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ヒロ斎藤

ヒロ斎藤( - さいとう、本名および旧リングネーム:斎藤 弘幸(さいとう ひろゆき)、1961年5月25日 - )は、日本のプロレスラー。神奈川県川崎市出身。ドラディション所属。父が厳しく、家を早く出たいと思っていた中学生時代に川崎市体育館で新日本を観戦して「これだ!」と直感しプロレスラーを志す。中学卒業後、アルバイトをしながら山本小鉄に入門を直訴し、1978年に新日本プロレスに入門。1978年8月26日、飯山市民体育館の魁勝司戦でデビューを果たした。当時の若手はジョージ高野、前田日明、平田淳二、保永昇男、高田延彦、高野俊二、新倉史祐、仲野信市など逸材揃い。ニックネームはチョビ。若手時代は、藤波辰巳の付き人を務めた。1981年、島流し同然でメキシコ遠征に出され現地でグラン浜田、小林邦昭、ジョージ高野とタッグを組む。2年後の1983年、会社とのトラブルでプロレスを辞めようと決め、ジョージがカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングへ転戦する際に仲のよい高野俊二に挨拶しようと同行したところ、ジョージの対戦相手である俊二が急病のため、急遽一試合だけとのことでリングに上がったところ、プロモーターのスチュ・ハートに絶賛され、プロレスを続ける。その際プロモーター側から髪を金髪にするよう要求され、ヒロは「日本人の金髪レスラー」の先人である上田馬之助に許しを得るべく連絡を取り、上田との関係ができる。上田とは日本帰国後も行動を共にし、「人のマネはするな」「大きいやつが小回りきかないようなことをやれ」などレスラーとしての心得を伝授され、スタイルの礎を築く。新日本の大量離脱によって帰国命令が出され、1985年1月に帰国。ザ・コブラのライバルとして台頭し、5月20日には第12代WWFジュニアヘビー級王座を奪取。同じヒール軍団であるマシン軍団と共闘するが、ワカマツらマシン軍団と仲間割れを起こす。8月、新日を離脱しスーパー・ストロング・マシン&高野俊二(現高野拳磁)とカルガリーハリケーンズを結成、全日本プロレスを主戦場にする。フリーのプロダクション形式でどこのリングにでも上がるという現在のプロレス界に多いプロダクション形式の礎となった。1986年7月31日、ブラッド・アームストロングを倒し初代世界ジュニアヘビー級王座となった。1987年4月、全日から新日へUターンの際はカルガリーハリケーンズは解散し、長州力率いるリキ・プロダクションの一員として参加。新日正規軍、長州軍の枠組みが無くなってからは後藤達俊、保永昇男らとヒール・ユニットブロンド・アウトローズを結成。かつての盟友スーパー・ストロング・マシンが加わってからユニット名をレイジング・スタッフに改名。1990年にスーパー・ストロング・マシンと組み第14代IWGPタッグ王座を奪取するも、1993年10月にレイジング・スタッフは分裂、その後しばらくはジュニアタイトル保持の保永をサポート。1995年に蝶野正洋、天山広吉、サブゥーと狼群団を結成。その後nWo JAPAN、TEAM 2000、クレイジー・ドッグスと独自のヒール道を邁進している。2000年にG1 CLIMAXに初出場。予選リーグでは全試合で両者リングアウトを予告、実現させ、リーグ戦を荒らした(その中には優勝者の佐々木健介、当時の同士であった小島聡も含まれる)。これに影響を受けた望月成晃は闘龍門のリングにおいて「両者リングアウト推進委員会」を宣言する。2006年1月末で新日本プロレスを退団。直後から西村修と行動を共にするようになり、その縁あって無我ワールド・プロレスリングへの参戦、後に正式入団する。その後、無我がドラディションに名前が変わった時は藤波辰爾と行動を共にし、レジェンドレスラーの一人として、今なおリングに上がり続ける。2014年12月9日に椿山荘で開催された「X'mas チャリティ・プロレス・ディナーショー!」にザ・グレート・カブキとタッグを組み、天龍源一郎&西村修と対戦した。「俺、目立つの嫌いなんですよ。(中略)チャンピオンになりたい欲? 全然ないです。プロレスラーになってからも持ったことがない。だって人前でなんかするのって一番嫌いですから」とヒロ本人が語るように、目立つことを嫌う性格であるため、決して始終スポットライトが当たる選手ではないが、その技術・センスは高い評価を受けている。マサ斎藤、ザ・グレート・カブキをはじめとして、全日本プロレス参戦時代にジャイアント馬場が「ジャパンプロレスの選手は、ヒロ斉藤以外プロレスがわかっていない」と発言したり、ヒロが付け人を務めていた藤波辰爾はヒロがプロレスを辞めようとしたり、カルガリーハリケーンズとして新日を離脱しようとした際に必死に引き止めるなど、ヒロを高く評価する同業者は数多い。技を掛ける場合も、受ける場合においても自分にも相手にも余計な負担を掛けない高い技術から「ヒロさんは柔らかい」と評価されている。馬場はヒロに対し「オマエだったらジャーマンでもなんでも受けてやるから遠慮しないでかけてこい」と声をかけたことをヒロ自身が証言しており、馬場からもその技術に信頼を置かれていたことがうかがえる。人間的にも優れていることを示すエピソードも多い。蝶野正洋が現場責任者に就任していた2002年、斎藤は蝶野の補佐役を担当していた。同年5月の新日本プロレスのドーム大会では、ドン・フライが安田忠夫を入場時に襲撃し試合が成立せず乱闘になった事態を収める際に「ヒロさん!ヒロさん!」と斎藤を探す蝶野の姿がテレビに映し出され更に「あいつなんとかしてくださいよ!」と蝶野が叫ぶ姿まで放送された。当のヒロはその際(前述の性格もあり)テレビカメラの存在を気にしたためか蝶野を手で払う「あっちいけ」の仕草をした程度で以後は試合会場に場面は切り替わった。新日本プロレスで企画宣伝部長を務めた永島勝司は、ヒロを「最高に人が好いし他人を裏切らない。自分を主張するけれども、引っ込むところは引っ込む」「他の誰も真似できないという点ではチョビのセントーンはまさに一級品だ」と評している。また、武藤敬司率いる新生nWoと蝶野率いるTEAM2000の抗争時にヒロがフォール負けした際、ヒロは軍団のボスに当たる武藤に「すいません」と詫びたが、武藤は「いえ、いえ」と気を使う仕草をテレビカメラの前で見せている。ヒロは先輩に当たるがレスラーとしての立ち位置、武藤のキャラクターから察するに非常に珍しい例である。その後インタビューを受ける武藤を尻目にヒロはさっさと控室に帰ってしまった。狼軍団所属時、ワールドプロレスリングにて盟友の蝶野正洋が斎藤の出場するタッグマッチの解説を担当した際、その試合の実況を担当していた辻よしなりと抗争中であったためか、蝶野は興奮状態であった。そんな状況にもかかわらず「ほらっ、今の斎藤さんのフォローをお前実況したか。そういう斎藤さんの目立たないかもしれないが自軍を有利にさせる影の名プレイを見逃すからお前は実況には向いてないんだよ」という斎藤を慕う一面が感じられる発言を残している。またもう一人の盟友であった天山広吉も、ヒロが佐々木健介から殊勲のフォール勝ちを収めた試合の後に、「お前ら見たか!これがヒロ斎藤の実力だ!」と、相変わらずさっさと控室に帰ってしまったヒロを横目に一人でまくし立てたことがある。レイジングスタッフ当時、闘魂Vにて収録されていた蝶野戦の解説を務めていた田中秀和によって「蝶野の方が実力は上でしょう?(一般的な当時のプロレスファン見地からの発言か田中の個人的な見地かは不明だが)」と問いかけられた佐々木は「いや、あの…ヒロさんはベテラン、ベテランですから」と要領の得ない答えで完全に困っていた。派手な大技よりも小技や反則攻撃を得意とする職人ヒールタイプで、関節技や丸め込み技の類はほとんど使用しない。

出典:wikipedia

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