競馬学校(けいばがっこう)日本中央競馬会 競馬学校(にっぽんちゅうおうけいばかい けいばがっこう)は、千葉県白井市の千葉ニュータウン西白井地区にある、日本中央競馬会(以下「JRA」)の騎手および厩務員の候補生を育成する機関、および施設である。「学校」という名称ではあるが、あくまでもJRAに付属する教育訓練施設であり、学校教育法に規定される専修学校や各種学校ではない。開校は1982年3月23日(騎手課程・厩務員課程のそれぞれの第1期生の入学式は騎手・4月12日、厩務員・4月1日)。馬事公苑の分苑(騎手養成所)を前身とする。なお、地方競馬(平地)の騎手養成機関としては地方競馬教養センターがある。3年制の騎手課程と、半年間の厩務員課程の2課程から成っている。生徒は全て寮に入る全寮制(期間中は年末年始などの帰省時期、及び後述の2年次10月-3年次9月(実践課程・前期)の配属予定先厩舎での研修期間中を除き学校内の生徒寮で合宿生活を送る)で規則正しい生活環境をこなしつつ、必要な訓練が行われている。騎手課程は1学年あたり概ね10名強、厩務員課程は約25名で構成される。騎手課程では騎手としての基礎体力訓練から騎乗技術、厩舎での厩務訓練等を行う。中でも騎手課程在籍者にとって一番神経を使うのは体重管理で、在学中はもちろん、厩舎実習中も減食等で体重を年齢によって定められた値に維持しなければならない。また実践課程後期(3年次)の秋〜卒業式当日には走路や中山競馬場を使っての模擬レースも行われており、現役騎手がエキストラ騎乗する10月中旬のレースや競馬場での模擬レースは一般公開され、誰でも観覧することができる。厩務員課程は競走馬に調教騎乗できる実力を養成すべく募集が行われているので、育成牧場などでの労働経験と騎乗の経験がなければ入学はほぼ不可能である(願書には牧場での勤務期間、1Fの追い切りタイムを記入する欄もある)。訓練期間は半年間で、調教訓練、厩舎・競走馬管理、装蹄などの訓練が行われる。中央競馬では新規の騎手・調教師免許の発行、免許の更新の基点を毎年3月1日に定めている(競馬開催のそれは1月1日となっている)。なお、地方競馬教養センターと異なり、調教師課程、調教助手課程は存在しない。かつては中山競馬場の白井分場として現役競走馬の調教が行われていたが、1978年の美浦トレーニングセンター開場にともない白井分場の厩舎群も美浦に移転。残された施設は翌1979年4月より「馬事公苑白井分苑」としてリニューアルされ、中央競馬の騎手養成業務の一部を移した。1982年に競馬学校として改組、全面移転。敷地総面積はおよそ26万3000平方メートル。システムとしては、馬事公苑の騎手養成課程(長期)を引き継ぎ、3年間の全寮制による養成を経て乗馬経験のない者であっても騎乗技術を身に着けることができるようカリキュラムが構成されている。入学の時点で生徒数を絞り込んで少数精鋭による訓練を行う方針が採用されており、1学年の生徒数は10名ほどで、1人の担任と2人の教官が担当する。寮については1年生に3人部屋、2年生以上に個室が与えられる。深夜3時から4時にかけて調教が始まる中央競馬の慣習に対応できるよう、起床時間は5時40分に設定されている(夏場は4時40分)。なお、日曜日は休校日で外出が認められている。また校外からのお菓子の買い出し・持ち込みは一切厳禁とされている(校内の売店である場合は後述のとおり条件付きで可)が、校内の食堂には煮干しがありそれは自由に食べることができる教官については、騎手経験者が採用されるケースがあり、徳吉一己(退官、現・競馬評論家)、蓑田早人、横山賀一、小林淳一らが務めている。尚、小林は競馬学校騎手課程卒業者からの初の採用となった。入学した4月から2年生の9月15日までは、基礎課程として競馬学校にて基礎力を養成する。授業科目には実技訓練と学科とがあり、授業時間の比率はおよそ2:1である。実技訓練については、1年目はほとんどが基礎的な馬術に関するもので、2年目からプロの騎手のようにモンキー乗り(競走姿勢と呼ばれる)をとっての訓練が始まる。学科には競馬法・馬学・馬術学のほか、高校卒業者と同程度の一般常識を習得させるべく、英語・国語・数学などの一般科目もある。基礎課程の終了した日の翌日(進級日)からは実践課程となる。実践課程の前期として10月から1年間、美浦と栗東のトレーニングセンターで、実際に厩舎スタッフの一員となり実習を行う。3年生の10月からは実践課程後期として、競馬学校で学習を行う。この時期には訓練の総まとめとして、中央競馬の競馬場のコースを使った模擬レースが行われる。騎手免許試験の受験はこの時期に行われ、2月に口頭試問および技能試験と合格発表が行われる。卒業時に最も成績優秀だった生徒にはアイルランド大使特別賞(後述)が贈られる。卒業直前に現役騎手を特別講師に招いての授業が行われることもあり、一例を挙げると20期生では武豊が、25期生では藤田伸二が騎手候補生に対して講義を行っていた。在学中の成績や怪我など、諸事情によって留年となる場合もある。留年となる具体的な基準等は一般には非公開だが、一例として第3期生で入学した芹沢純一は卒業試験直前に落馬骨折でこれを受験できずに留年し(翌年卒業)、また第24期生で入学した平野優のケースでは「精神面での弱さがあった」として、牧場などでの実習が追加で課されたことが明らかにされている。なお平野は第26期生として卒業している。馬事公苑時代は、長期騎手課程は2年目の5月から翌年明けまで厩舎実習、3月に卒業の2年制だった。卒業後は「騎手候補生(下乗り)」として生徒でも騎手でもない身分で、卒業後に騎手免許試験を受験する必要があった。競馬学校の場合、現在では短期の騎手養成課程が無く、JRAの厩舎に下乗りとして入り調教師の下で騎乗技術を修得し騎手免許試験を直接受験し合格して騎手免許を取得する、俗に「一発試験」などと呼ばれる手法での騎手免許取得も現実的に見て不可能である。その為、競馬学校騎手教育課程はJRAの組織に直接入って騎手となるための実質唯一のルートとなっている。第26期生以降の模擬レースは「競馬学校チャンピオンシップ○○○○」(○○の中には西暦年が入る)と題する半年間のシリーズとなり、ポイント形式で総合優勝が争われている。応募資格として学歴・年齢・身体的特徴などの要件が定められている。このうち学歴および年齢については、中学卒業見込みまたは中学卒業以上でありかつ、入学時の年齢が20歳以下とされているが、実際には高校を卒業する頃には訓練を受けるのに必要な身体の柔軟性が失われるという理由から、高校卒業者の合格は困難とされる。身体面については、身長体重が一定水準以下であることが要求され、入学審査においては本人だけではなく家族の体格も考慮される。応募者のうち募集資格を満たす者に対し、一次試験と二次試験が課される。一次試験では学力と基本的な身体能力を、二次試験ではバランス感覚など騎手に要求される身体能力が審査される。また、試験と同時に身体計測・健康診断も行われる。合格者に対しては入学直前の3月下旬に体験入学が実施される。入学前の規定の体重の維持は厳守で、体験入学の際に体重が基準を超過していると、その時点で入学内定を取り消される場合もある。応募者数については、開校当初はおよそ60-70名であったが、1985年に100人を超えた後増加を続け、第二次競馬ブームとなった1990年代後半には約700名を数えた。その後減少を続け、2000年代後半の時点で約150名である。競馬学校騎手課程では体重管理や健康面に関する各種問題などから毎年の様に中途退学者が出ており、ただでさえ元から生徒(騎手候補生)の数が少ない少数選抜型の教育課程ではあるが、さらに入学時と卒業時を比較して数名減となるのが通例となっており、半減以下となった期もある。「入学できれば後は品行方正に務め、着実に毎日のカリキュラムを消化していけば確実に卒業できる」などとはおよそ言えない、生徒数に対する中途退学率から見た場合にもいわゆる普通の学校・専門学校とは大きく様相を異にしている、生徒自身や保護者にとっても決してリスクが低からざる一面がある。これは第一に、負担重量という形で体重に厳格な制限が存在する騎手という職業に就く事を目的とした教育機関である以上、体格について絶対的な上限が存在し、特に体重については卒業後に至るまで過酷なまでの制約が終始ついて回り続けるなど、職業生命にも関わることが大きな要因になっている。在学中に第二次性徴の影響によって想定以上に身長が伸び体重も増加し、過重な減量を迫られた末に自己管理や食事制限の限界を超え心身に変調を来たしたり、食べ盛りの年齢には厳しい食事制限が耐えられない等の理由で退学に追い込まれていった生徒の話は過去にも聞かれている。また、監視の目を見計らって寮を抜け出し、近隣のコンビニエンスストアまで菓子などを買い出しに行っていた等、競馬学校を卒業した現役騎手の数名がその厳しさについて思い出話として語っている。その他、騎手課程への入学内定から入学までの間に身体が成長するなどして減量などの問題が発生し、騎手課程への入学辞退を余儀なくされるケースも見られる。他方で、近年の生徒の退学にはJRA側の事情も垣間見られる。2005年度の入学生以降、JRAは競馬学校について見直しを行い、受益者負担の原則を導入するなど運営方針を大幅に変更した。これに伴って授業料や食費など保護者の経済的負担が大幅に増加したことなども要因となって、競馬学校騎手課程への受験者が大幅に減少しており、総体的に見れば受験者もまた質的な面で一時期ほど際立った高水準の者が揃っているとは言えなくなったが、それにもかかわらず選抜基準は維持あるいは上昇し、合格者・入学者が減少することとなった。一方で、不景気による馬主減や特に関東では美浦トレセン自体の著しい不振などから競走馬不足となり厳しい経営を強いられている調教師・厩舎の多くから若手騎手や騎手候補生の育成の一翼を担う余力が失われており、さらには地方競馬所属騎手や短期免許で騎乗する外国人騎手の台頭、馬主の発言力の上昇などといったことが要因となって「騎手免許はあっても騎乗機会が得られない」という騎手が続出しているトレセン内部の実情があり、近年では見習騎手にもデビューと同時に技術と結果がより強く要求される時代となるなど、現場サイドから「即戦力の育成」という要求が競馬学校に突きつけられる格好となった。これらの要素が重なった結果、騎手課程では育成カリキュラムの大幅な強化が行われ、これに付いていけない生徒が退学するケースが少なからず発生する様になるなど、つまりは、カリキュラムについて行けない生徒の脱落を予めある程度織り込み済みの育成が行われているのではないかという見方もされる状況である。この様な状況の末、2008年3月の騎手デビューは僅か3名という事態になり、この世代では3年次の恒例行事となっている12月の中山競馬場での昼休みの模擬レースが行えず、「騎乗供覧」という形でのお披露目を余儀なくされた。入学内定者と卒業生の氏名はJRAから発表されるが、騎手課程の生徒の中途退学や入学内定者の辞退について報じられることは少ない。1992年には第11期生として3人の女性が入学したが1994年までに全員退学し、そのうち1人からは競馬学校側から退学を強要されたと主張され、民事訴訟を提起される事態となった。1999年には石崎駿の病気による退学、2009年には入学前にボクシングで実績を挙げていた原隆二の退学(およびプロボクシングジムへの入門)が報じられた。それら以外でも、騎手・元騎手の関係を見渡しても津留千彰の息子の津留和希、鷹野宏史の子息、北村浩平の弟、張田京の息子の張田昂、柴田善臣の息子の柴田健登などが中途退学あるいは入学辞退をしている。なお、石崎駿の退学の際には、地方競馬のトップジョッキーであった父の隆之が退学が決まった駿を迎えに行ったが、その際「騎手の道は中央だけじゃないですから」と言ったといい、これも1つのきっかけとなって駿の退学の真相については、競馬マスコミ・競馬ライターなどの間で競馬学校の内部事情や体質なども含めて様々な憶測や噂を呼ぶことになった。なお競馬学校では退学の措置のほかに、素行不良者に対して停学の措置もある。過去に停学処分を受けたことが明らかになっている人物としては藤田伸二などがいる。アイルランド大使特別賞は競馬学校卒業時に、特に騎乗技術が優秀だった者に対してアイルランド大使より贈られる。1994年より制定された。出典:日本中央競馬会「騎手課程卒業者名簿」○は現役騎手、△は現在は調教師免許取得者、✚は物故者、無印は騎手免許を現在有しない者。JRAの厩務員になるためには、半年間の厩務員課程を履修しJRAの厩務員試験に合格する必要がある。なお、体重や視力等の定められた要件を満たせば調教助手試験の受験資格も与えられる。※括弧内は入学年と月。
出典:wikipedia
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