の配下であった。1926年(民国)11月、反共主義の立場から中国青年党に加入している。この頃国民革命軍に転じていた袁の下に戻ると、趙毓松は反共のために呉や孫伝芳と結び、容共の武漢国民政府を転覆しようと進言する。袁もこれに応じて計画を準備したとされる。しかし翌年1月末に、袁は武漢国民政府に属する湖南軍指導者・唐生智に謀殺されてしまった。趙は四川へ逃れて反共活動を続けている。蒋介石が国民政府を掌握した後、趙毓松は中央政治行動委員会委員長、中央検審委員会委員長、『新中国日報』総主筆、討賊聯軍総司令総参賛、川康甘青辺政設計委員会委員などを歴任した。1940年(民国29年)3月、汪兆銘(汪精衛)の汪兆銘政権(南京国民政府)に参加する。なお、中国青年党から汪兆銘政権に参加した要人は、趙毓松のほかに張英華があげられる。趙は農鉱部部長兼中央政治委員(以後4期務める)に任命された。同年中に、接収日本軍管理工廠委員会副委員長、憲政実施委員会常務委員、全国経済委員会委員を歴任している。翌1941年(民国30年)2月、趙毓松は東亜聯盟中国総会常務理事、清郷委員会委員を歴任する。8月、司法行政部長に異動したが、調査統計部長・李士群と対立したため1942年(民国31年)3月に同部長を辞任、閑職の銓叙部長に移った。翌1943年(民国32年)8月、自ら望んで国民政府委員のみの地位をつとめた。1945年(民国34年)8月、汪兆銘政権が崩壊すると、趙毓松は素性を隠して山東省の済南に移り住んだ。中国人民解放軍が済南に迫ると、趙は香港へ逃れ、さらに1950年末に日本へ亡命している。日本では、満州国で経済大臣をつとめた韓雲階と知り合い、閻錫山の指示とされる反共の言論活動に従事した。また、満州国国務総理秘書官長をつとめた松本益雄とも親交を結び、その援助を受けている。1971年(昭和46年)9月、趙毓松はリチャード・ニクソンの訪中表明(ニクソン・ショック)に衝撃を受け、抗議の服毒自殺を図る。この際には辛うじて一命を取り留めたものの、結局これが原因で体調を崩し、同年11月18日、東京都にて死去した。享年75(満73歳)。1978年(昭和53年)、松本益雄と古沢敏雄は、趙毓松の手記「三十年政治風濤親歴記」(松本訳)を底本として、『迎春花-趙毓松の中国革命回顧録』(明徳出版社)を刊行した。
出典:wikipedia
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