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丑の刻参り

丑の刻参り、丑の時参り(うしのこくまいり、うしのときまいり)とは、丑の刻(午前1時から午前3時ごろ)に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち込むという、日本に古来伝わる呪術の一種。典型では、嫉妬心にさいなむ女性が、白衣に扮し、灯したロウソクを突き立てた鉄輪を頭にかぶった姿でおこなうものである。連夜この詣でをおこない、七日目で満願となって呪う相手が死ぬが、行為を他人に見られると効力が失せると信じられた。ゆかりの場所としては京都市の貴船神社が有名。丑時詣(うしのときもうで)、丑参り(うしまいり)、丑三参り(うしみつまいり)とも。丑の刻参りの基本的な方法は、江戸時代に完成している。一般的な描写としては、白装束を身にまとい、髪を振り乱し、顔に白粉を塗り、頭に五徳(鉄輪)をかぶってそこに三本のロウソクを立て、あるいは一本歯の下駄(あるいは高下駄)を履き、胸には鏡をつるし、神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を毎夜、五寸釘で打ち込むというものが用いられる。五徳は三脚になっているので、これを逆さにかぶり、三本のロウソクを立てるのである。呪われた相手は、藁人形に釘を打ちつけた部分から発病するとも解説される。ただし藁人形など人形〔ひとかた〕の使用は江戸期までに必ずしも確立しておらず、例えば鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』(1779年、右上図参照)の添え書きにも言及されていないし、画にも見えない。小道具については解説によって小差があり、釘は五寸釘であるとか、口に櫛を咥える、などがある。参詣の刻限も、厳密には「丑のみつどき」(午前2:00~2:30)であるとされる。石燕や北斎の版画を見ても、呪術する女性のかたわらに黒牛が描かれるが、七日目の参詣が終わると、黒牛が寝そべっているのに遭遇するはずなのでそれをまたぐと呪いが成就するという説明がある。この黒牛に恐れをなしたりすると、呪詛の効力が失われるとされる。現代では、細かい部分で少し変化している。、丑の刻参りを行う期間に差があったり、打ち付けた藁人形を抜かれてはいけないと地方・伝わり方で違いがあり、呪うために自身が鬼になるのではなく、五寸釘を打った藁人形の部位に呪いをかけることができるという噂が広く知られる。また、丑の刻参りを他人に見られると、参っていた人物に呪いが跳ね返って来ると言われ、目撃者も殺してしまわないとならないと伝えられる。「丑の刻」も、昼とは同じ場所でありながら「草木も眠る」と形容されるように、その様相の違いから常世へ繋がる時刻と考えられ、平安時代には呪術としての「丑の刻参り」が行われる時間でもあった。また「うしとら」の方角は鬼門をさすが、時刻でいえば「うしとら」は「丑の刻」に該当する。「うしのときまいり」という言葉の方が古い。古くは祈願成就のため、丑の刻に神仏に参拝することを言った。後に呪詛する行為に転ずる。京都市の貴船神社には、貴船明神が降臨した「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に参詣すると、心願成就するという伝承があったので、そこから呪詛場に転じたのだろうと考察される。また、今日に伝わる丑の刻参りの原型のひとつが「宇治の橋姫」伝説であるが、ここでも貴船神社がまつわる。橋姫は、妬む相手を取殺すため鬼神となるを願い、その達成の方法として「三十七日間、宇治川に漬かれ」との示現を受けたのがこの神社である。それを記した文献は、鎌倉時代後期に書かれ、裏平家物語として知られる屋代本『平家物語』「剣之巻」であるが、これによれば、橋姫はもとは嵯峨天皇の御世の人だったが、鬼となり、妬む相手の縁者を男女とわず殺してえんえんと生き続け、後世の渡辺綱に一条戻橋ところ、名刀髭切で返り討ちに二の腕を切り落とされ、その腕は安倍晴明に封印されたことになっている。その彼女が宇治川に漬かって行った鬼がわりの儀式は次のようなものである:「長なる髪をば五つに分け、五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて、三の足には松を燃し、続松(原文ノママ)を拵へて、両方に火をつけて、口にくはへつつ、夜更け人定まりて後、大和大路へ走り出て……」この「剣の巻」異本ですでに橋姫には「鉄輪(かなわ)」(五徳に同じ)を逆さにかぶり、その三つの足に松明をともすという要素があるが、顔や体を赤色に塗りたくるのであり白装束ではない。室町時代にこれを翻案化した能楽の謡曲「鉄輪」においても、橋姫は赤い衣をつけ、顔に丹を塗るなど赤基調が踏襲され、白装束や藁人形、金槌も用いていはいないが、ただし祓う役目の陰陽師晴明の方は、「茅の人形を人尺に作り、夫婦の名字を内に籠め、(後略)」祈祷をおこなうのである。よって現在の形で丑の刻参りが行われるようになったのは、この陰陽道の人形祈祷と丑の刻参りが結びついたためという見解がある。人形を用いた呪詛自体はかなり古くから行われており、『日本書紀』用明天皇2年(587年)4月条に、「中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)が家(おのがいえ)に衆(いくさ)を集えて、大連をいたすく。ついに太子彦人皇子の像を作りて、まじなう」と記され、古墳時代から人形を媒体とした呪いがあった。ただし、この時点では、まだ像を刺す行為は確認できない。考古学資料の遺物として、奈良国立文化財研究所所蔵の8世紀の木製人形代(もくせい ひとがたしろ)があり、胸に鉄釘が打ちこまれた状態の物も出土している。木簡を人形に切り取り、墨で顔が描かれている。丑の刻参りと共通する呪殺を目的とした形代だったと考えられている。この遺物からも、人形に釘を打ち込み、人を呪うと言った呪術体系自体は古代(奈良時代)からあった事が分かる。研究者によっては、鉄釘自体が渡来文化であり、こうした呪術体系自体が大陸渡来のものではないかとしている。この他にも類例として、島根県松江市タテチョウ遺跡から出土した木札には、女性が描かれており、服装から貴人女性と見られるが、3本の木釘が打ちこまれていた。その位置は、両乳房と心臓に当たり、明らかに呪殺目的であった事が分かる。陰陽師が使役する式神というものがあるが、式神は荒ぶる神としての妖怪としても描かれ、人の善悪を監視する役目を持っていたとされ、様々な不思議な力を発揮したと言われる。丑の刻参りも、たびたび妖怪を伴って描かれ、神木に釘を打って結界を破り、常夜(夜だけの神の国)から、禍をもたらす邪神(魔や妖怪)を呼び出し、神懸りまたは使役し、恨む相手を祟ると考えられていた。。

出典:wikipedia

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