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尾口村

尾口村(おぐちむら)は、かつて石川県の南部に位置していた村である。白山の登山口として知られていた。2005年1月の時点で人口が石川県内では最少、日本国内では30番目に少ない村であった。2005年2月1日に、野々市町を除く石川郡を構成する町村、ならびに松任市と合併し、白山市になった。白山国立公園の主峰・大汝峰(2684m)を境に、南東は岐阜県白川村、西南は旧白峰村、西側は小松市・旧鳥越村に、北側は旧吉野谷村と接していた。1000m~2000m級の山々が連なっているため、耕地や宅地に適した土地は総面積のおよそ2%に過ぎない。起伏の激しい地形が多いため、集落は白山から流れる手取川とその支流の尾添川が形成した小規模な河岸段丘や川沿いの山腹斜面に点在している。尾口村の植生は、標高400mから1600mに至る山地帯から、標高2000m以上の高山帯にかけて展開している。また、村の東側は、全面積のほぼ半分が白山国立公園に指定されている。そのため、夏にはクロユリやハクサンコザクラなどの高山植物が群生を形成するとともに、イヌワシやニホンカモシカなどの多様な動植物が残されている。また、世界有数の豪雪地帯である。古くは、縄文時代中期中葉の古府式期につくられた遺跡が女原と尾添で発掘されている。しかし、水稲が伝播したころから水田を作りやすい平野部に人が移ったため、過疎が進んでいく。その後、一帯には人々が集団生活を送っていた形跡はほとんどなく、史料の残る中世にまで歴史を譲ることとなる。中世になると、日本三霊山のひとつ白山の杣取権(白山禅頂の社殿造営権)を巡って加賀・越前・飛騨の村で争いがたびたび起こった。1655年には加賀・越前両藩の間で争いが起こり、徳川幕府が仲裁をおこなうこととなる。最終的には、加賀藩主前田綱紀の岳父保科正之の斡旋によって1668年から白山麓十八ヶ村(東谷11ヶ村:瀬戸・女原・二口・五味島・釜谷・鴇ヶ谷・深瀬・下田原・島・風嵐・牛首、西谷5ヶ村:杖・小原・丸山・須納谷・新保、尾添谷:荒谷・尾添)は天領となった。明治維新を迎え、白山麓十八ヶ村は1870年(明治3年)12月に本保県に入る。続いて1872年(明治5年)11月には石川県能美郡に含められ、石川県の管轄となった。 昭和初期までは、農業・出作り・養蚕業・炭焼きが主流であった。特に炭焼きは、作業効率の良さから村内の男性の仕事として定着し、戦時中には木炭車が登場したことで飛躍的に需要が伸びた。しかし、昭和30年代の燃料革命を境に需要が激減し、衰退した。また、深瀬では他の集落にはない「桧笠」作りが一大産業としてあった。集落全体が桧笠作りという工業に携わっており、組合を作り、組織的な運営を行っていた。だが、手取川ダム建設で水没対象地区となり、多数の村人が移転したことにより、笠作りに従事する人は激減している。最近では、スキー場及び温泉施設等のサービス業や建設業に従事する者が多い。石川県警察鶴来警察署が管轄する。松任石川広域事務組合消防本部が管轄するなお、村内に消防署はない。全域を尾口村が供給する。尾口村単独の公共下水道が接続される。松任石川広域事務組合が、松任市の松任石川環境クリーンセンターで処理する。金沢市の西日本電信電話(NTT西日本)金沢支店が管轄する。松任市の金沢国税局松任税務署が管轄する。小中併設校である。白山市誕生後の2008年3月に閉校、跡地に建設される白山市立白嶺小中学校に統合。

出典:wikipedia

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