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八重山地震

八重山地震(やえやまじしん)とは1771年4月24日(明和8年3月10日)午前8時頃に発生した地震、大津波。推定マグニチュード7.4-8.7。津波により先島諸島(特に八重山列島)が大きな被害をうけた。そのため、元号を取って明和の大津波ともよばれる。震源は八重山列島近海、深さは不明。地震の規模をしめすマグニチュードは7.4とされていたが、その推定の根拠は不明な点が多い。これは河角廣(1951)が規模"M" = 5.1を推定し、マグニチュードに換算したものであるが、河角は震央位置を示していない。フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込むために生ずる、歪みがもとで発生した海溝型地震と考えられている。これほどの津波が起きた原因については、海底で地すべりが起こったという説が最も有力である。しかし海底調査も行われたが、地すべりの地点は現在でも特定されていない。対して琉球大学理学部の中村衛は、石垣島と多良間島の中間に位置する正断層(仮称:石垣島東断層)の活動により地震および津波が起こったと推測し、シミュレーションの結果から、マグニチュードを7.5と見積もっていた。しかし、更なるシミュレーションの結果、琉球海溝内の断層の活動により、深さ6km、"M"8程度の津波地震が起こった可能性が高いとしている。阿部勝征(1999)は、津波マグニチュード"M"t8.5と推定している。中村衛(2014)はMw8.7程度のプレート境界地震とするのが妥当としているが、分岐断層や海底地すべりの可能性も考慮すべきだろうとしている。松本(1992-1993)らは海底音響探査により海底地すべりを発生させた可能性が高い地形を発見し、北緯23度55分 - 24度00分、東経124度10分 - 124度20分付近と北緯23度40分、東経124度30分付近の2箇所が波源域であった可能性が高いとしている。石垣島における震度は4程度と推定され、地震動による被害はなかったとされている。地震動の記録としては『琉球旧海主日記』に「本国及久米、慶良間島地震アリ、宮古島及八重山島ニテ又地震アリテ、海浪騰湧シ、土地人民ニ損害多シ」とあり、石垣島の状況を記した岩崎卓爾著『ひるぎの一葉』には「朝五ツ時頃、地ヤヤ強ク震フヤ海潮遠ク退キ」とある。震害はなかったが、地震により最大遡上高30m程度の津波が発生し、宮古・八重山両列島で死者・行方不明者約12,000人・家屋流失2,000戸以上という惨事になった。石垣島では潮が引いて青、緑、紅、紫熱帯色の色彩眩き大小の魚がサンゴ礁の根株の下に跳躍し、婦女、小児がこれを捕えているところに、しばらくして東方洋中に二条の暗雲が立ち込め、砕けて激しき暴潮漲溢が弃馬の如く狂い、繰り返し襲って来た(『ひるぎの一葉』)。八重山では死者9400人あまり、生存者18607人で、14の村が流され、住民の3分の1が死亡している。耕作可能地の多くが塩害の影響をうけ、農作物の生産が低迷。飢饉と疫病などにより明治時代初頭の人口は地震前の1/3程度にまで減少した。津波発生の翌年六月初ごろより、疫癘の流行が白保村から始まり、環境衛生が極度に悪化して伝染病が流行したと推定され、古老らによって「イキリ」と伝承されているが、これは疫痢のこととされる(『奇妙変異記』)。石垣島における津波の最大遡上高は、『大波之時各村之形行書』は宮良村で「二十八丈二尺」85.4m に達したと記録している。また、牧野清(1968)は津波が石垣島の宮良湾から名蔵湾へ縦断したという話があるとし、これが85mの遡上高を示唆する言い伝えとされることがあるが、古文書記録には存在せず記録を整理した牧野の著書によるものである。なお、計測方法は「戸高」と呼ばれる家の戸板をスケールとして溯上高の測量を行ったと考えられる方法であり精度誤差が大きい事と、遡上高85mを記録した場所より低い標高の井戸が被害を受けていないことから85.4mの遡上高は否定され、日本史上最高の遡上高とするのは不適切である。GPSによる測量や数値計算の結果などから、遡上高の最大は石垣島南東部で30m程度と推定されている。多良間島の津波の遡上高は18メートル程度と推定されている。また、石垣島における津波石の分布と年代調査を行った加藤祐三(1987)は、遡上高を25m程度としている。宮古島北西にある下地島など地域の島の高台には津波で打ち上げられたと伝えられている帯岩などの巨石(津波石)が残る。島が一つ津波に飲み込まれて消えたという伝承があるが真偽は不明である。また房総半島では、『諸色覚日記』に安房館山(現・館山市)の記録として「三月十日昼四ツ時房州、布良相浜の海辺は、不思議なことに度々汐の差引あり。船を残らず畑の際まで引揚げた。」とあり、土佐では『世用日記一』に同日、室津に浪入りがあったと記されている。竹富島は、サンゴ礁に囲まれており津波の被害は受けなかったが、石垣島に行っていた竹富島民が石垣島で被災した 。宮古島の南東部海岸のマイバーバマには1771年の津波のほか、過去の津波によって運ばれた複数の津波石が存在している。1771年は琉球暦が使われており乾隆(けんりゅう) 36年卯歳だったため乾隆大津波又は八重山大津波と呼ばれていた。当時は薩摩藩(島津藩)に服属していた(1609年〜1879年)。牧野清氏が昭和43年(1968年)に著した「八重山の明和大津波」で日本暦に直されてから明和の大津波と呼ばれるようになった。石垣島の白保村では、この大地震に関する伝説がある。ある日白保の漁師達が漁で人魚を捕獲してしまい、その人魚を放すお礼に人魚から大津波が来ることを教えられた。村の中ではこの情報が確かなものか議論するが、結局信じる人々は於茂登岳に避難し、信じない人々は村に残るという決断を下す。そして津波は起こり、村は津波に飲み込まれてしまう。生き残った人々で白保村を再興、現在に至ると伝えられる。下地島の通り池にもこの大地震に関するともされる伝説が残っている(通り池#伝説参照)。奄美大島から南西諸島へ至る10島で2,900個のサンゴを放射性炭素年代測定法で調べた結果、浜辺や陸地にあがったのは1,000個で、石垣島付近の2島に限られていた。過去2,400年間で9回津波が来襲したという別の調査の結果が裏付けられた。

出典:wikipedia

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