大島 崇行(おおしま たかゆき、1983年12月20日 - )は、山梨県南巨摩郡南部町出身の元プロ野球選手(投手)。山梨学院大附高では、2年時に夏の甲子園で初戦敗退。2001年のドラフト会議で、広島東洋カープに3巡目で指名を受け入団。入団会見では、「大野豊さんの様な投手になりたい」と語った。2004年にウエスタン・リーグ最多勝(8勝9敗)を獲得。2005年にはプロ初登板。プロ2戦目の阪神戦で初勝利。この年鬼門だったナゴヤドームでの中日最終戦で2勝目。チーム成績も投手陣もどん底の中で防御率こそ高かったが来季を期待させる働きだった。2006年には新しく監督に就任したマーティ・ブラウン監督に将来性を高く評価され、初の開幕一軍・先発ローテーション投手に抜擢された。しかし全く期待に応えられず二軍落ちとなり、再昇格することなくこの年の一軍マウンドは春先のみに留まった。2007年は巻き返しを期待されたが、二軍でもなかなか結果が残せず一軍での登板は1試合のみとなった。2008年は二軍で開幕を迎えたものの、先発として防御率0点台を叩き出し、3・4月の二軍の月間MVPを獲得した。5月には一軍昇格を果たした。7月二軍へ降格したが9月に再昇格。勝ち星こそつかなかったが、登板数・投球回は自己最多を更新し、防御率も3.98(二軍では1.01)を記録した。2010年は、1軍の救援投手の柱だった永川勝浩・シュルツ・横山竜士が相次いで故障したため、大島が一時期クローザーを務める等、中継ぎ投手として長期間1軍の戦力に加わった。チームトップの53試合に登板し、初セーブを記録する等、大きな飛躍のシーズンと言える成績であった。しかし8月25日の対阪神戦(京セラ)では、チームが大差をつけてリードしていたが、金本知憲に逆転満塁弾を浴び、大島自身に負けはつかなかったものの、結果的に8-22で大敗を喫している。この年の最終的な防御率は5点台ではあった。2011年は4月に左足を疲労骨折し長期離脱、一軍初登板は8月7日の対巨人戦にずれ込んだ。この試合では谷間の先発として2008年以来の先発起用となったが、投手の西村に先制タイムリーヒットを浴びるなど試合を作れなかった。結局2011年は7試合のみの出場で前年から出場機会を減らす結果となった。秋季キャンプでは再起を期してサイドスローへの転向に挑戦した。また、10月には、同年5月に元会社員の女性と婚姻届けを提出し結婚していたことが明らかになった。2012年は、1試合のみの登板に終わった。、10月2日に球団から戦力外通告を受けた。12月2日、自由契約公示された。最速146km/h(2005/9/19)、常時140km/h前後の直球に、ブレーキの効いたスローカーブ・スライダー・チェンジアップを織り交ぜる、首脳陣期待の本格大型左腕投手。2010年からはキャンプで野茂英雄からフォークボールを教わり、これが同年の飛躍のきっかけの一つとなった。しかし、スタミナはあるがここぞというときに甘い制球になるのが難点である。ストライクゾーンのコーナーを狙い過ぎてカウントを悪くし、甘くなって痛打を喰らったり四球を出す事が多い。今中慎二からは「きわどい所を狙い過ぎず、最低でもストライクベース上に投げる事を意識するだけで良い。」と苦言を呈された事があった。山梨学院大附高から、苫米地鉄人、玉山健太に続いて3年連続でエースがプロ入りすることとなった。同様のケースはPL学園の宇高伸次、前田忠節、前川克彦や桐生第一の小林正人、正田樹、一場靖弘の例があるが、こちらの場合は特に全員が高卒で同一球団に入団という異例である。性格はマイペース。また同期入団である大竹寛らとはとても仲が良かった。プロ野球aiのファームコーナーでは、全く泳げないかなづちだと話している。絵を描くのが得意であり、地元のカープ応援番組で腕前を披露したことがあった。喫煙者でもある。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。