鳥取地震(とっとりじしん)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)9月10日17時36分54秒に発生した地震。震源地は鳥取県気高郡豊実村(現・鳥取市)野坂川中流域(北緯35度28.3分、東経134度11分)。M 7.2(Mw 7.0)。震源が極めて浅く、鳥取市で震度6、遠く瀬戸内海沿岸の岡山市でも震度5を記録した。1945年の敗戦前後にかけて4年連続で1,000名を超える死者を出した4大地震(東南海地震、三河地震、南海地震)の一つである。激しい揺れにより、鳥取市の中心部は壊滅し、古い町並みは全て失われてしまった。木造家屋のほぼ全てが倒壊した一方で、五臓円薬局ビルなど鉄筋コンクリートの建物は比較的持ちこたえた。家屋の全壊率は80%を超え、特に千代川と袋川流域の沖積地質の地域での被害が突出していたが、これは湿気によって家屋の土台が腐っていたためとされている。夕食の準備中だったこともあり、地震後には、市内16ヶ所から出火。水道管が破裂するという悪条件であったが、地震前に降雨があり湿度が約90%と高かった事と倒壊した家屋が破壊消防の防火帯の役目を果たした事などにより、市民のバケツリレーでも容易に延焼を食い止める事ができ大火にはならなかった。また、地震の影響による液状化現象も見られた地域も存在し、山陰本線や因美線といった鉄道もこの被害を受けたため、長期間にわたって鉄道が不通になった。この他にも電話をはじめとする通信や道路も大きな被害を受け、梨などの農産物への被害も甚大であった。岩美郡岩美町荒金の荒金鉱山では、この地震により鉱泥を貯めていた堰堤が決壊して直下にあった朝鮮人労働者の宿舎や荒金集落を襲い、朝鮮人労働者やその家族・地元住民ら65人が犠牲となった。被害総額は1億6,000万円(当時)で、戦時体制下であったため戦地へ出征している男性が多く、死者の約65%(1,083名のうち 702名)が女性であった。なお、死者の中には歌舞伎役者の6代目大谷友右衛門がいた。この地震では、2つの断層が出現した。ひとつは鳥取市西方にある気高郡鹿野町(現・鳥取市)から鳥取市上原地区にかけて長さ8kmにわたって延びた「鹿野断層」である。この断層の南西寄りは北側が最大75cm沈下し、東方へ最大150cm動いた。北東寄りは南側が最大50cm沈下し、西方へずれるという複雑な動き方をした。もうひとつは鹿野断層の北に並行してできた「吉岡断層」である。北側が最大50cm沈下し、東方へ最大90cm動いた。関東大震災の後であり、また第二次世界大戦の最中であったため、住民の防災訓練が徹底されていた。このため、略奪や関東大震災当時に見られた情報の混乱による流言蜚語などは起きなかった。戦時中なので情報は統制されていたが、市関係者以外閲覧禁止として鳥取県震災小史が発刊されている。それによれば、戦時中ながら国内外から多数の援助があり、満州国皇帝からも支援金が送られたと記録されている。しかし、終戦時に多くの資料が破棄されているため、地震の詳細は不明な点も多い。
出典:wikipedia
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