藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ勧修寺流・藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の撰者として知られる。10歳で父と死別し、鳥羽院近臣であった義兄の藤原顕頼の後見を得て国司を歴任するも位階は停滞。岳父である藤原為忠の「為忠家百首」への2度の出詠など、天承・長承期(1131~35年)より詠作を本格的に始め、保延4年(1138年)藤原基俊に師事。保延6・7年(1140・41年)自らの不遇への悲嘆、出家への迷いなどを「述懐百首」に詠い上げる。崇徳天皇の歌壇の一員となり、「久安百首」を詠進する14名の歌人に加えられるなどの知遇を得る一方、美福門院加賀と再婚し、久安元年(1145年)以降、美福門院の御給で昇叙を果す。保元元年(1156年)7月の保元の乱により崇徳院歌壇が崩壊。保元4年(1159年)内裏歌会が再開されたが、二条天皇の歌壇では当時の歌の家であった六条藤家の藤原清輔が重用された。仁安元年(1167年)俊成は念願の公卿(非参議)となり、翌年御子左流に復す。その後「住吉社歌合」「廣田社歌合」などの社頭歌合の判者を務めるが、安元2年(1176年)9月咳病悪化により出家する。安元3年(1177年)に清輔が没し、治承2年(1178年)九条兼実と初めて会談、九条家歌壇に師として迎えられ「右大臣家百首」などを詠進する。寿永2年(1183年)後白河院の院宣を受け、文治4年(1188年)第七勅撰集『千載和歌集』を撰進、名実ともに歌壇の第一人者となった。文治5・6年(1189・90年)には皇大神宮・春日・賀茂・住吉・日吉の5社に百首歌を奉納(「五社百首」)。建久4・5年(1193・94年)頃成立した「六百番歌合」(九条良経主催、俊成加判)では、六条藤家と御子左家の歌人たちがその威信をかけて激突した。正治2年(1200年)以降歌壇を形成した後鳥羽院の命により「正治初度百首」「千五百番歌合百首」等を詠進。建仁元年(1201年)和歌所寄人、建仁2年(1202年)「千五百番歌合」の春歌第三・四巻の判者を務める。建仁3年(1203年)後鳥羽院より九十賀宴を賜り、鳩杖・法服等を贈られる。元久元年(1204年)秋「祇園社百首」、11月10日「春日社歌合」と最後まで詠作を続け、同年11月30日91歳で生涯を閉じた。家集に『長秋詠藻』『俊成家集(長秋草)』等があり、『長秋詠藻』は六家集の一つに数えられる。『詞花和歌集』以下の勅撰集に414首が採録され、その数は貫之・定家に次いで歴代歌人3位である。歌学書・秀歌撰に『古来風躰抄』『古今問答』『万葉集時代考』『正治奏状』『三十六人歌合』等がある。歌風は「たかくすみたるを先として艶なるさまもあり」、「やさしく艶に心も深くあはれなる所もありき」と評されたように格調高く深みのある余情美を特徴とし、古歌や物語の情景・心情を歌に映し奥行きの深い情趣を表現する本歌取や本説取(物語取)などの技法を確立した。歌合の判詞の中で用いた「幽玄」「艶」は、歌道から能楽・茶道をはじめとする日本の芸能に影響を与え、中世を代表する美的理念となった。指導者としても、息子・定家をはじめとして、寂蓮・藤原家隆・後鳥羽院・九条良経・式子内親王など優秀な歌人を多数輩出し、新古今歌風形成に大きな役割を果たした。平清盛の末弟・平忠度は武勇に優れていたが、俊成に師事し歌人としても才能があった。寿永2年(1183年)7月に平家一門が都落ちした後、忠度は従者6人と共に都に引き返し俊成の邸を訪れた。「落人が帰って来た」と動揺する家人達に構わず対面した俊成に、忠度は「(源平)争乱のため院宣が沙汰やみとなった事は残念です。争乱が収まれば改めて『勅撰和歌集を作るように』との院宣が出るでしょう。もし、この巻物の中に相応しい歌があるならば勅撰和歌集に私の歌を一首でも入れて下さるとあの世においても嬉しいと思えば、遠いあの世からお守りする者になりましょう」と秀歌と思われる歌・百余首が収められた巻物を俊成に託して立ち去った。翌年に忠度は一ノ谷の戦いで戦死した。その巻物に勅撰和歌集に相応しい秀歌はいくらでも収められていたが、忠度は勅勘の人だったので、俊成は忠度の歌を「詠み人知らず」として一首のみ『千載集』に載せた。その加護があったのか、既に70近かった俊成は更に20年余り生きた。(『平家物語』巻七「忠度都落」)俊恵が「御詠の中ではどれを優れた歌と思いますか」と俊成に尋ねたところ、俊成は「"夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里" 」を挙げた。俊恵は「世間の人は"面影に花の姿を先立てて幾重越え来ぬ峯の白雲" を優れているように申しておりますが」と言ったが、俊成は「よその人はそのように定めているのかもしれませんが知りません。自分では"夕されば"の方が優れていると思う」と答えた。俊恵はこの話を弟子の鴨長明に聞かせた後、「"夕されば"の歌は『"身にしみて"』という第三句がとても残念だ。景色・雰囲気をさらりと言い流して、ただ暗に身にしみたであろうと思わせてこそ奥ゆかしく優美なのに」と内々に批判した。(鴨長明『無名抄』「俊成自讃歌事」)俊成は"夕されば"の歌について、晩年(85歳頃)、「特筆すべき歌ではありません。ただ『伊勢物語』で深草の里の女が「鶉となりて」と言った事を初めて踏まえて詠んだのを、崇徳院からの叡感にあずかったばかりに記憶していただけです」と述べている。(『慈鎮和尚自歌合』)定家は為家をいさめて、「そのように衣服や夜具を取り巻き、火を明るく灯し、酒や食事・果物等を食い散らかしている様では良い歌は生まれない。亡父卿(俊成)が歌を作られた様子こそ誠に秀逸な歌も生まれて当然だと思われる。深夜、細くあるかないかの灯火に向かい、煤けた直衣をさっと掛けて古い烏帽子を耳まで引き入れ、脇息に寄りかかって桐火桶をいだき声忍びやかに詠吟され、夜が更け人が寝静まるにつれ少し首を傾け夜毎泣かれていたという。誠に思慮深く打ち込まれる姿は伝え聞くだけでもその情緒に心が動かされ涙が出るのをおさえ難い」と言った。(心敬『ささめごと』)※日付=旧暦藤原道長の玄孫にあたり、藤原氏北家長家流(御子左家)に属する。
出典:wikipedia
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