村山 富市(むらやま とみいち、1924年3月3日 - )は、日本の政治家、労働組合指導者、陸軍軍人。労働組合運動から日本社会党の政治家となり、大分県大分市議会議員(2期)、大分県議会議員(3期)、衆議院議員(8期)、日本社会党委員長(第13代)、内閣総理大臣(第81代)、社会民主党党首(初代)等を歴任。2016年現在は社会民主党名誉党首である。いわゆる「村山談話」を発表したことで知られる。勲等は桐花大綬章。軍人としての最終階級は陸軍軍曹。大分市議会議員、大分県議会議員を経て、衆議院議員として国政に参画した。社会党が左右分裂していた時代には左派社会党に所属。国会議員に当選後、日本社会党の党内では政権構想研究会や水曜会に所属するなど、一貫して社会党右派として活動した。衆議院では社会労働委員会や予算委員会の理事を務め、物価問題等に関する特別委員会では委員長に就任した。日本社会党国会対策委員会委員長などを務めたのち、山花貞夫の辞任にともなう日本社会党委員長選挙に立候補し当選した。非自民・非共産連立政権では与党第一党の党首として細川内閣や羽田内閣を支えたが、改新結成騒動などを巡り対立が激化し、連立政権から離脱した。自社さ連立政権の発足にともない第81代内閣総理大臣に就任し、1994年6月30日から1996年1月11日まで在任した。その後、日本社会党を解党させるとともに、新たに社会民主党を結成し、同党の党首や特別代表を務めた。現在は学校法人明治大学の顧問や大分県職員連合労働組合の特別顧問を務めるとともに、社会民主党の名誉党首や明治大学校友会の名誉会長などの名誉職を務める。また、明治大学より名誉博士の名誉学位を授与されている。1924年、大分県大分市の漁師の家に11人兄弟の6男として生まれた。1936年、大分市立中島尋常小学校卒業、1938年、大分市立大分高等小学校卒業後、東京に出て、昼間は機械工場や印刷工場などで働きながら、夜間は東京市立商業学校に学んだ。1943年、旧制明治大学専門部政治経済科に入学。哲学研究部に属す。このころ、同じく明治大学に通っていた丸谷金保に誘われ、穂積五一が運営する学生寮「至軒寮」に入った。1944年、学徒動員で石川島造船所に配属された。同年、成人し徴兵検査を受け、学徒出陣で宮崎県都城市の日本陸軍歩兵第23連隊に二等兵として入隊。1945年8月15日、幹部候補生として陸軍軍曹の階級で終戦を迎えた。1946年、旧制明治大学専門部政治経済科を卒業した。1948年、大分県漁村青年同盟の書記長に就任した。漁業協同組合設立等の成果を収め漁村青年同盟が解散すると、その後は大分県職員労働組合の書記として活動した。1951年、大分市議会議員選挙に立候補したが、次点で落選。1953年、ヨシヱ夫人と結婚。再起を期した1955年、大分市議会議員選挙に日本社会党から立候補し、当選(以後当選2回)。1963年、大分県議会議員選挙に支持者の後援で立候補し、当選(以後連続3回当選)。1972年12月、第33回衆議院議員総選挙に立候補し、トップで初当選(同じ自治体議員経験者たる社会党新人代議士に竹村幸雄)。以降、落選1回を挟み、通算当選8回。1973年には横路孝弘や田英夫らと「新しい流れの会」に参画。1991年7月、土井たか子に代わり田邊誠が社会党委員長に就任すると、村山は国会対策委員長に就任した。1992年のPKO国会では、国会対策委員長として陣頭指揮を執って粘り強く抵抗したものの、6月に自公民3党の賛成多数で成立。国会対策委員長として国会運営に携わったことから、自民党の梶山静六、公明党の神崎武法ら、各党国会対策委員長とのパイプを持つに至った。1993年1月、田邊誠に代わり山花貞夫が社会党委員長に就任したが、村山は国会対策委員長に留任した。同年7月、第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数を回復できず、一方の社会党も新党ブームに埋もれ議席をほぼ半減させた。8月、社会党を含む8会派により非自民連立政権である細川連立内閣が発足。山花貞夫は政治改革担当大臣として入閣したものの、総選挙での敗北の責任を取り委員長辞任を表明した。後任の委員長には委員長代行久保亘と村山が有力視されるが、委員長選挙への立候補を久保が辞退。9月に行われた委員長選挙では、無投票当選阻止を図って立候補した翫正敏を大差で破り、村山が社会党委員長に当選した。当選後、書記長には久保亘を起用した。1994年4月、細川護熙内閣総理大臣が辞任を表明すると、連立与党は次期首班に新生党党首羽田孜(細川内閣で副総理兼外務大臣)を推すことで合意し、国会で羽田が首相に指名された。しかし、首班指名直後に新生党、日本新党、民社党などが社会党抜きで院内会派「改新」を結成すると発表。社会党の与党内での影響を抑えるためのもので、「改新」は連立与党内で社会党を大きく上回る最大勢力となった。しかし社会党には事前の相談がなかったため、村山はこれに強く反発して社会党の連立離脱を表明、羽田内閣は少数与党で発足することとなる。羽田政権下、社会党内では久保亘、佐藤観樹、上原康助、赤松広隆らが連立復帰を主張する一方、山口鶴男、大出俊、野坂浩賢らは連立離脱を支持した。6月25日、進退窮まった羽田内閣が総辞職し、社会党を巡り自民党・連立与党が協議を行うなか、自民党総裁の河野洋平が社会党委員長首班の連立政権を打診し、自社さ共同政権構想に合意した。しかし、自民党総裁経験者である海部俊樹が「社会党委員長を首班に支持できない」と主張し、それに中曾根康弘も同調し、連立与党は海部俊樹を統一候補に指名した。6月29日、首班指名が行われるが、衆議院で過半数に達せず、決選投票となった。その結果、村山が指名決選投票で海部を破って内閣総理大臣に指名され、自社さ連立政権内閣が発足した。ここに1947年の片山内閣以来47年ぶりの社会党首班内閣誕生となった。また、1955年の自民党誕生以降から2010年6月に菅直人が内閣総理大臣に就任するまでの間では、自民党籍を有したことのない唯一の内閣総理大臣であった。1994年7月、第130回通常国会にて所信表明演説に臨み、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した(後述)。1995年1月17日、兵庫県南部地震に伴う阪神・淡路大震災発生時、日本国政府の対応の遅さが批判され、内閣支持率が急落した(後述)。3月20日には「オウム真理教」幹部による地下鉄サリン事件が起こった(後述)。その後、公安調査庁の調査結果を尊重し、オウム真理教への破壊活動防止法適用を公安審査委員会に申請した(後に基準を満たさないとされ適用は見送られる)。5月10日、自由民主党幹事長森喜朗が「村山総理は『過渡的内閣には限界がある』と洩らしている」と発言し、総理大臣官邸での村山との会話を洩らした。この発言を受け読売新聞社が「首相、退陣意向洩らす」と報道し、他社もこれに続く大騒ぎとなる。その結果、自社さ連立政権全体から森は猛反発を受け、閣内では村山の慰留に努める雰囲気が醸成され、村山内閣はその後も継続した。6月9日、衆議院本会議で自民・社会・さきがけ3会派共同提出の「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」(不戦決議)が可決された。6月21日、全日空857便ハイジャック事件が発生した際には、警察の特殊部隊に強行突入を指示し鎮圧した(後述)。7月、「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)を発足させた(後述)。同月、第17回参議院議員通常選挙が行われた。この選挙は、自民党内閣ではあるが非自民首相の大型国政選挙としては、自民党が結党した1955年以来、初めてであった。この選挙で日本社会党は大きく議席数を減らしたため村山は辞意を漏らしたが、与党側が慰留したことから首相を続投し、内閣改造を行った。8月15日、『村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」』(通称村山談話)を閣議決定した(後述)。デフレ不況が顕在化してきた中で、1996年1月5日、首相退陣を表明した。自社さ政権協議にて、自民党総裁橋本龍太郎を首班とする連立に合意した。11日に内閣総辞職し、橋本連立内閣が発足した。村山内閣の間、首相秘書官は、園田原三(社会党中央本部)、河野道夫(左同)、岩下正(大蔵省)、乾文男(左同)、槙田邦彦(外務省)、金重凱之(警察庁)、小林武仁(左同)、古田肇(通産省)が務めた。主治医として下條ゑみ医師(国立国際医療センター)が従事。総理大臣公邸では、ファーストレディー役の二女・中原由利、社会党中央本部の田中稔、八木隆次らが秘書を務めた。橋本連立内閣では入閣せず、首相退任後は党務に専念した。1996年1月17日、日本社会党委員長選挙にて秋葉忠利を破り再選された。1月19日には党名を社会民主党に改称し、初代党首に就任した。しかし、所属議員のうち30人が新党さきがけ代表幹事鳩山由紀夫が提唱した新党構想に呼応し、同年9月に社民党から離党した。衆議院解散を前に衆議院議長土井たか子を社民党党首に迎え、自らは特別代表(選挙闘争本部長兼務)に就任した。第41回衆議院議員総選挙で新設の大分1区から出馬し小選挙区勝利で再選(同区では自民党現職衛藤晟一も比例復活)。11月、第2次橋本内閣にて社民党は閣外協力に転じた。その後、1997年の沖縄特別措置法案採決には与党ながら反対に回った。1998年6月、社民党が自民党との政権協議を破棄し、自社さ連立政権は崩壊した。1999年、中国での建国50周年の軍事パレードに参加した。1999年、野中広務らと共に北朝鮮を訪問した(村山訪朝団)。2000年5月30日には衆議院本会議で、首相在任中に脳梗塞で倒れ、内閣総辞職後の5月14日に死去した小渕恵三に対する追悼演説を行った。2000年6月の衆議院解散とともに政界を引退した。2006年4月、「内閣総理大臣として国政を担当しその重責を果たすとともに、多年にわたり国会議員として議案審議の重責を果たした」功労により、桐花大綬章を受章した。2000年10月、原文兵衛の後任として、財団法人女性のためのアジア平和国民基金の2代目理事長に就任した。2005年1月24日、村山は基金を2007年3月に解散すると宣言した。2007年3月6日、記者会見の席上、「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(いわゆる河野談話)に対する内閣総理大臣安倍晋三の「私の内閣で変更するものではない発言」について触れ、「(女性のためのアジア平和国民基金は)河野談話の精神を踏まえ活動している。(安倍晋三)総理が『河野談話を継承する』と言う限り(総理を)信頼している」と述べた。同年3月31日、女性のためのアジア平和国民基金は解散した。2005年4月17日、村山政権時代に建設が決定された京都迎賓館の開館式典に小泉純一郎首相(当時)、橋本龍太郎元首相、森喜朗元首相らと共に出席した。2005年7月16日、大分県大分市王子中町の市道交差点で自動車を運転中、自転車に乗った小学4年生男児と接触し、男児の両腕に怪我を負わせた。2009年、中国での建国60周年記念の軍事パレードに参加した。90歳になった2015年現在も社民党名誉党首、NPO法人日本ベトナム平和友好連絡会議会長など多数の要職の座にあり、自宅のある大分と東京を往復し政治活動を行っている。2013年1月、日中友好協会名誉顧問として同協会訪中団に名誉団長として参加。団長の元自由民主党幹事長加藤紘一・同協会会長、元防衛庁長官中谷元・自由民主党衆議院議員らとともに中国を訪問。唐家セン(唐家)中日友好協会会長(元国務委員)と会談した。同2月、加藤らとともに首相官邸にて安倍晋三総理大臣に面会し、唐との会談の内容等について報告した。その際記者団に対し、日中首脳会談実現への期待を表明した。また安倍総理が進める「村山談話」の路線変更については反対する考えを示した。また同年2月、社民党本部移転のため取り壊しが決まった旧社民党本部(社会文化会館)の「お別れ会」に伊藤茂らとともに出席。あいさつの中で「党勢低迷し歯がゆい」「議員少なく寂しい限り」と嘆いた。同年5月には安倍首相が「村山談話」についての発言をある程度軌道修正する姿勢を見せたものの、基本方針はその後も変えないままであるため、同年7月に参加した憲法改正に反対する集会での講演においても「村山談話」の見直しについて、「日本が国際的に孤立する」と述べてなお強く反対した。同月の第23回参議院議員通常選挙において社民党が得票数を大幅に減らし惨敗したことを受け、同年8月BS-TBSの番組内で「もう社民党なんてものにこだわらないで、憲法改悪などの共通課題で党派を超えて協力を呼びかけていく体制ができれば一番いい。次の衆院選までにはそういう体制をつくっていくことが大事」と発言、また記者団に対しても「社民党はこのままいっても先がない。党にこだわらず勢力を結集しなければならない。新しい党をつくることがあっていい」と述べ、社民党が野党再編の火付け役となって憲法改正反対や脱原発などを基軸とする新党の結成を目指し、社民党は発展的に解消すべきだとの考えを示した。2014年2月、従軍慰安婦問題などで日韓関係が冷え込むなか韓国を訪問して村山談話の意義を講演、鄭ホン原韓国首相と会談して韓国政府に日韓首脳会談の実現を呼びかける。2014年10月9日、韓国の崇実大から名誉博士の学位を授与された。授与の理由は「日本の蛮行に対する許しと和解の意味で、日本の良心的指導者である村山元首相に名誉博士の学位を授与する」としてしている。2015年3月11日、さとやま・草莽の会の結成に参画した。2015年4月の大分県知事選挙で社民党大分県連合は、自民党と公明党が推薦する現職候補と民主党が支援する新人候補との間で対応を決めきれずに「自主投票」となったが、村山は自民党系候補を全面支援した(2015年大分県知事選挙)。2015年9月、抗日戦勝70周年式典に日本政府とは無関係の立場で私的に出席するため訪中していたところ体調不良を訴えて入院した。村山内閣は、55年体制下で続いてきた保革対立に終止符を打った自社さ連立政権であり、政権発足時から、戦後の政治的懸案事項に取り組んだ。村山本人は「『当時としては』全てにおいて最良の選択だった」と振り返っている。渡邉恒雄は「よい意味で進歩的内閣で、社会党の反安保・反米、国歌・国旗反対を潰して、国論統一の幅をぐんと広げてくれたことが最大の功績」と保守的立場から評価した。国会演説の中で村山内閣の施政方針として「人にやさしい政治」を掲げた。社会党と新党さきがけが結んだ政策合意に対し自由民主党が参画し、1994年6月に「自社さ共同政権構想」として合意され、村山内閣、第1次橋本内閣の政策綱領となった。1995年8月15日の戦後50周年記念式典において村山は、日本が太平洋戦争前、同戦中に行ったとされるアジア諸国への「侵略」や「植民地支配」について公式に謝罪する「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題する内閣総理大臣談話を閣議決定の上で発表した。村山以降の歴代内閣も全て歴史認識で談話の踏襲を明言したことで「村山談話」という名称が定着しており、日本政府の公式見解として扱われる。1994年6月30日、自らの意に反して思いがけず自民党・社会党・新党さきがけの三党連立政権の首相に指名された村山は「衆議院で僅か70議席程度しか持っていない社会党の委員長が総理に選ばれたことは憲政の常道から考えてあり得ないことだが、こうした内閣が生まれてきたことには何らかの必然性があり歴史的な役割が課せられているのではないか。ちょうど戦後50年の節目であり自民党政権では解決できなかった過去の戦争の歴史認識問題など内外の諸課題にけじめを付ける」と決意して新政権樹立の三党合意事項に「過去の戦争を反省する決議を行う」との内容を盛り込み「50年問題プロジェクト」を立ち上げた。首相就任後、ASEAN諸国を歴訪した村山は「アジア各国は日本に対して表向きは良い顔をするが、実際は経済大国になった国は再び軍事大国になるのではないか、日本は過去の戦争の後始末を付けていないではないか、また過ちを繰り返さなければいいが、という疑念を言外に感じた」と述べる。1995年6月9日、衆議院本会議で過去の日本が行った侵略と植民地支配を謝罪する「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」が採決されるが自民党議員からも多数の欠席者が出て全会一致で可決できなかったことを受け村山は談話の作成を決心する。五十嵐広三官房長官を中心に複数の学者などが、村山が過去の演説で発言した内容などを盛り込んだ形で談話の文案を作成した。村山は談話の文章が完成後、日本遺族会会長の橋本龍太郎通産大臣に根回しの意味で談話の文章を見せると、橋本が「文章の中で終戦と敗戦を使われているが敗戦で統一した方が良いのではないか」と指摘し村山も賛成する。戦後50年目の終戦記念日である1995年8月15日、村山は「社会党の委員長が総理になった以上この程度の談話が出せなければ意味がない」と異議が出るなら首相辞任を暗に匂わせる形で談話の閣議決定に臨み、内閣改造で新しい官房長官に就任した野坂浩賢も談話に異議を唱える閣僚がいれば即座に罷免する覚悟であった。閣議で古川貞二郎官房副長官が談話を読み上げ、野坂が「異議ありませんか」と言うと、タカ派と言われる江藤隆美総務庁長官、平沼赳夫運輸大臣、島村宜伸文部大臣を含む全閣僚(村山改造内閣)が一言も異議を唱えず談話に署名して満場一致で閣議決定され、村山談話を発表した。村山は談話発表当時「当然のことを言ったに過ぎない」として後継首相が談話を踏襲するとは思っていなかったが、村山の後を受けた橋本龍太郎首相以降、現在の安倍晋三首相に至るまで全ての内閣が歴史認識について異口同音にこの談話を踏襲する旨を明言し「村山談話」という名称で定着した。村山談話は日本国政府の公式な歴史的見解として度々取り上げられる。小泉純一郎首相も戦後60年の終戦記念日である2005年8月15日に村山談話を踏襲する内容の小泉談話を発表した。保守系議員などにより村山談話とは見解を異にする内容のコメントが発せられ、その度に中国、韓国の政府から反発が起きた。「日本は戦後、戦時中におこなったとされる侵略行為については当事国に公式に謝罪し補償も済ませているのでこれ以上の謝罪論は不要である」との批判がある一方、逆に「この談話は結局のところ『戦争に日本政府は巻き込まれた。悪いとは思うが仕方がなかった』という立場を表すに過ぎない」との批判もある。2009年11月、田母神俊雄航空幕僚長は「日本は侵略国家だったか」という論文を発表。麻生太郎政権から村山談話の政府見解とは異なる認識を示したとして国会に参考人招致されるなど厳しい批判を受け更迭された。2015年、首相就任前は村山談話に批判的な発言をしたことがある安倍晋三が戦後70年の節目に当たりどのような首相談話を出すかが国内外から注目されるが、同年1月5日の年頭記者会見で「安倍内閣は村山談話を含め歴代内閣の立場を継承している。その上で未来志向の新たな談話を発表したい」と発言し、村山談話の踏襲を明言した。オーラルヒストリー『村山富市の証言録』などの中で村山談話について「もともと日本国内には過去の戦争は正しかったのか過ちだったのか明確な統一見解が無かった。その中で過去の戦争を総括する政府見解として村山談話を出し戦後50年の節目に一応のけじめを付けることができた。中国、韓国、ASEANなどアジア全体が村山談話を評価し、後継の歴代内閣も踏襲していることで一つの国際的な定義になっている。村山談話に反対する人の中には、当時の世界情勢の中で日本だけが悪いとは言えないのではないか、日本の戦いは欧米の植民地支配からアジアを解放するためのものだった、日本が戦ったからアジア諸国は独立できたのではないか、良い面もあったとして戦争を正当化する意見もある。しかし戦争の拡大に反対する慎重論もあったが軍の暴走を阻止できず日本がアジアにおいて侵略、植民地支配を進めて行った事実に間違いはない。過去の歴史を直視して謙虚に認め反省しお詫びすることでアジア諸国との信頼関係を築いていくべき。中国などで日本には歴史的事実を認めない政治家もいると指摘されると、日本は思想、言論の自由が認められているので色々と言う人もいるが大多数の国民は村山談話を支持しているので安心してほしいと応えている」などと述べる。また1995年8月15日の談話成立当時を振り返り「衆議院本会議で決議した『歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議』(1995年6月9日)には自民党内からも欠席者が続出したように自民党議員の中には本音の部分では侵略、植民地支配の認定に抵抗があったのではないか。しかし自民党は村山政権が成立する前は野党に転落して悲哀を舐めてきたので、ここで村山さんに辞めらるのだけは困るというので談話に署名したのではないか。実際、閣議で官房副長官が談話を読み上げても閣僚はみんな黙って少し下をうつむいているだけで一言の発言もなく満場一致で決まった。この談話は村山と言う名前がついているが決して総理大臣個人の談話ではなく閣議で決めた談話である。全会一致の国会決議をすることは出来なかったが、そのために閣議決定して政府の方針として示すことになったので村山談話は逆に重い物になった。少なくとも僕の前で談話に抵抗した者はいない」などと述懐している。1994年8月、「慰安婦問題」に関して民間基金による見舞金支給の構想を発表し、1995年7月、総理府と外務省の管轄下で「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」を発足させた。この基金により、1997年1月、韓国人元慰安婦への見舞金支給が開始された。村山内閣成立以前、国費による損害賠償と政府の謝罪を求めた元慰安婦による訴訟が各地で起こされていた。しかし、日本政府は、他国との条約締結時にこれら諸問題は解決済みとの立場であり、国費投入による元慰安婦への損害賠償はありえないとされていた。村山が示した構想では、政府が基金を設立し資金は民間からの寄附とすることで、直接の国費投入を避けるとともに募金に応じた国民の真摯な思いが伝わるとアピールすることで、両者の主張を織り込みつつ問題解決を図る狙いがある。村山自身は、発足の経緯について「『あくまで政府補償をすべきだ』という意見があれば、他方では『戦時賠償は法的にはすべて解決済みだ。いまさら蒸し返す必要はない』、果ては『慰安所ではちゃんとカネを払っていた』といった声まで、国内外の意見の隔たりは大き」く、「与党3党の間でも厳しい意見の対立があった」 が、「それを乗り越え一致点を見いだし、基金の発足にこぎつけた。」「元慰安婦の方々の高齢化が進むなか、何とか存命中に日本国民からのおわびの気持ちを伝え、悲痛な体験をされた方々の名誉回復を図る」には「いろいろ批判はあろうが、当時の差し迫った状況では、これしか方法はなかった」と記している。女性のためのアジア平和国民基金の初代理事長には原文兵衛、第2代理事長に内閣総理大臣退任後の村山が就き、約6億円の募金を集め、元慰安婦の生活支援のみならず女性の名誉尊厳一般に関する事業を展開してきた。フィリピン、大韓民国、中華民国で支援事業を展開し、インドネシア事業終了を予定する2007年3月に解散することが、理事長である村山により発表された。2000年9月1日、第2次森内閣で内閣官房長官の中川秀直が、女性のためのアジア平和国民基金に関する記者会見を開き、同基金に対する日本国政府の認識を改めて表明した。2007年3月6日、村山は記者会見を開き、慰安婦問題で日本の謝罪を求める決議案がアメリカ合衆国下院にて審議されていることについて、「(女性のためのアジア平和国民基金を通じ)歴代総理が慰安婦の方へお詫びの手紙を出したことが理解されていないのが極めて残念」と発言している。1995年1月17日、兵庫県南部地震により阪神・淡路大震災が発生した際、日本国政府の対応が遅れたことについて批判された。1995年(平成7年)3月20日、地下鉄サリン事件が発生した。村山は法務大臣前田勲男、国家公安委員会委員長野中広務、警察庁長官國松孝次、内閣官房長官五十嵐広三ら関係幹部に徹底捜査を指示、陣頭指揮を執る姿勢を見せ、事件捜査について「別件逮捕等あらゆる手段を用いて」と発言したがこれは刑事捜査の是非について政治サイドの言葉としては著しく問題化した。(後述)地下鉄サリン事件など一連の事件を起こしたオウム真理教に対し、破壊活動防止法適用が検討され、公安調査庁が処分請求を行った。公安審査委員会は破壊活動防止法適用要件を満たさないと判断し、適用は見送られた。1952年に公布された破壊活動防止法は、暴力主義的破壊活動を行った団体に対し、規制措置を定めた法律である。当初は日本共産党や日本赤軍などの暴力革命による自由民主主義体制の転覆を志向する極左勢力の拡大を防止する目的もあったことから、社会党はじめ55年体制下の野党各党は、従来法の適用に極めて慎重な立場をとっていた。オウム真理教への破壊活動防止法適用には警察官僚出身で自民党の後藤田正晴らからも異論が出るなど賛否両論が噴出したが、法務大臣の宮澤弘、国家公安委員長の野中と協議した村山は、公安調査庁の調査を尊重すると決断し、公安審査委員会への処分請求に道を拓いた。地下鉄サリン事件の捜査に関して前述の「別件逮捕」の扱いについての発言が本来なら革新リベラルとして同志向の面が強い筈の人権派弁護士たちからも大きな反発を受けるなど賛否両論となった。2007年3月17日、「地下鉄サリン事件被害者の会」が編んだ『私にとっての地下鉄サリン事件』に手記を寄せた。同書には國松や『アンダーグラウンド』を書いた村上春樹らも寄稿している。1995年6月、羽田発函館行の全日空857便(乗員乗客365人)がハイジャックされ、「サリンを所持している」という犯人がオウム真理教教祖で前月に逮捕・勾留されていた麻原彰晃の釈放を政府に要求した。村山は国家公安委員長の野中や運輸大臣の亀井静香と協議し、ハイジャック犯との交渉には一切応じない方針を固め、SAP(Special Armed Police、特殊武装警察)の実戦投入を指示した。SAPに対し突入を指示した後、村山は「もしも死者が出たら白装束で遺族の下にお詫びに行く覚悟だ」と発言し、野中は「その際は私も同行する」と発言した。しかし、機内の様子について収集した情報からオウム信者ではないと判断。警視庁警備部第六機動隊特科中隊(SAP)は突入に加わらず、後方支援に回り、北海道警察本部機動隊対銃器部隊と函館中央署員の突入を支援。犯人を逮捕した。軽傷者が1名であった。サリンとされた物質はただの水であり、ハイジャック犯はオウム真理教とは全く無関係の精神疾患で休職中の東洋信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行)の行員であった。当時の警察庁は特殊部隊であるSAPの存在自体を極秘としており、実戦投入後もその存在が公にされることはなかった。1996年、警察庁は北海道警察本部、千葉県警察本部、神奈川県警察本部、愛知県警察本部、福岡県警察本部に部隊を増設し、警視庁、大阪府警察本部のSAPとともに、正式に「特殊急襲部隊」(Special Assault Team、通称SAT)の呼称を与え、正規部隊として公表した。羽田内閣から村山内閣への移行は政権交代となるわけだが、外交方針は従来の日本政府のものを基本的に継承し、行政の継続性を保っている。村山内閣成立時、「日本に共産主義政権が誕生した」と日本以外のメディアに報じられたため、懐疑論が根強くあった。アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンは当初、社会党出身の総理大臣に警戒心を持っていた。しかし1994年の第20回先進国首脳会議(ナポリ・サミット)前の会談にて、村山が貧しい漁村に生まれ育った自らの生い立ちから、政治家を志すに至る過程などを訥々と語ったところ、これを聞いたクリントンはいたく感動し、その後のサミットでも不慣れな村山をとかくサポートしたという。1994年7月20日、第130回国会での所信表明演説にて「自衛隊合憲」、「日米安保堅持」と明言し、それまでの日本社会党の政策を転換し、日米安全保障条約体制を継続することを確認した。この際、演説用原稿では「日米安全保障体制を維持」となっていたのを、所信表明演説では村山が「日米安全保障体制を堅持」と読んだことが注目された。これは村山の出身政党である社会党にとってはコペルニクス的転回であった。トップダウンで決定した背景から独断専行と批判も受けたが、党は追認している。これまで原発反対運動を率いていた党方針から転換し、国会答弁で「電力需要を考慮すると、ある程度の原子力発電の造成もこれはやむを得ない」との指針を示した。正式名称は特定家庭用機器再商品化法。これまで無料で回収していた冷蔵庫、テレビなどの大型家電群を有償にて回収するように改定。克つ、家電店が自主的に回収するように制定した。これまでは全て「大型ごみ」として業者の回収や処理場の持ち込みで処分されていたが、これらの機器にはレアメタルなど貴重な資源が含まれていた。それらを回収し、再使用するとともに、資源の消耗を防ぐのが目的である。»経済産業省HP http://www.meti.go.jp/policy/it_policy/kaden_recycle/case1/case1_02.htmlしかし、本法の施工には、料金の支払いを嫌がった人々の不法投棄の増加などが懸念されていた。»経済産業省、施行市町村へのアンケート http://www.meti.go.jp/committee/materials/downloadfiles/g61218a13j.pdf#search='%E5%AE%B6%E9%9B%BB%E3%83%AA%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AB%E6%B3%95+%E4%B8%8D%E6%B3%95%E6%8A%95%E6%A3%84'1991年11月から15回にわたって開催された「成田空港問題シンポジウム」と、引き続き1993年9月から12回にわたって開催された「成田空港問題円卓会議」での結論を受け、村山は1995年、これまでの空港問題の経緯について地元に謝罪した。これにより第二期工事への用地買収に応じる地主も現れた。その後、1996年に未買収地を避ける形で暫定滑走路を建設する案が計画された。村山ら政府の謝罪に加え、中立委員らの度重なる働きかけにより、成田空港反対派住民の強硬姿勢も次第に和らぎつつある。選択的夫婦別姓制度導入に賛同していた。オウム真理教の地下鉄サリン事件を受けて、村山は文部大臣島村宜伸に指示し宗教法人法の改正案を第134回国会に提出した。審議に際し、自由民主党、日本社会党、新党さきがけの与党3党が、創価学会名誉会長池田大作や創価学会会長秋谷栄之助の証人喚問を要求したため、野党の新進党、公明が反発した。公明所属議員や旧公明党に参加していた新進党所属議員らが、参議院宗教法人特別委員長佐々木満を監禁したり国会議事堂でピケッティングを行ったりして採決阻止を図ったことから、国会が空転する事態に発展した。最終的に秋谷を国会に参考人召致したうえで改正宗教法人法を成立させた。なお、村山は創価学会の政治活動に極めて批判的な政治家として知られている。俵孝太郎らが創価学会の政治活動に批判的な「四月会」を発足させた際、村山は日本社会党委員長の肩書きで同会の設立総会に出席している。1996年1月の総理退任の際には、総理大臣官邸にて与党3党の幹部らに「三党の連立は守ってほしい。それが自分の希望だ。この国を創価学会の支配下にあるような政党に任せることはできないからだ」と語っている。また、村山内閣、および、村山改造内閣には、前述の島村をはじめ、亀井静香、与謝野馨、桜井新、高村正彦、平沼赳夫、野中広務、大島理森ら、創価学会の政治活動に批判的な「憲法20条を考える会」の主要メンバーが多数入閣している。官邸入りした村山は、内閣総理大臣、内閣官房長官、内閣官房副長官を除くと総理大臣官邸のスタッフは全て官僚であることに危機感を抱いた。「官邸っていうのは単に行政をやる庁ではなくて政治的な判断をやる庁でもある」と考えた村山は、官邸内に「もう少し政治家の発言、意見というものがあっていい」との理由から「内閣総理大臣補佐」のポストを設置した。内閣総理大臣補佐は与党3党に所属する国会議員の中から選ぶこととし、中川秀直、早川勝、錦織淳、戸井田三郎らを任命した。選任された内閣総理大臣補佐は、首相の演説や答弁などへの意見具申や政治課題に関する情報収集を担当した。この内閣総理大臣補佐のポストは首相の私的な相談役との位置づけだったが、後に内閣法が改正され「内閣総理大臣補佐官」のポストが法制化された(内閣法第19条)。村山は、社会党党内では自治労右派、政権構想研究会、水曜会に所属しており、一貫して社会党右派として活動してきた。ただし村山内閣成立後、小沢一郎らと連携を目指し自社さ連立政権に批判的な勢力を「社会党右派」、自社さ連立政権を支持する勢力を「社会党左派」とマスコミが便宜的に呼称したため、村山が社会党左派であるかのような誤解が生じた。なお、村山内閣で入閣した浜本万三、大出俊、山口鶴男らはいずれも社会党右派に属している。
出典:wikipedia
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