天龍 源一郎(てんりゅう げんいちろう、1950年2月2日 - )は、日本のタレント、元プロレスラー、元大相撲力士。本名は嶋田 源一郎(しまだ げんいちろう)。福井県勝山市出身。身長189cm、体重120kg(力士時代は身長186cm、体重112kg)。所属事務所はMILLENNIUM PRO。多くの同年代レスラーが年齢と共に前座でファンを楽しませる役割に回る、または引退する中、第一線で活躍し続け日本プロレス界において「生ける伝説(Living Legend)」として、一目置かれる存在であった。福井県勝山市に農家の長男として生まれる。農家の生まれであることから幼少期より米をたくさん食べて大きく育ち、中学2年の身体検査では182cm、82kgを記録した。同時に大きな体がコンプレックスになっており、勉強も苦手だったことと合わせて周囲からはからかわれがちであった。勝山市立北郷小学校卒業後は勝山市立北部中学校へ入学するも、父が床屋で髪を切ってもらっていた際に床屋の店主が二所ノ関部屋後援者に「この辺りに相撲に入れられるような身体の大きい子はいないかな?」と声を掛けられ、父が「うちの息子は大きいよ」と返答したことで大鵬が嶋田の元へやって来て大相撲へ勧誘した。その結果として入門が内定したことから中学2年の時に墨田区立両国中学校へ転校した。1963年12月、二所ノ関部屋に入門。転校初日に教師から「お相撲さんは大学まで進む気はないでしょう。授業中に眠ってもいいから」と言われたことから学業の指導に差別を感じ、実際に白紙の答案用紙を提出する新弟子もいたことから頭に来て天龍はこっそり通信教育の教材を取り寄せて相撲と学業の両立を誓い頑張っていたが、結局は兄弟子に見つかって通信教育を中止させられたという。16歳の時のある巡業では移動の際に兄弟子から大鵬の双眼鏡を持って行くよう命じられたが、それを聞き忘れたためその巡業中にかわいがりに遭い、竹刀や青竹、さらに角材で殴られたが「これで俺も1人前の力士だ」と却って自信をつけたといい、かわいがりを行った兄弟子たちも「どうだい、きつかったか? これでお前も一人前だよ」と翌日からは何事もなかったかのように接していた。「天龍」の四股名で1973年1月場所から幕内に16場所在位し西前頭筆頭まで上り詰めるが、1975年に師匠の死去に端を発する部屋の後継問題(押尾川事件)に巻き込まれる。自身は押尾川親方(大麒麟)の興した押尾川部屋に入りたかったのだが、金剛正裕が二所ノ関を襲名して継承した二所ノ関部屋に戻され意気消沈したとされる(自身の著書で金剛とはそりが合わなかったと語ったこともある)。1976年秋場所に勝ち越したものの(東前頭13枚目、8勝7敗)、同場所を最後に廃業し、同年10月全日本プロレスへ入団した。入団と共に渡米しザ・ファンクスのもとで修行、1976年11月13日にテキサス州にてテッド・デビアス戦でデビューした(アメリカ時代のリングネームは「テン・ルー」。詳細は後述)。帰国後の同年12月5日、日大講堂(初代両国国技館跡地)においてリング上で断髪式を行う。止め鋏はジャイアント馬場が入れている。通常、幕内経験者の断髪式典は国技館の土俵上で開催されるのが通例であるが、プロレスのリング上でそれが行われるのはきわめて珍しい出来事でもあった。なお、デビュー当時のリング名は単に四股名と同じ「天竜」だけであった。日本デビューは1977年6月11日、東京・世田谷区体育館におけるジャイアント馬場と組んでのマリオ・ミラノ&メヒコ・グランデ戦で、グランデをフォールして初陣を白星で飾る。大相撲幕内経験者の入団とあってデビュー直後からジャイアント馬場に大変期待されており、巡業も毎回グリーン車のチケットが用意された(グリーン車に乗れる日本人選手は他には馬場、ジャンボ鶴田のみ)。しかし本人はまだ一人前の動きもできないのに大熊元司、グレート小鹿ら大先輩レスラーを差し置いてグリーン車に乗るのは気が引けたため、普通車両に移動して先輩達と話をしていたとのこと。デビュー数年でメインイベントでのタイトルマッチが組まれたり、ジャンボ鶴田とタッグを組んだりしたが、体格は大相撲時代の名残を残し、スタミナが不足していたこともあり、通常のシングルマッチでも見どころ無くあっさり敗戦を喫するなど結果が出ない時期が続いた。人気・評価は馬場や鶴田とは比較できないほど低く、タイガー戸口が全日所属だったときは、戸口よりも格下扱いであった。その後、アメリカで再修行を行い、エディ・グラハムのCWF、ジム・バーネットのGCW、ジム・クロケット・ジュニアのMACWなど、NWAの南部テリトリーをヒールのポジションで転戦。MACWでは1981年2月7日、ノースカロライナ州グリーンズボロにてミスター・フジと組み、デューイ・ロバートソン&ジョージ・ウェルズを破ってNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得。タイトル初戴冠を果たした。帰国後の同年7月30日、交通事故の後遺症で緊急帰国したディック・スレーターの代打としてビル・ロビンソンのパートナーに起用され、馬場・鶴田組の保持するインターナショナル・タッグ王座へ挑戦したことを契機に飛躍のきっかけを掴む。天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語っているように、実際この試合以降から天龍の評価も急上昇し全日第3の男、風雲昇り龍としてブレイクする。この年の秋にはNWA世界王者リック・フレアーへの挑戦権も獲得した。このインター・タッグ戦からライバル団体である新日本プロレスの総帥アントニオ猪木に遠慮して全日マットでは誰も使っていなかった延髄斬りや卍固めを使い始め、全日本で異彩を放つようになっていく。それまでは紫のタイツを使用していたが、1982年秋頃からタイツを紫から黒へ、そして黄色の紐のシューズという、現在まで続く天龍のスタイルに変更。鶴田と次期ダブルエースの座を確立する。1983年の世界最強タッグ決定リーグ戦では鶴田と共に「鶴龍コンビ」を結成してリーグ戦に挑み、11月30日の馬場&ドリー・ファンク・ジュニア組戦では馬場の生涯最後の32文人間ロケット砲を受けている。鶴龍コンビはリーグ最終戦まで得点単独1位だったが、最終戦でスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディの「ミラクルパワーコンビ」に敗れ優勝を逃した。しかし師匠の馬場・ドリー組と同点2位という成績は、全日エースの世代交代を印象づけるものとなり、この年のプロレス大賞の最優秀タッグチーム賞を受賞した。シングル戦でも頭角を見せ、1984年2月にはリッキー・スティムボートとの王座決定戦に勝利しUNヘビー級王座のタイトルを獲得。さらに長州力率いるジャパンプロレスの全日参戦をきっかけに、闘争心をむき出しにして戦うスタイルへと変貌し、鶴田とのタッグ「鶴龍コンビ」で長州・谷津嘉章組と抗争を繰り広げ、人気も得た。1986年10月2日、阿修羅・原とシングル戦で引き分けたことを契機に、長州離脱後には全日マットの活性化を目指し龍原砲を結成。「最終目標は新日マット参戦」と掲げた。その後天龍同盟を結成(構成員は原、サムソン冬木、川田利明、小川良成)。REVOLUTIONを旗印とした「地方でも決して手を抜かない」をテーマにした闘いは、やがてファンの大きな支持を得るようになった。特に鶴田とのシングル対決は鶴龍対決と呼ばれ全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年、1989年のプロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど、長州離脱後に人気が低落した全日本プロレスを盛り立てた。1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となった。11月にはスタン・ハンセンと組んでのタッグ対決ながら馬場からパワーボムからのエビ固めで日本人では初めてピンフォールを奪った。試合後に当時人気絶頂であったUWFの東京ドーム大会が同日に開催されていたことを意識し「今日の勝利はドームより重い」と発言し語り草となる。ハンセンとのコンビは、世界最強タッグリーグ史上初の全勝優勝を飾る。1990年4月13日の東京ドームでの全日本・新日本・WWFとの合同興行「日米レスリングサミット」ではランディ・サベージと対戦し、まったく毛色の異なる両者でありながら、同興行のベストマッチと言われる名勝負を展開した。1990年横浜文化体育館大会において、鶴田とのシングルマッチに敗れたのを最後に全日本を離脱しSWSに移籍した。契約金は3億円とも言われている。SWS在籍中には、SWSがWWFと業務提携していたこともあり、1991年に行われたレッスルマニアVIIに出場。北尾光司とタッグを組んでデモリッションと対戦し、天龍がスマッシュをパワーボムに沈めて勝利した。SWS崩壊後、1992年7月WARを設立、新日本との対抗戦に活路を見出した。1993年になると1月に長州力、2月に木村健吾、6月と8月に橋本真也、9月に蝶野正洋、同じく9月に馳浩、12月に藤波辰爾を全てシングルマッチで破った。また、WAR時代にもWWFからの要請により、1993年と1994年のロイヤルランブルに出場、1994年の試合では残り5人まで生き残った。1994年1月4日の東京ドーム大会でアントニオ猪木にピンフォール勝ちを収め、これにより天龍はB(馬場)、I(猪木)の双方からピンフォール勝ちしたことのある唯一の日本人レスラーと呼ばれることとなった。1994年5月に、当時「邪道プロレス」と呼ばれていたFMWのマットで、大仁田厚とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで対戦した。1996年10月グレート・ムタ、同年12月に高田延彦からもシングルでそれぞれ勝利した。1997年11月より、所有者より借り受ける形で力道山ベルトを賭けた日本J1選手権争奪トーナメントを開催し、藤原喜明、北尾光覇を撃破。1998年1月14日後楽園ホールでの荒谷信孝との決勝戦に勝利し、日本J1選手権を獲得。この試合は天龍としても満足のいくものだったようで試合後のインタビューの際に、「隣(東京ドームで開かれていたマライア・キャリーのコンサート)より熱かったろ?」とのコメントを残す。1998年2月からフリーとなり、女子プロレスラーの神取忍とも対戦した。1999年12月10日大阪府立体育会館で行われたタイトルマッチで武藤敬司に勝利しIWGPヘビー級王座を獲得、ベイダーに続く史上2人目の全日本・新日本国内2大メジャーシングルタイトル制覇を達成した。2000年に全日本での選手大量離脱による経営危機もあって全日本に復帰。第26代及び29代三冠ヘビー級王者に輝いたほか、2001年のチャンピオン・カーニバル優勝、安生洋二とのタッグで第44代世界タッグ王者に輝くなどの活躍を果たした。2003年に旗揚げしたWJプロレスに旗揚げから参戦、旗揚げ戦から長州力とシングル6連戦をする予定であったが3戦で休止となった。8月にはWJに入団(実際は発表だけで、契約はフリーであった)、11月には長州とタッグを組んでWMGタッグを奪取したものの、WJは経営が迷走。WJを離脱した。2004年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会に参戦し、中西学とシングルで対決し、結果は天龍の敗北。その後、同年2月1日、新日本プロレス札幌大会で中西とタッグを組んでIWGPタッグ王座に挑戦したが王座奪取は出来なかった。同年8月には2度目のG1 CLIMAX出場。2005年初頭から、元全日本勢が多く所属するプロレスリング・ノアに参戦。三沢光晴や仲田龍は三沢社長時代の全日本プロレスに参戦させようと働きかけたものの、当時は馬場元子が認めなかったとされる。ノア発足後もしばらく参戦のタイミングが合わなかったが、2004年まで主戦場としていた新日本プロレスから離脱したことでスケジュールに余裕が出来、参戦が実現した。7月18日のプロレスリング・ノア 東京ドーム大会では元付き人の小川良成と対戦し勝利を収めた。他にも、ノア参戦時にはKENTA、潮﨑豪など次世代のエース候補選手ともシングルで対戦している。また、DRAGON GATEにも参戦し、WAR時代の元付き人であるマグナムTOKYOと十番勝負を繰り広げた。同団体では2005年より最高顧問も務める。同年11月3日のハッスルマニアからハッスルへ参戦し、表面的にはシリアスなイメージの強い天龍だけに、エンターテインメント色の強いハッスルとは合わないのではないかという見方もある中、天龍は試合のみならずマイクも積極的に握っている。2006年7月27日には、6年ぶりとなるWARの大会「WAR FINAL 〜REBORN to FUTURE〜」が後楽園ホールにて行われた。2007年10月、曙に酷似した「モンスター・ボノ」とハッスルで対戦。2008年3月14日、リアルジャパンプロレス後楽園大会で初代タイガーマスクと初対戦した。以後も主にハッスルを主戦場としつつ他団体へも時折出撃する形で活動を続けてきたが、2009年の年末にハッスルが事実上活動を停止してしまったことから、天龍は主戦場となるマットを失ってしまった。ハッスルの活動停止後しばらくは鳴りを潜めていた天龍だったが、2010年3月に入ると、4月にプロレス団体「天龍プロジェクト」を設立し、活動を再開させる方針を明らかにした。同興行には百田光雄や折原昌夫などが参加することが発表されている。なお、天龍プロジェクトは娘である嶋田紋奈が代表を務め、興行に係る各種業務を切り盛りしている。2011年3月6日、ユニオンプロレスにおいて高木三四郎がプロデュースするプロジェクト「TKG48」に最高顧問として加入することが発表され、4月3日のユニオンプロレス新木場大会に参戦した。2011年12月から、腰部脊柱管狭窄症の治療のため、プロレス人生では初めての長期欠場。2度の手術とリハビリを経て、2012年12月29日に後楽園ホールで行われた『天龍プロジェクト10 天龍源一郎復帰戦〜革命〜』のメインイベントで復帰戦を行った。2014年12月9日に椿山荘で開催された「X'mas チャリティ・プロレス・ディナーショー!」に西村修とタッグを組み、ザ・グレート・カブキ&ヒロ斉藤とレジェンド対決をした。2015年2月9日、記者会見を開き「今年(2015年)11月を以てプロレスラーを廃業し、現役を引退する」ことを表明。引退の理由として、「妻の病気で、今度は俺が支える番だ」と思ったことと、「プロレス人気の盛り上がりにそろそろ潮時かな」と感じたことを挙げている。また「たかだか幕内の相撲取りだった自分がプロレスの世界に入って、名前が知られるようになって良かった。(全日本プロレスでの師匠である)ジャイアント馬場さんに感謝している」と語った。11月に引退興行を行うことを予定し、それに合わせて『天龍源一郎 引退〜Revolution FINALTOUR』と題した引退カウントダウン大会を行っていくことも明らかにしている。以降引退までにメジャー、インディー問わず各団体に「天龍引退ロード」として参戦している。2015年6月26日、天龍プロジェクトの記者会見を行い、11月15日の両国国技館興行にて引退試合を挙行することを発表。天龍は「(蔵前の)国技館で初土俵を踏み、最後は(両国)国技館で終わるとは、これもひとつの運命」と、引退試合を行う心境を語った。8月16日、両国国技館で行われた新日本プロレス主催の「G1クライマックス」優勝決定戦の会場に現れオカダ・カズチカに対して引退試合の相手に指名し、オカダも受諾し決定した。天龍は引退後について、指導者としてプロレス界に関わることは否定。自身のDVD発売を記念したトークショーを全国各地で行う一方で、芸能活動を本格的に開始。以後、バラエティ番組の司会、本格的な俳優デビューなど、バラエティタレントとして多岐に渡る活動を行っている。全日本プロレス新日本プロレスWARハッスルWJ天龍プロジェクト海外 痛みの伝わるプロレスを標榜していたこともあり、相手のどんな技も徹底的に受けて相手を光らせる術に長けている。相手の技を食らった際のやられっぷりも、天龍の試合を見る上では欠かせない。ビッグマッチでは受けの時間のほうが長いが、それゆえに打たれ強さで耐えた上での反撃は半端ではなく、新日本に参戦した際にも多くの実力者とのシングルマッチで勝利を収めている。ここ一番ではジャーマン・スープレックス、浴びせ蹴り、トペといった意表を突く技を繰り出していくのも大きな特徴。一方で、アメリカをサーキットした経験もあることから、アメリカン・プロレスにも対応でき、ランディ・サベージとの一戦では、女性マネージャーのシェリー・マーテルの介入に翻弄される役を演じきった。50代に入ってからは肉体の衰えもあり、パワーボムの様な大技を使う機会は徐々に減ったが、喉笛へのチョップとグーパンチの連打、顔面蹴りなどの打撃を中心とした、武骨なファイトスタイルを確立している。メジャーからインディーまで多くの団体で戦ったことで、後年はファイトスタイルの幅を更に広げている。打撃技の攻防には強い一方で、新日本勢と5対5のタッグマッチで戦った際には木戸修の脇固めやアキレス腱固めといった関節技に苦しめられ、試合途中にもかかわらず右腕を痛めてそのまま場外に戦線離脱したこともある。その他、天龍は試合中に対戦相手や観客を驚かせる意外な技を繰り出すことがある。以下、主な技を記す。
出典:wikipedia
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