相模原市(さがみはらし)は、神奈川県北部にある政令指定都市。緑区、中央区、南区の3区で構成される。相模原市は、神奈川県内では横浜市、川崎市についで第3位の人口規模を擁する。2007年3月11日の2町の編入合併により人口は70万人を超え、全国の市で第18位である。相模原市が市制施行されたのは1954年(昭和29年)だが、戦後に純粋に市制施行された都市の中では最も人口が多い(さいたま市、北九州市が誕生したのは戦後だが、これら2市は複数の自治体の新設合併により誕生した都市であり、合併時に戦前に市制施行された都市が含まれる)。2010年3月末までの政令指定都市移行と、首都圏サミットへの参加を目指していたが、2009年10月2日に原口一博総務大臣が必要な作業に入るよう指示し、その後、10月23日の閣議で相模原市を2010年4月1日を以て政令指定都市に昇格させることが決定された。非道府県庁所在地では5番目、戦後に市制施行された都市では初の政令指定都市の誕生となり、2009年4月1日に移行した岡山市に次ぐ19番目の政令指定都市(緑区・中央区・南区の3区制)へ移行した。これにより、神奈川県は全国で唯一の3つの政令指定都市を持つ都道府県となる。経済面や鉄道・道路などの地理上、県内他市よりも東京都、特に多摩地域とのつながりが強い。また、首都圏南西部の核として国から位置づけられている(首都圏業務核都市指定都市)。市では首都圏南西部をリードする広域交流拠点都市となるべく、「さがみはら新都心」の形成を目指している。しかし、東京都心まで電車で35-40分程度(相模大野より小田急小田原線の快速急行あるいは橋本より京王相模原線経由京王線の特急の場合)であり、産業構造の転換により大型工場の撤退が相次いだことで、ベッドタウンとしての面が一層強まっており、業務機能の集中は弱いのが現状である。そのため、中心市街地法で都市核が複数(橋本・相模大野)認められている都市である。当市以外で複数の都市核が認められているのは静岡市、北九州市、熊本市の3市のみである。2006年3月の合併以前の旧相模原市域は、隣接する町田市との経済的・地理的・文化的関わりが深く、共に業務核都市に一つの都市として指定されていた。近年、東京都心へ旧市域南部の相模大野から35分程、旧市域北部の橋本から40分程で行けるその交通の利便性から、東京のベッドタウンとして人口が増加している。市内には相模原公園や相模原北公園をはじめとした大規模な公園が点在していることや、比較的自然な環境が近いことなどから若年世帯を中心とした人口の流入が続いている。市内に大学が多いことや、周辺都市の大学も相模原市内の駅を最寄とする場合が多く、更に多数の大学を抱える八王子市への交通が便利なため、学生の街としての顔も併せ持つ。また、市内には宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙科学研究所相模原キャンパス(開所時は文部省宇宙科学研究所)があり、日本の宇宙科学の研究拠点として知られる。また編入した旧津久井郡4町のうち、城山町と津久井町は橋本駅を最寄り駅として利用しており、国道413号(津久井街道)を介して相模原市中心部との結びつきがあるのに対し、相模湖町と藤野町は相模原市中心部よりも、JR中央本線や国道20号(甲州街道)を介して、八王子市との結びつきの方が強い。相模川左岸の相模原台地上に位置する平坦な東部・旧相模原市域(中央区・南区および緑区東部)と、南の丹沢山地と北の高尾山・陣馬山などの間に広がる山地を相模川などが刻み、河岸段丘上にわずかな平坦面が散在する西部・津久井地域(旧津久井郡、緑区の大半)とに分けることができる。ただし、津久井地域のうち旧城山町東部は地形的に連続する旧相模原市域と合わせて相模原台地の一部として理解するのが適当である。直下には伊勢原断層が所在している。相模原台地(相模野台地とも呼ばれる)は相模川が作った扇状地が隆起して形成された洪積台地である。西側の相模川に沿って、気候変動や海水面の変化によって形成された河岸段丘が発達している。大きく3段に分けられる段丘面のうちでは上段(相模原面)が最も広く、旧市域の半分以上を占め、旧城山町東部の大半もこの段丘面上に広がる。緑区川尻(旧城山町)の川尻八幡宮付近の標高約180mを最高点に南東へ向かって徐々に高度を下げ、緑区橋本六丁目の神明大神宮付近で約140m、南区東大沼二丁目の大沼神社付近で約100m、南区相南三丁目の東海大学付属相模高等学校付近で約85mとなり、南の大和市や座間市に続く。段丘面上は平坦ではあるが水に乏しく、利用が進まずに原野が広がっていた。相模原または相模野とは、主にこの原野について呼んだものである。江戸時代以降に行われた新田開発によって畑と雑木林の広がる景観となった。日中戦争下、1930年代に新興工業都市の政策により、軍事施設(当市域では主に陸軍)が相次いで進出し、北部では「軍都計画」と呼ばれる大規模な都市計画に基づく土地区画整理事業が当時の内務省神奈川都市計画地方委員会(野坂相如、浅野英ら)によって行われた。1945年の敗戦によって都市建設は中断したが、戦後しばらく経ってから区画整理事業は再開し、完成した。そして1960年代以降急速な都市化が進行した。現在では旧軍都計画区域を中心とする北半部および南東部の小田急線沿線はほぼ完全に市街化しているが、南区麻溝台・新磯野地区には農地が広がっている。なお、旧軍施設の中には戦後米軍に接収されたものも多く、現在も返還されていない区域が旧相模原市域の面積の約5%を占める。緑区久保沢から下九沢、中央区上溝を経て南区下溝まで上段と中段(田名原面)の境をなす段丘崖は「横山」と呼ばれる。「ハケ」とも呼ばれる段丘崖の湧水を水源に鳩川、姥川、道保川が段丘崖に並行して南東へ流れるが、これはかつて相模川がこの堆積面上を流れていたときの流路跡であると考えられている。下段(陽原[みなばら]面)は3段の中では最も面積が狭く、主に中央区田名地区内の一部(陽原・望地・塩田)を占める。これらの段丘面の下に現在の相模川による沖積低地が形成されているが田名よりも上流側では幅が狭く、川が南へ向きを変える南区当麻から磯部よりも下流側でようやく広がりを見せる。田名の望地河原や当麻、磯部地区が当市域内では数少ない水田地帯となっている一方、上流側の小倉橋、大島河原から水郷田名(田名久所[ぐぞ]地区)にかけての区域は大正期から風光明媚な景勝地として知られている。当市域の北から東にかけて東京都町田市との境界となっている境川は多摩丘陵を刻む小河谷である「ヤト」(谷戸)や、鳩川などと同じくハケの湧水を水源としているが、これも元の相模川の流路であったと考えられている。以前は激しく蛇行していたために、わずかの大雨ですぐに洪水を起こす川だった。そのために戦後徐々に河川改修が進められて橋本付近より下流では川幅が広げられて流路も直線化された。しかし蛇行していた旧流路によって定められていた都県境の変更は、特に町田市との間でほとんど進まず、相互に「川向こうの飛地」を多く抱えている。緑区の中・西部で区全体の面積の9割以上を占める津久井地域は、相模原台地の北西端に位置する旧城山町東部を除くと、ほぼ全域を南の丹沢山地や北の秩父山地に連なる山地が占め、両山地の境界をなす相模川と、道志川をはじめとするその支流沿いに河岸段丘が散在するのみの平地の少ない地域である。道志川の南側、旧津久井町南西部の青根、青野原、鳥屋(とや)地区は、丹沢山地の北部によって占められ、大室山から同山地最高峰の蛭ヶ岳を経て丹沢山に連なる主稜線で南の足柄上郡山北町と境を接する。また、主脈と呼ばれる蛭ヶ岳から焼山へ至る稜線は北西側の道志川流域と南東側の中津川支流の早戸川流域(いずれも相模川水系)を分ける尾根となっている。標高は低いながらも険しい壮年期の山地であり、平坦地は道志川南岸の高位に散在する狭小な河岸段丘と、串川上流にわずかに伸びる谷底平野が分布するのみである。前者の河岸段丘群を貫通する国道413号に沿って青根、青野原の集落が、後者の谷底平野に鳥屋の集落とわずかな耕地が分布する外は山林に覆われている。深い谷をうがち谷底平野をほとんど持たない道志川の北側では、石老山、石砂山を経て山梨県上野原市と道志村の境をなす尾根筋が大きく道志川の側に偏って伸び、北の相模川の河谷へ向かって徐々に高度を下げる丘陵によって占められる。旧藤野町南部の牧野(まぎの)地区の集落はこの主に丘陵地の緩斜面に散在する。西に隣接する上野原市秋山地区からは秋山川が流入し、日連(ひづれ)大橋付近で相模川に合流する。一方、相模川の北側では和田峠、陣馬山、景信山、小仏峠、城山(小仏城山)、大垂水峠と連なる尾根筋によって北の東京都八王子市および檜原村と境を接し、西隣の山梨県(上野原市)との境界をなして南流する境川と東側の沢井川のつくる河谷に旧藤野町北部の佐野川、沢井の集落が分布する。これらの山地の間を東西に貫流するのが相模川である。一般に山梨県内では「桂川」と呼ばれ、神奈川県に入って「相模川」と呼ばれるようになるとされているが、旧相模湖町では北岸の与瀬、小原(おばら)両地区を合わせて「桂北地区」と呼んだり、さらに下流側の千木良、若柳地区間に架かる橋を「桂橋」と呼んでいる例も見られる。上流の上野原市と接する小淵、名倉(旧藤野町)から下流側の中沢、城山、谷ヶ原(旧城山町)にかけて、相模川の両岸には相模原台地と同時期に形成された数段の河岸段丘が発達している。この平坦面を連ねて甲州街道(国道20号)、JR中央本線、中央自動車道が通過し、東京(江戸)と甲信地方を結ぶ重要な交通路となっている。旧津久井町北東部では相模川南岸に比較的面積の広い段丘面が広がり、この段丘上に位置する中野地区は津久井地域の主邑として行政の中心となっている。焼山から道志川・相模川と串川に挟まれて伸びる尾根筋の末端の城山は相模川を隔てて相模国中央部の広大な平坦地を見下ろす要害の地に位置し、鎌倉時代に三浦氏支族の津久井氏によって築城されたことからこの名があるとされている。段丘上の平坦地に対して相模川の谷底の平坦地(谷底平野)の発達は悪い。この地形を利用して1947年(昭和22年)に相模ダムが、また1965年(昭和40年)には城山ダムが建設され、それぞれのダムによる人造湖として相模湖および津久井湖が形成された。道志川には1955年(昭和30年)に道志ダム(奥相模湖)が建設され、また2000年(平成12年)に完成した中津川の宮ヶ瀬ダムのダム湖(宮ヶ瀬湖)の一部は津久井町にかかっている。これらのダム湖、および川尻地区北部(旧城山町)のヤト(谷戸)の奥に本沢ダムを築いて津久井湖から汲み上げた水を貯めて作られた城山湖との間は導水路で結ばれ、一体的な水資源管理が行われている。相模国の北部に位置し、旧相模原市域は高座郡に属した。津久井地域の大部分は中世まで愛甲郡に属し「奥三保」と呼ばれていたが(相模川左岸の津久井町三井および城山町北部は高座郡)、江戸時代には同郡から分離して津久井県と称し、明治3年(1870年)に津久井郡と改称された。なお、この項では2006 - 2007年の旧津久井郡4町との合併までは主に旧相模原市域について述べる。津久井地域の歴史については津久井郡の項を参照。江戸時代初期の寛永10年(1633年)には旧市域西部の相模川沿いの村が武蔵忍藩の飛地領とされ、残りの村は幕府直轄領(天領)または旗本の支配地とされたが、時代が下るにつれて支配が細分化されて非常に錯綜したものになっていった。旗本領とされた村の多くは2家以上が支配する相給とされ、幕府あるいは藩との相給とされる村もあった。幕末の段階で1藩単独の支配となっていたのは、旧市域では下野烏山藩領の上矢部村、大島村、田名村の3村のみである。また、清兵衛新田が幕府単独の、上九沢村が旗本佐野家のみの支配を受けていた。慶応3年10月14日(1867年11月9日)の大政奉還時点での旧市域各村の支配は以下の通りである。これらのうち、幕府領および旗本領は、慶応4年/明治元年6月17日(1868年8月5日)に神奈川府(のち神奈川県)が設置されると、その管轄となった。また、明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県によって、烏山藩領は烏山県、荻野山中藩領は荻野山中県の管轄となったが、同年11月の府県再編によって神奈川県に編入された。原野の広がった台地上段の開発は17世紀半ば以降、境川沿いの村を親村とする新田開発によって始まった。最も代表的なものが小山村の豪農である原清兵衛によって天保14年(1843年)に着手され、安政3年(1856年)までに49名が入植して200ヘクタール (ha)余りが開拓された清兵衛新田である。ほかに矢部新田、淵野辺新田、大沼新田、溝境新田が開かれた。水が乏しいためにこれらの新田は水田ではなく畑地としての開拓であり、新田集落のまわりには薪炭供給のための雑木林が作られた。相模原に広がる雑木林はこうして植林された人工林である。台地上の開拓は明治以降も進められた。この時期の開拓地は新開と呼ばれ、橋本新開、下溝新開、谷口新開、篠原新開、中村新開、中和田新開がこれにあたる。また、戦後も日本国外からの引揚者や帰農者、戦災者などを入植者として受け入れて旧軍用地の麻溝台や新磯野を中心に開拓が行われた。新田のうち、「清兵衛新田」と「矢部新田」の地名は合併後も大字として残された。「矢部新田」は住居表示の対象区域とならなかった米軍相模総合補給廠内に現存する。「清兵衛新田」は1974年(昭和49年)に最後まで残った区域に住居表示が実施されて消滅するが、新町名である「清新」はこれに由来するものである。相模原は東京から近く地価の安い平坦地が広がっていたことから、1930年後半以降、陸軍士官学校をはじめとする陸軍施設があいついで移転・開設されてきた。養蚕を主とする畑作農村から軍事都市への急速な変貌に対応するために神奈川県が主体となって区画整理事業に着手した。1939年(昭和14年)にまとめられた相模原都市建設区画整理事業では、当時の相原村(小山・清兵衛新田・橋本)、大野村(上矢部・矢部新田・淵野辺)、上溝町(上溝)、大沢村(下九沢)にまたがる535万坪(約17.7km²)の区域に10万人の人口を想定した壮大な都市計画が行われた。造兵廠西門と上溝とを結ぶ街路を縦の軸とし、これと直交する幅の広い街路を横の軸として計画的に街路が配置され、両軸となる街路の交差点付近には中央公園が計画された。区域内は住居地域345万坪(約11.4km²²。1人当たり50坪)、商業地域35万坪(約1.2km²。1人当たり30坪)、工業地域(軍事施設を含む)175万坪(約5.8km²)に分けられ、推計人口10万のうち小学児童を約1万4千人弱と想定して小学校を14校、中等学校が3校整備されることとなっていた。また中央公園をはじめとして区域内の公園用地として約18万坪(約0.6km²)があてられていた。この都市計画は若干の変更の上、1940年(昭和15年)に内務省から公示されて事業が着手されたが、間もなく始まった第二次世界大戦(太平洋戦争)により工事は停滞し、幹線街路網の整備が進んだところで敗戦を迎えた。一時中断された区画整理事業は戦後も継続されて1950年(昭和25年)に完了した。また水道の整備も戦争末期の1945年(昭和20年)春にはおおむね完了した。敗戦によって軍都の建設には挫折したが、1960年代以降の急激な都市化の基盤となったのはこの事業によって整備された街路網と水道設備であった。計画の中で横の軸とされた街路は現在国道16号として市内を貫く幹線道路となっている。また縦の軸とされた街路は市役所前通りとして戦後桜並木が整備され、市を代表する顔となっている。これに対して南部の小田急線沿線はこの都市計画の対象区域とはならず、戦後の自然発生的な住宅の建設によって都市化が進行した。無計画に進められた宅地化によって狭く複雑な街路網を擁する区域も少なくなく、軍都計画区域と著しい対照を見せる。相模原市の膨張や交通量の増大によって国道16号をはじめとする幹線街路での交通渋滞が目立つなど、1940年代に行われた都市計画の限界が現れてきているが、半世紀にわたって急激な都市化を支え続けてきた事実からして軍都計画による区画整理事業の先進性がうかがえる。軍都計画の進展とともに、軍の強力な後押しもあって相模原一帯を合併して一大市を建設する気運が盛り上がった。その過程では、隣接する東京府町田町との合併も話題に上った(陸軍では、上鶴間の原町田陸軍病院(のち相模原陸軍病院と改称)や淵野辺の原町田憲兵隊など、相模原を原町田と一括りにすることが多かった)が、府県境を越えた合併は当時でも困難なことが多く、高座郡北部の9町村(相原村、上溝町、大野村、大沢村、田名村、麻溝村、新磯村、座間町、大和村)が合併の対象となった。対象地域内では軍都計画地域を中心とする北部(相原・上溝・大沢・田名)と陸軍士官学校を中心とする南部(麻溝・新磯・座間・大和)の間で意見が対立し、特に座間町と大和村では合併反対の意見が強かった。北部5町村と南部4町村による別個の合併も俎上に上ったが、北部の淵野辺地区が軍都計画地域に属する一方で南部の上鶴間地区に士官学校や通信学校、陸軍病院などをかかえる大野村(個別合併案では北部5町村に含まれた)は村が分断されることを恐れて9町村での合併を強く望んだ。軍の強い要請によって座間町は9町村合併の容認に傾いたが、大和村では意見の集約が間に合わず合併から離脱し、大和村を除いた8町村による合併となった。合併後の新市名として「相武台市」「相武市」「相模市」「相模原市」などがあがった。このうち1937年(昭和12年)に移転してきた陸軍士官学校にちなむ「相武台」は、士官学校移転に際して座間村(当時)が新磯村との合併を持ちかけたときに「座間町」への吸収となることを恐れた新磯村側が提案した呼称でもある(この合併は両村の意見が合わず、座間村が単独で町制を施行した)。「相武台」には陸軍士官学校が昭和天皇から士官学校に下賜された呼称であるとして反対し、最終的に選ばれたのが「相模原市」であった。市とするにあたっては合併当時の対象地域に市街地がほとんど形成されていないことから内務省の承認が得られず、将来の発展による市制施行を期待しながら、1941年(昭和16年)4月29日に8町村の合併によって高座郡相模原町が発足した。戦後、軍の圧力がなくなると当初から合併に消極的であった旧座間町では離脱の動きが強まり、1948年(昭和23年)9月1日に旧座間町の区域が分立して座間町が再置された。残りの区域で「昭和の大合併」の最中の1954年(昭和29年)11月20日に市制を施行して相模原市となった。すでに大規模合併を終えていた相模原市では「昭和の大合併」による市域拡張は行われていない。1994年(平成6年)に地方自治法が一部改正されて中核市制度が創設され、翌1995年(平成7年)の施行により中核市の指定が始まったが、相模原市は人口要件(30万人以上)は満たしていても面積要件(100km²)を満たさなかったため、長らく中核市指定を受けられなかった。しかし、2002年(平成14年)の改正で人口50万人以上の市の面積要件が削除されたため、2003年(平成15年)4月1日に中核市に指定された(なお、面積要件は2006年(平成18年)の改正で人口にかかわらず全面的に撤廃された)。その後、2006年3月20日に津久井町と相模湖町を編入し、更に2007年3月11日に城山町と藤野町を編入したことにより、横浜市に次ぐ神奈川県2位の面積となった。2002年10月、津久井郡に属する全4町(城山町・津久井町・相模湖町・藤野町)において住民アンケートが実施され、4町全てで合併に肯定的な結果が出た。城山・津久井両町では相模原市との合併を望む回答が多かったのに対し、相模湖・藤野両町では東京都八王子市との越境合併を望む回答が多かったが、八王子市は両町の打診に対し、合併特例法期限内の越境合併は困難と回答した。2002年11月、公益社団法人津久井青年会議所が中心となり、住民発議による津久井郡4町による法定合併協議会の設置を求める署名運動を実施し、有権者の50分の1を大きく上回る6418人(4町合計)の署名を集め、2003年1月に各町に請求した。この請求は、県内初となる複数市町村からの同一内容の発議であったが、この法定協議会設置議案を城山・津久井両町議会が否決(相模湖・藤野両町は可決)し、この議決により、津久井郡4町での合併は事実上消滅した。2003年7月、相模原市と4町が市町村合併に関する研究部会を設置、4町は相模原市に合併協議を申し入れた。2003年12月になり、藤野町が任意合併協議会への不参加を表明したことから、4町は合併協議の申入れを撤回したが、翌2004年1月に城山・津久井・相模湖3町が相模原市に合併協議を申入れ、2004年4月に任意協議会の「相模原・津久井地域合併協議会」を設置した。藤野町を除く3町は相模原市との合併を目指すこととなった。しかし城山町では町長が合併への慎重姿勢を見せたため、津久井・相模湖両町は先行して相模原市との「飛び地合併」を目指すこととなった。相模湖町では2004年11月に行われた5市町での合併の是非を問う住民投票の結果、反対票がわずかに賛成票を上回ったが、町長は合併協議の継続を表明し、2005年2月に3市町で法定協議会の「相模原市・津久井町・相模湖町合併協議会」を設置した。2005年3月15日に3市町は合併協定書に調印し、各市町議会、神奈川県議会の可決、総務大臣の告示を経て、2006年3月20日に津久井町・相模湖町は相模原市に編入され、「平成の大合併」期における神奈川県内初の市町村合併となった。一方、藤野町では2004年6月に行われた住民投票の結果、賛成多数となったことから、2004年8月に相模原市に合併協議を申入れ、2005年4月に相模原市と2市町での法定協議会「相模原市・藤野町合併協議会」を設置した。同町議会は合併に慎重姿勢であったが、2005年7月の町長選で合併推進派の町長が誕生したことで合併協議が加速し、合併方式を相模原市への編入、合併期日を2007年3月11日として、2006年1月26日に合併協定書に調印した。その後、両市町議会、神奈川県議会の可決を経て、2006年8月7日の総務大臣告示により合併が法的に確定した。城山町も住民からの直接請求を受け、2005年4月に津久井町・相模湖町を含む枠組みでの法定協議会「相模原・津久井地域合併協議会」を設置したが、城山町長(当時)は2005年6月に議会答弁で単独町制の継続を表明し、さらに2005年7月の協議会では43対1で合併目標期日が設定された事に反発して協議会副会長職の辞任届を提出し退席した(反対者は城山町長1人で、辞任届は会長預かり)。その結果、協議会は2005年11月に休止へ追い込まれ、相模原市・津久井町・相模湖町の合併に合わせて廃止された。2005年11月、城山町で合併推進を求める住民による解職請求が行われ、2006年2月19日に行われた住民投票の結果、賛成多数で町長の解職請求が成立、2006年2月26日には合併に関する住民投票で賛成票が多数となり、2006年3月19日の町長選では合併推進派の町長が当選した。2006年3月30日には城山町長より合併協議会設置の申し入れがあり、藤野町との同時合併を目標とする合意書に調印、両市町議会の可決を経て2006年4月12日に相模原市と2市町での法定協議会「相模原市・城山町合併協議会」を設置した。任意協議会での協議結果および他の合併協議会における協議内容を踏まえた上で迅速な議論を進めた。3回にわたる協議で協定内容が全て調ったことから2006年6月7日に合併協定書に調印、両市町議会、神奈川県議会の可決を経て2006年11月2日の総務大臣告示により合併が法的に確定した。これにより藤野町と城山町は2007年3月11日に相模原市へ編入される事が確定し、紆余曲折を経た津久井郡4町との合併が完結することになった。2006年11月2日には、相模原市・城山町・藤野町の公共施設等に、新市の地図が描かれたPR看板が設置された。キャッチフレーズは、「新・相模原市誕生 ともに築こう 新たな未来」である。「相模原市・城山町合併協議会」及び「相模原市・藤野町合併協議会」では、新市をPRすることを目的に、エコーはがきを5万枚作製し、相模原市・城山町・藤野町に所在する郵便局で2007年2月1日に発行した。また、日本郵政公社南関東支社では、2007年3月9日 - 6月8日の期間、オリジナルフレーム切手「新・相模原市誕生」を、市内に所在する郵便局で5,000部販売した。さらに、相模原市では、日比野克彦をビジュアルプロデューサーに、『新「相模原市」新宿メガキャンペーン』を2007年3月10日 - 3月25日の16日間、新宿で実施した。新宿は鉄道3線(JR東日本・小田急・京王)で相模原市と都心との結節点であり、同駅は日本一の乗降客数を誇る。キャンペーンの目的は、相模原市の知名度の向上とイメージアップである。2007年3月11日に城山・藤野両町が相模原市に加わり、合併特例の政令市移行要件とみられる人口70万人を超えた為(法定人口:701,568人)、政令指定都市の候補市になった。また、小川勇夫市長は政令指定都市を目指すことを表明したものの、2007年3月8日に体調不良を理由とする辞職願が助役の代読により表明され、2007年3月21日、肺炎のため逝去した。2007年4月22日の選挙で、合併特例法の期限内での政令市移行を目指すことを公約とし、小川から後継指名を受けていた前助役の加山俊夫が市長に選出され、2010年3月までの政令市移行を目指すことになった。※全て2007年1月1日現在市長と市議会については、従来統一地方選挙の後半日程において改選されてきたが、政令指定都市に移行したため、県知事・県議会と同じ前半日程で執り行うことになった。このため、2011年の選挙から、神奈川県知事・県議会・市長・市議会が同日に投開票されるという全国的にも稀な“クヮルテット選挙”となり、市選挙管理委員会は、4つの選挙に関する事務を同時にこなすという難題を背負うことになった。なお、知事・市長が任期半ばで辞職(失職)、あるいは県議会・市議会が任期半ばで解散しない限り、この“クヮルテット選挙”は今後も続くことになる。※2015年(平成27年)4月30日現在衆議院議員選挙区(括弧内は各まちづくりセンター管内)神奈川県議会選挙区 (任期満了日2019年(平成31年)4月29日)※2015年(平成27年)5月8日現在戦前、軍都計画のもと、軍施設が多数設置され、道路が整備された。敗戦により計画は中止されたが、軍施設は米軍に接収され、現在も相模総合補給廠やキャンプ座間、上鶴間の米軍相模原住宅地区(Sagami Housing Area)が残っている。市南部にはかつて陸軍士官学校があり、昭和天皇の行幸を仰いだ事がある。「相武台」はその際、昭和天皇によって命名された地名である。また、横浜線原町田駅(現:町田駅)と士官学校の間に整備された道路は現在も「行幸道路」と呼ばれている。日米合意に基づき、2013年3月26日付をもって陸上自衛隊の機動運用部隊である中央即応集団司令部が朝霞駐屯地より移駐、「座間駐屯地」が開庁した。上記の他に、橋本、相模原などでねぶたカーニバルやあんどん祭りなどが開催されている。下記は、いずれも1976年(昭和51年)10月19日に神奈川県の無形民俗文化財に指定されている。相模原市の小売店舗数は、県下で第4位。年間販売額は、横須賀市を抜き、横浜市、川崎市に次いで第3位。市民ニーズに対応できる多様で個性的な商業地を形成する目的で、橋本・相模原・相模大野各駅周辺地区が中心商業地に、淵野辺・上溝・小田急相模原・東林間・古淵各駅周辺の地区が地区中心商業地に位置付けられている。相模大野駅西側、小田急相模原駅東側では現在、再開発が計画されており、一部では事業が始まっている。また、再開発が一段落した橋本駅北側でも、さらに超高層マンションの計画や、南側が緊急都市再生地域に指定されたことによる再開発計画が検討されている。相模大野駅周辺地区の商業は、近くに相模女子大学、北里大学、女子美術大学などがあるため、学生の購買力を期待しがちだが、実のところ購買力はほぼ期待できず、撤退/開店が繰り返されている。これは、町田駅周辺の方が商業化が進んでいるためで、相模大野駅ビルの商業形態が幾度も変更された事でも証明される。明治から昭和初期にかけて当市域では養蚕が農家の主要な収入源として盛んに行われた。この時期の地形図では台地上が「桑畑」の記号で埋め尽くされている(ただし、相模原周辺では防風などの目的で畑の周囲に桑を植えることが行われており、このような「畑」を地図上で「桑畑」としていることも多いようである。なお、このように畑の周囲に植えられた桑の木をマワリックワなどと呼ぶ)。相模原市が発足した1954年の市域内の桑園面積は約600ha超、養蚕戸数が約2,500戸で、繭の生産量について神奈川県の3分の1を占めていた。また、畑では麦類や芋類が中心に生産されていた。しかし、都市化の進行とともに養蚕は急速に衰退し、畑での栽培作物も野菜類と花卉類に主力が移っている。一方で、東京や横浜という大消費地をひかえ、養豚や養鶏、酪農という畜産業も盛んに行われた。養豚は、相模原台地南部に続く旧高座郡下の他の各町村と共に大正期以降に盛んとなり、昭和初期にイギリスから導入された「中ヨークシャー種」の豚は高座豚の名で広く知られた。養鶏が特に盛んになったのは1960年代以降である。麻溝台には規模の大きな鶏舎が建てられ、1980年の市内の鶏卵生産額は31億円余りに達した。また1960年代には乳牛の飼育頭数が増え、乳業メーカーへの牛乳出荷が盛んになった。しかし都市化が進行するとともに悪臭の発生などによって経営が困難となり、いずれも衰退している。市発足以前の1950年当時の農家戸数は総世帯数の約40%を占める約5,500戸で、うち約3,000戸が専業農家であった。しかし都市化の進行とともに農家数は減少を続け、2000年には1,600戸に満たず(総世帯数の1%にも満たない)、専業農家はわずかに155戸となっている。1954年に4,500haを超えた経営耕地面積は、2000年には700ha未満にまで減少している。現在、旧相模原市域で農業が盛んに行われているのは西部の大沢・田名・麻溝・新磯地区であり、それ以外の区域では住宅や工場の進出が著しい。平らな土地が広がっているので、戦後は工場の進出が進み、内陸工業都市として発展を続けている。1955年に「工場誘致条例」が制定され、工場誘致が進められ、それまでの養蚕、製糸などの手工業から、電気機械、金属製品といった組立加工型工業が多く見られるようになった。内陸工業都市として知られる相模原市も、昨今では、産業構造転換のあおりを受け、大型工場などの多くが廃業を余儀なくされ、大型マンションや商業地として生まれ変わりつつある。特産品は、電子部品、特殊車両相模原市では、学校教育法に規定する高等学校、中等教育学校後期課程、高等専門学校及び専修学校高等課程に在学する者を対象に、「相模原市奨学金条例」に基づく奨学金制度がある。なお、奨学金には返還義務がある。幼稚園・小学校・中学校については各区の記事を参照されたい。日中の東京・横浜方面への所要時間は以下のとおりである。なお、朝夕の通勤時間帯には5〜25分程度所要時間が余計にかかる場合もある。なお、ここでは中心市街地と認定されている地区の駅である橋本駅と相模大野駅を取り上げる。旧相模原市域と旧津久井郡4町を結ぶ道路で、国道412および413号線のバイパス機能も担う。圏央道(さがみ縦貫道路)のアクセス道路として建設が進められ、橋本五差路 - 根小屋(県道65号線との交点)間と勝瀬橋付近(旧勝瀬橋の架け替えに伴う)では既に部分供用されている。ルートは国道16号線橋本五差路から新小倉橋を通り、圏央道(さがみ縦貫道路)相模原ICにアクセスし、国道412号線、国道413号線と交差し、勝瀬橋を通って中央道相模湖IC付近に接続する予定となっている。しかし、都市計画道路城山津久井線を延長する形で区間に組み入れられた根小屋(県道65号線との交点) - 青山(国道412号線との交点)以西は都市計画決定されていない。市内のほぼ全域を神奈川中央交通(神奈中)および、神奈中の子会社である相模神奈交バス・津久井神奈交バスがカバーしているが、橋本駅北口およびJR相模原駅北口に京王バス南が、藤野駅および上野原駅(山梨県上野原市)から富士急山梨バスが、どちらも僅かながら乗り入れている。公営交通の運行実績はないが、「市営バス」の運行実績も旧津久井町からの引継ぎである市営循環バス(根小屋方面循環線「やまびこ号」。津久井神奈交バスが受託運行)以外なく、今後も市の方針として新規の開設予定はない。なお、コミュニティバスは橋本地区で「せせらぎ号」(橋30系統 橋本駅南口‐北の丘センター‐相模川自然の村)が相模神奈交バスの受託により運行されている。市内路線の乗車方式は武相運賃地域の対キロ制で、周辺地域と同様にほとんどが運賃後払い・整理券方式の後乗り前降りまたは前乗り前降りがとなる。一部に前払い(前乗り後降り)があるほか、運賃区間が均一1区間のみの路線では中乗り前降り(後払い)の場合がある。また、非接触型ICカードであるPASMOとSuicaが使用できる。旧市内バス路線の多くは橋本駅、JR相模原駅、淵野辺駅、上溝駅(上溝)、相模大野駅、小田急相模原駅、相武台前駅(座間市に所属)をターミナルとし、それぞれの駅相互間や市内中部域や田名地域などへ路線を運行して鉄道の空白を補完している。また、北里大学も各駅発着路線の結節点の機能を持つ。以前は旧上溝(現:上溝中央バス停)や国立相模原病院にもターミナル機能があったが、バス路線の再編によってターミナルとしての役割は大幅に低下した。一方で、橋本駅、JR相模原駅、淵野辺駅、古淵駅などからは東京都町田市中部および西部や八王子市南部付近をエリアとする路線も発着しているほか、境川沿いを中心とした町田市との境界付近では、町田街道を走行する町田 - 橋本駅・淵野辺駅などの町田駅発着路線や橋本駅 - 相原 - 法政大学・大戸などの路線も利用される。市外への長距離路線としては、淵野辺駅から上溝・田名を経て愛川町の半原へ向かう路線や、橋本駅より八王子駅、本数は少ないものの相模原駅から南大沢駅を抜け聖蹟桜ヶ丘駅(多摩市)へ抜ける路線などが運行されている。以前はJR相模原駅および上溝、原当麻駅、相模大野などから本厚木駅(座間経由および依知経由)や愛川町役場へ向かう路線も運行されていたが、数次の路線再編によって座間経由本厚木線や愛川町役場線は廃止、依知経由本厚木線は短縮されて原当麻駅からの発着となっている。緑区の旧津久井郡地域では、橋本駅より旧城山町・津久井町への路線を数多く運行しているほか、緑区三ケ木(みかげ)に置かれた営業所(津久井営業所(三ヶ木操車所))をターミナルとして、相模湖駅、愛川町半原、清川村宮ヶ瀬などを結ぶ路線を運行している。また、旧藤野町域では藤野駅からの路線が主体となる。かつては三ヶ木から八王子駅、本厚木駅、平塚駅などへの長距離路線が運行されていた。送信所は相模原市中央区星が丘1-10-1。相模原市のコミュニティーFMであるが、町田市を始め周辺各都市でも受信可能。日本最大のケーブルテレビ局である同社が、合併前の旧相模原市全域と城山町の一部をサービスエリアとしていたが、現在は相模原市全域にサービスエリアを拡大した。城山地区(旧津久井郡城山町,2007年3月11日編入)…城山総合事務所:久保沢1丁目3-1津久井地区(旧津久井郡津久井町,2006年3月20日編入)…津久井総合事務所:中野633相模湖地区(旧津久井郡相模湖町,2006年3月20日編入)…相模湖総合事務所:与瀬896藤野地区(旧津久井郡藤野町,2007年3月11日編入)…藤野総合事務所:小渕2000
出典:wikipedia
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