フレンスブルク政府(フレンスブルクせいふ、, )は、第二次世界大戦末期にドイツ第三帝国で設立された臨時政府。1945年4月末にソ連軍との戦いの末に陥落した首都ベルリンで行政・軍事の統治が不可能となったため、ナチス党政府の要人はプロイセン州の属州となっていたシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州にあるフレンスブルクに行政機能を移転し、疎開政府機関として無条件降伏までの敗戦処理を執り行った。デーニッツ政府()とも呼ばれる。連合国軍との間でドイツ軍の無条件降伏に向けた敗戦処理の交渉、権威が及ぶ範囲で有力なナチ党員・親衛隊(SS)隊員の要職からの解任を主な執務としたが、ドイツ全土には連合軍によって占領統治が行われており、その影響力は限定されていた。また連合国は政府としての承認は行わなかった。5月23日には閣僚が捕虜として逮捕され、その機能を失った。6月5日のベルリン宣言により、中央政府がドイツに存在しないことが確認された。1945年4月、ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーはベルリンにある総統官邸地下の総統地下壕で作戦の指揮を行っていた。ベルリンはすでにソ連軍の攻撃下にあり、包囲・陥落も時間の問題であった。親衛隊全国指導者・内相のハインリヒ・ヒムラーはかねてから画策していた首都機能の移転を実行するべく、その地を戦災被害が比較的少なかったドイツ北部のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州(当時はプロイセン州の属州)に決めていた。4月20日の総統誕生日にヒトラーは国防軍最高司令部(OKW)、陸軍総司令部(OKH)、、そして閣僚の避難を許可し、ドイツが戦線によって分断された時に備えて、ドイツ北部にいるドイツ軍の統帥を海軍総司令官カール・デーニッツ海軍元帥に委任した。デーニッツはキールに近いオイティン湖のほとりプレーン(Plön)のに移り、そこで、海軍全般の指揮の他に北ドイツでの難民の輸送、補給作業を指揮することになった。4月21日、ヒトラー、ゲッベルス宣伝相、ボルマン党官房長を除く主な閣僚も避難し、OKW総長カイテル元帥、OKW作戦部長ヨードル上級大将を含む国防軍最高司令部・陸軍総司令部の一部はデーニッツに合流するためプレーンへ、空軍総司令官ゲーリング帝国元帥を含む空軍総司令部と国防軍最高司令部・陸軍総司令部の大半、総統官房長官ハンス・ハインリヒ・ラマースはヒトラー総統専用のベルクホーフ山荘のあるオーバーザルツベルクへ疎開した。避難した閣僚の多くはオイティンに移り、4月23日には移転初の閣僚会議が地方議会議事堂で行われたが、閣僚会議の議長は閣僚の最年長で財務大臣のフォン・クロージク伯爵が務めている。一方のヒムラーはプレーンに近いリューベックに移り、スウェーデンの外交官ベルナドッテ伯爵を通じた米英軍との停戦交渉を極秘に行っていた。しかし、この交渉は失敗に終わった。4月28日、ヒムラーの和平交渉の存在がBBC放送で全世界に公表された。ヒムラーの和平交渉を知ったヒトラーは激怒し、ヒムラーの解任と逮捕を命令した。さらにヒトラーは4月29日に秘書官のユンゲ夫人に作成させたでデーニッツを後継者に指名した。ただし、デーニッツの地位は総統ではなく、ヒトラーが1934年に制定したにより権限を吸収して以来空位となっていた大統領に、政権を握った1933年以来のポストだった首相にはゲッベルスを指名していた。また、この遺書ではゲーリング、ヒムラーを裏切り者として非難し、彼らを党から追放すると記してあった。その時、ゲーリングは既に全てのポストから解任されてオーバーザルツベルク駐在のSS部隊に身柄を拘束され、監視下にあった。一方、ヒムラーはデーニッツの元にいたが、彼はヒトラーにこのような宣告をされていたことを知らされていなかった。4月30日午後3時半頃、ヒトラーはベルリンの総統官邸地下壕で夫人のエーファ・ブラウンとともに自殺した。しかし、この時のベルリンはソ連軍の猛攻下にあり、総統官邸地下壕はほとんど孤立していたため、ヒトラーの死はすぐに外部に漏れることはなかった。4月30日早朝、デーニッツは総統官房から無線で「ヒムラーがスウェーデンを経由して連合軍と交渉する反逆罪を犯し、迅速かつ冷厳にSS総司令官に対処すべし」との指令を受けた。しかし、全ての権限はヒムラーが掌握しており、地上での戦闘力のない海軍総司令官が指令を実行するのは容易ではなかった。また、敵側のラジオ放送を根拠にした点からも懐疑的であり、午後にリューベックでヒムラーと会見した。ヒムラーは敵との接触を完全に否定し、デーニッツも実行の難しい「反逆者の処罰」よりも、ヒムラーが後継者から除外された事実だけを伝えるとともに、「自らは海軍は降伏させるが、海軍軍人として最後の戦闘での死ぬ」と海軍軍人としての決意を固めた。同日午後にボルマンから特別の暗号解読認証を受けたドイツ海軍通信部隊経由で「総統はゲーリング前帝国元帥に換えてデーニッツ元帥を後継者と定められた。今後は現状にて可能な全ての処置を取られたし」(第1号電報)という電文が届けられた。これにより、デーニッツはヒトラーがすでに死亡したか、または死を目前にしていると考えた。デーニッツは湖畔を歩き、副官ノイラートに「国家形態をどうするべきか」とつぶやいた。これは後に発表した「三本の柱をもつ憲法(静の元首、行動の政府主席、国民の意思を代表する議会)」の原案について口にした最初であった。デーニッツは「ヒトラーの後継者となることを義務とみなした。国民と軍隊に最良と信ずる道を歩むしかない。」「(軍人としての決意を翻すことが)仮にそれが自分のためには不名誉なものであっても」と副官ノイラートは後に回想している 。5月1日午前0時、国内最大の実力者のヒムラーが重武装のSS隊員と共にデーニッツの元を訪れた。デーニッツが第1号電報を示すと、ヒムラーはデーニッツの地位を承認する代わりとして首相の地位を要求した。デーニッツは「私の作る極力非政治的な政府に政治的に傑出した者の席はないし、相手側から貴殿は交渉相手になりえない」と降伏交渉に重荷になることを説明して断った。ヒムラーは理解しなかったが、引き下がった。同日午前、デーニッツの元にボルマン署名の「遺書発効す。自分は速やかにそちらに赴く予定。それまでは公表を控えられるべし」との、ヒトラーの死去という事実については曖昧にしたままの第2号電報が入電した。これはボルマンがヒトラーの死という事実を隠蔽することによって自身の権力を延長しようと図ったものであった。しかしデーニッツは敵側の報道から知られることを危惧してドイツ国民にヒトラーの死を伝えることとした。午後10時15分にハンブルク放送のラジオ演説でデーニッツは、「英、米、ボルシェヴィズムと戦い続ける意思」を改めて表明し、自らにヒトラーから国家元首と国防軍最高司令官としての職責が託され「ドイツ国防軍を指揮し、守り戦い続ける。(中略)私の任務は押し寄せる共産主義たちによる破滅からドイツ人を救うことであり…来るべき苦難の時代に力の及ぶ限り耐えうる生活条件を作り出す努力をする…私を信頼してもらいたい、諸君の道すなわち私の道である…。」と国民の協力を求めた。ただ、その地位は曖昧なために署名の肩書きは大提督とだけ記された。同日午後、ゲッベルスとボルマンの共同署名になる明確な内容の第3号電報が到着した。ここではヒトラーの死の事実が初めて明らかにされるとともに、ヒトラーの遺言の概要が伝えられていた。デーニッツはここでヒトラーが自殺し、自身の大統領就任が発効したことを知った。この第3号電報ではヒトラーの遺言で首相にゲッベルス、ナチ党担当相(ナチ党の党首)にボルマン、外相にザイス=インクヴァルトオランダ総督が指名されていることも通知されたが、当時ゲッベルスは総統地下壕に滞在しており、連絡をとることができなかった。また、ヒトラーの遺書は3通作られて総統地下壕から外部(デーニッツ宛、陸軍総司令官に任命された中央軍集団司令官フェルディナント・シェルナー陸軍元帥宛、ミュンヘンのナチ党文書館宛)に送られたものの、いずれも輸送の途上で隠匿されてしまい、デーニッツはその全文を知ることができなかった。デーニッツはヒトラーの遺言による閣僚任命に驚いたが、出来るだけ沢山の人間を救いつつ戦争をできるだけ早く終結させるための交渉に極めて重荷になる人事を「ヒトラーの死後の命令」として無視することを決意し、ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク財務相を閣僚首班に指名し、組閣を依頼した。なお、デーニッツの身辺警護隊としてフォン・ビューロとアリ・クレーマーを指揮官として、水兵による陸戦隊が編成されたほか、のフォン・フリーデブルク大将を2月1日付に遡及して海軍総司令官に任じた。5月3日、新政府は拠点をフレンスブルク郊外のミュルヴィックにあったへ移した。この際、シュペーアとヒムラーはともにバート・ブラムシュテットへ一時疎開している。5月5日、「フレンスブルク政府」は初閣議を開いた。また、同日にヒムラーも150人あまりの側近を連れて合流し、ゲシュタポの解体に手をつけたが、この際にSS隊員等の身分偽証工作を行ったとされる。5月6日、デーニッツはシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の最高責任者としての大管区指導者ヒンリヒ・ローゼを解任、17時には入閣を望んでいたヒムラーとのアルフレート・ローゼンベルクを全ての職務から解任したほか、ヒトラー内閣の司法相オットー・ティーラック、生死不明であったゲッベルスを解任した。これらの解任は、フレンスブルク政府が連合国によって容認されやすくするためとも、生え抜きの党幹部の在任が新政府の障害となった事などが理由であるとされる。すでにドイツがその体制を維持できず、軍部ももはや降伏以外に道がないことをヒトラー同様に承知していた。そして、デーニッツはドイツの最高指導者の地位の継承が「ヒトラーには出来なかったことを成すこと」と了知していた。しかしソ連に降伏した国防軍兵士や難民がソ連軍兵士からの虐殺など容認しがたい被害を受けているとの事実を、難民らからの聞き取りとドイツ軍が奪還したソ連軍が占領した村などでの実地調査から、「殺人、放火、拷問、暴行、略奪」の報告を海軍法務局から既に受けていた。このため、デーニッツは西方(イギリス軍やアメリカ軍の占領地)での投降は受け入れられるが、東方(ソ連軍)では戦闘を継続し、ソ連側に取り残されている市民や兵士の本国と西方占領地区への避難のルートと時間を確保するべきだと考え、部分的な降伏を画策し、東部地域での戦闘継続を画策した。彼の意向を受けたOKW総長ヴィルヘルム・カイテル元帥及びOKW作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将は、西側から侵入する米英軍の方へドイツ軍の残存兵を移動するよう命令した。5月6日、デーニッツはヨードルに連合軍に対する国防軍の降伏文書に署名する許可を与えた。翌5月7日、対米英仏連合軍への降伏はフランスのランスにおいて調印され、5月8日午後11時1分が停戦発効時間であると定められた。しかし連合軍がベルリンで降伏文書を批准する調印式を要求したため、国防軍代表のカイテル元帥、海軍代表フォン・フリーデブルク大将、空軍代表シュトゥムプフ上級大将らを派遣した。ベルリン時間で5月9日午前0時15分(ロンドン時間5月8日午後11時15分、モスクワ時間5月9日2時15分)、ベルリンのカールスホルストにおいて降伏批准文書が調印された。これらの文書に署名したのは国防軍の軍人のみであり、政府の代表者の署名は行われなかった国防軍の無条件降伏後、軍需相シュペーアはフレンスブルク政府自体が解散しなければならないと提案した。一方、デーニッツとその他の大臣たちは臨時政府として戦後のドイツを統治できるという希望を持っていた。イギリス国民に勝利を宣言するウィンストン・チャーチルのスピーチ「明らかな国家元首であるデーニッツ元帥」という部分は事実上、少なくとも無条件降伏の瞬間までフレンスブルク政府を「ドイツの当局」として認識していたことの証拠であった。しかし、連合国はフレンスブルク政府を即座に解体することを決定した。5月20日、ソ連政府はそれまでのフレンスブルク政府について考えられていたことを白紙にした。彼らはデーニッツ政府(彼らは「デーニッツ・ギャング」と呼んだ)がどんな権力を持つことも許さず、どんな考えでも厳しく批判、これを攻撃した。プラウダには以下の通り記述された。5月23日、イギリス軍の連絡将校はデーニッツの本部へ向かい、すべての政府要員と話すことを要求した。その後、連絡将校はデーニッツ政府の解散とすべての要員の逮捕を命じているアイゼンハワー将軍の命令を読みあげた。これによってフレンスブルク政府は解体され、デーニッツ以下の政府要員は連合国に拘束された。なお、それに先立つ5月13日、国防軍最高司令部総長カイテルは連合軍に逮捕された。国防軍最高司令部総長の職はヨードルが引き継いだものの、彼も5月23日にデーニッツらと共に逮捕された。
出典:wikipedia
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