マサ斎藤( - さいとう、本名・旧リングネーム:斎藤 昌典(さいとう まさのり)、1942年8月7日 - )は、元レスリング選手、元プロレスラーである。東京都中野区出身。信条は「Go for broke」(当たって砕けろ)である。明治大学在学中の1963年、レスリング全日本選手権にて、フリースタイル、グレコローマンの両ヘビー級で優勝。翌1964年、日本代表として東京オリンピックに出場(フリースタイル・ヘビー級、3回戦で敗退)。大学卒業後の1965年4月に日本プロレスに入門。同年6月3日に、高崎山猿吉戦でデビュー。翌1966年6月、日本プロレスを離脱し、豊登が興した東京プロレスに参加する。アントニオ猪木、豊登に次ぐ三番手のポジションで戦い、一時は登記上の社長も務めた。しかし、東京プロレスは翌年あえなく崩壊、猪木らを除く大半の所属レスラーは国際プロレスに移籍するが、斎藤は渡米を選択し、フリーランスの一匹狼の道を歩むこととなった。アメリカではミスター・サイトーまたはマサ・サイトーをリングネームに、一貫してヒールのポジションで活動。レスリングの地力を下敷きにした悪党ファイトが高評価を受け、西海岸で長くトップヒールとして活躍した。その後はフロリダをはじめとするNWAの南部各州、ニューヨークのWWF、ミネソタのAWAと全米各地の繁栄マーケットを転戦、数々のタイトルを獲得し、アメリカで長期に渡り最も成功した日本人レスラーとなった(後述)。日本では1972年3月、5年ぶりに帰国して古巣の日本プロレスに出場した後、1974年4月からは新日本プロレスに日本側の助っ人として断続的に参戦。明大の同期である坂口征二ともタッグを組んだが、1978年暮れにヒロ・マツダや上田馬之助、サンダー杉山らとフリーランサー同士によるユニット「狼軍団」を結成し、日本でもヒールに転向。マツダとのタッグで坂口&ストロング小林から北米タッグ王座を奪取し、日本での初戴冠を果たした。また、同時期には上田と共に国際プロレスにも参戦している。その後1980年初めまで、新日本プロレスでは外国人サイドの参謀格を務めた。1982年から長州力が結成した革命軍、そして維新軍(後のジャパンプロレス)の参謀格として活躍したが、1984年4月にウィスコンシン州でケン・パテラが起こした器物損壊事件に巻き込まれ、宿泊先で斎藤と同室だったパテラを逮捕しようと部屋に押し入った警官数人をなぎ倒してしまったため、陪審員裁判で有罪判決を受けた。斎藤はこれを不服として現地の日本総領事館へ助けを求めたが、大使館や総領事館では釈放や減刑の要求は出来ないため、総領事館にも受け入れられず、1985年6月より現地で1年半の刑務所暮らしを送った(罪状のうちほとんどが無罪だったが、パテラと一緒に現場にいたことや女性警官を投げ飛ばしたため有罪となった)。しかし、自身はこれを休息期間と考え、刑務所内で肉体改造に成功。のちに監獄固めという技を開発した。1986年末に出所し、AWA地区で海外武者修行中の高野俊二の面倒を見た後、1987年3月、INOKI闘魂LIVE Part2での猪木とのシングル戦に合わせ、日本に帰国。1987年10月4日、巌流島で行われたアントニオ猪木との時間無制限ノーレフェリー・ノールール・無観客マッチは「巌流島の戦い」と呼ばれ、2時間5分14秒の死闘を繰り広げた。その後たけしプロレス軍団に参謀役という形で参加した。1990年2月10日、東京ドームでラリー・ズビスコを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得。2カ月後にアメリカのセントポールにてズビスコに奪還されたものの、47歳での戴冠劇は快挙と称えられた。第一線を退いた後は、「ワールドプロレスリング」の解説者を務めた。1999年2月14日、日本武道館において自らが発掘したスコット・ノートンと引退試合を行った。この引退試合でも巨体のノートンをバックドロップで投げるなど往年のパワーを見せつけた。2003年に新日本プロレスを離脱し、長州力らとWJプロレス旗揚げに参加する。WJプロレス時代、記者会見の席に現れた斎藤は体に振戦が見られ、発語にも難がある状態になっており、以降身体的不調が知られるようになった。WJプロレスはその後1年余りで崩壊する。2005年、斎藤を慕っている佐々木健介が「ファンにマサさんのことを忘れてもらいたくない」として健介オフィス株式会社化の際、斎藤をアドバイザーとして招聘。記者会見には斎藤も姿を現している。斎藤は寮が無かったジャパンプロレスに入門した当時の健介を自宅マンションに居候させ、「身長がない分、横に筋肉をつけろ」とアドバイスするなど、師匠格の存在であった。2006年にはAWA時代のタッグパートナーであったニック・ボックウィンクルとの対談が雑誌掲載されるなど、長年の激闘の後遺症はあるがまずまず健在なところを見せた。近年は佐々木夫婦の住む埼玉県吉川市に住居を移しており、中嶋勝彦らと食事をしている写真が同社のブログに掲載されることもある。また、週刊プロレスの北斗晶の対談コーナーにも登場している。2008年には、健介オフィスの新人らにバックドロップの技術を教授している姿が、FIGHTING TV サムライのSアリーナで放送された。2011年頃からは、若手の西川潤がマサ斎藤をとても慕っており、ブログでは一緒に食事するなど近況が知ることができる。2014年から2015年にかけて、ダイヤモンド・リング道場が閉鎖されたあと、故郷の東京に転居したことや、2000年からパーキンソン病の治療を受けていること、2013年に障害者手帳の交付を受けていた事などを明らかにした。2016年12月2日、大阪城東区民センターで行われる元新日本プロレス取締役の上井文彦プロデュース興行「Strong Style History~Go for Broke!! Forever~」でリング復帰予定。東京プロレス崩壊後の1967年4月、斎藤は単身で渡米し、フリーランスの日本人ヒールとしてアメリカのマット界に活躍の場を求めた。ロサンゼルスで米本土デビューを果たしジョバーを務めた後、サンフランシスコに北上して日系アメリカ人レスラーの大御所キンジ渋谷と邂逅。渋谷のパートナーに起用されて本格的なタッグチームを結成、日系レスラー特有のヒール技術を叩き込まれ、出世のきっかけを掴む。コスチュームも渋谷に合わせ、膝下までのセミロング・タイツ(通称「田吾作タイツ」)に素足または地下足袋という日系悪党スタイルとなり、1968年7月13日にペッパー・ゴメス&ペドロ・モラレスからサンフランシスコ版のNWA世界タッグ王座を奪取。翌1969年8月9日にゴメス&ピーター・メイビアに敗れるまで長期政権を築いた。ロサンゼルスでも渋谷と組んで活躍し、1971年から1972年にかけてNWAアメリカス・タッグ王座を再三獲得。シングルでも、ミル・マスカラス、フレッド・ブラッシー、レイ・メンドーサ、ジョン・トロス、ロッキー・ジョンソンなどのトップスターと対戦し、1972年3月4日にはドリー・ディクソンからロサンゼルス地区のTV王座を奪取している。渋谷とのコンビ解消後、1974年4月より新日本プロレスにフリー参戦するようになるが、以降もアメリカを主戦場に、主にタッグプレイヤーとして活動。同年はカナダのバンクーバー地区にてジン・キニスキーと組み、11月11日にNWAカナディアン・タッグ王座を獲得。ヘイスタック・カルホーン&ガイ・ミッチェル、ドン・レオ・ジョナサン&ダッチ・サベージなどのチームとも対戦した。1976年は古巣のサンフランシスコにてミスター・フジを新パートナーに、ペドロ・モラレス&パット・パターソンと抗争を展開した。1977年より太平洋岸を離れてNWAの南部エリアに進出。ヒロ・マツダがブッカーを務めていたフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)では、1978年にミスター・サト(ヨシノ・サト)こと高千穂明久と純正の日本人タッグを結成し、ジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコの兄弟チームとフロリダ・タッグ王座とUSタッグ王座の両タイトルを争った。USタッグ王座の戴冠時には、同地区のヒーローだったダスティ・ローデスとワフー・マクダニエルの豪華コンビを相手に防衛戦を行っている。フロリダには1980年まで定着し、同年5月6日にはスティーブ・カーンからTV王座を奪取。イワン・コロフやディック・スレーター、ドン・ムラコとも共闘し、同地区のトップヒールとして活躍した。1981年、キャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーに迎えてWWFに参戦。サンフランシスコでも組んでいたミスター・フジとの日系悪役コンビで、同年10月13日にリック・マーテル&トニー・ガレア、翌1982年7月13日にチーフ・ジェイ・ストロンボー&ジュールズ・ストロンボーを破り、WWFタッグ王座を2回獲得した。戴冠中はアンドレ・ザ・ジャイアント&トニー・アトラスなどの強力チームを相手に防衛を続け、ボブ・バックランドが保持していたWWFヘビー級王座にも挑戦している。ペドロ・モラレスやパット・パターソンとも、西海岸やフロリダでの遺恨試合を再現した。1982年12月7日にはペンシルベニア州アレンタウンにて、当時WWFを短期サーキットしていたタイガーマスクとのシングルマッチも行われている。1983年下期より、当時のアメリカにおける3大メジャー団体の一角を占めていたAWAに登場。デビッド・シュルツをボディーガードに従え、9月から11月にかけて、WWFに移籍する直前のハルク・ホーガンと抗争を繰り広げた。翌1984年上期はジェシー・ベンチュラとのタッグチーム "Far East-West Connection" で活動、グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼルのハイ・フライヤーズと抗争し、マッドドッグ・バション、クラッシャー・リソワスキー、バロン・フォン・ラシク、ブラックジャック・ランザなどのベテラン勢とも対戦した。同年下期からはニック・ボックウィンクルと組んでファビュラス・ワンズやラリー&カート・ヘニングと抗争、リック・マーテルのAWA世界ヘビー級王座にも挑戦した。1985年はシーク・アドナン・アル=ケイシーをマネージャーに、マスクド・スーパースターやキング・トンガと反米ユニットを結成、サージェント・スローターやジェリー・ブラックウェルと抗争を展開し、ロード・ウォリアーズとも対戦したが、前年4月にケン・パテラが起こした器物損壊事件に巻き込まれての警官暴行容疑のため、約1年6カ月間に渡って服役することとなる。服役後の1986年末、海外武者修行中だったスーパー・ニンジャこと高野俊二のパートナーとしてAWAに復帰。翌1987年3月にはバディ・ローズと組んでマーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズのミッドナイト・ロッカーズが保持していたAWA世界タッグ王座にも挑戦したが、WWFの全米侵攻により旧来のテリトリー制が崩壊したこともあり、以降はアメリカにレギュラー参戦することなく、日本に定着した。プロレスラーとしては背が高くない。その体格のハンデを埋めるため、ウエイトトレーニングを熱心に行っていた。その結果、50歳を過ぎても現役のプロレスラーとして活躍し続け、おなかは出ているが、分厚い胸板や太い腕をした身体を披露していた。若手レスラーに、熱心にトレーニングの指導を行っていた。トレーニングや肉体に対して信仰にも近い拘りを持っており、病気で入院していた時にトレーニングができないことを嘆いて、「見てよ! 身体が縮んじゃったよ!」と看護師にぼやいたというエピソードがある。ただし、それを聞かされた看護師からは「こんな大きな身体してて、どこが縮んだって言うの?」と返され、取り合ってもらえなかったそうである。ある時、プロレスライターの門馬忠雄が斎藤に「腕に贅肉がついてきた」と、からかったら徹底的に否定した。それでも門馬が繰り返しからかったところ、納得せぬままその場を去った。そして2週間後、「どうだいモンちゃん、きっちり締まったろ!」と、筋肉痛になった腕をさすりながら、門馬に力瘤を見せた。既に60歳を過ぎているにもかかわらず肉体に対する信奉は依然強く、最近までトレーニングジムなどで無謀とも思える高重量のバーベルに挑む姿が目撃されている。プロレスラーとしての長い現役生活で、身体のあちこちに怪我を抱えつつも、トレーニングを継続している。全盛期はベンチプレスで200kg以上、インクラインベンチプレスで180kgを挙げていた。プロレスラーとしてのマサ斎藤は一貫して荒々しいキャラクターであったが、カルピスが大好きという愛嬌のある一面や、解説者時代に見せた天然ボケとも言えるキャラクターも知られている。カルピスについては「あんなに美味しい飲み物はないよな」と自他共に認める大好物である。これが斎藤自身の豪快なイメージと相まってか「原液をそのまま飲んでいる」という伝説まで生まれた。ただし本人は「薄めないと飲めない」などと否定している。解説者時代のマサ斎藤は、言い間違いや、素頓狂なコメントをすることが多かった。例えば、当時、正体を公式には明らかにしていなかったマスクマンの試合を実名で解説してしまったことも多い(獣神サンダー・ライガー、ブラック・タイガー、エル・サムライなど複数)。また、正体が明らかであるが、あくまで別キャラクターとしてリングに上がっている選手(グレート・ムタ、パワー・ウォリアーなど)も本名で呼んでいた。蝶野正洋と小原道由の試合で小原が犬の首輪をはめられた場面では「イヌワですイヌワ!」と連呼。また「nWoの狙いは世界制覇」と言おうとして「世界平和」と発言したこともある。この種の言い間違いは枚挙に暇がなく、「G1(ジーワン)のことをジーアイと言った」「G1の優勝候補選手予想で、レフェリーのタイガー服部の腕っ節の強さを熱く語った」「アナウンサーが『受身の取れないバックドロップ!』と実況すると『いや、(受身を)取ってます』と返した」「TEAM 2000(チーム・トゥーサウザンド)を頑なに『ティーにせん』と発音」「辻よしなりがノートン出演CMにひっかけて『スコット・ノートンは和の精神を理解しています』と煽ったところ『それはCMだけでしょ』と無粋な突っ込みをした」などなど、武勇伝は数知れない。アメリカでの活動が長かったこともあり、英語力に長けている。ノートンなどの外国人レスラーに、流暢な英語でインタビューすることもあった。先述の通り、アメリカでは堅実なレスリングのできる日本人ヒールとして、1960年代末から1980年代にかけて、当時の3大メジャーであるNWA、WWF、AWAの各団体で活躍した。とくに、斎藤と同じくレスリングのオリンピック代表選手だったバーン・ガニア主宰のAWAでは、1983年にハルク・ホーガンと抗争するなど絶大な悪党人気を獲得、後にミネソタ州知事となるジェシー・ベンチュラともタッグを組み、彼の名を冠したカクテルが存在するほどである。関係者からの評価も高く、警官暴行事件の際には、裁判でバーン・ガニアやニック・ボックウィンクルらが斎藤の弁護に立った。若手時代、漫画のキャラクターに似ていたことから「フクちゃん」と呼ばれていた。出獄後マスコミから「獄門鬼」というニックネームがつけられたが、マサ本人が嫌がったためすぐお蔵入りとなった。東京プロレス設立の際、豊登はそのドンブリ勘定な性格から周囲より忌避され、また、猪木も帰国していなかった状況だったため、レスリングオリンピック代表の経歴および父親が某電器会社の重役という信用性により、斎藤が初代の代表取締役社長として登記された。明治大学の同窓ということで若手の頃から坂口征二と交流があり、1972年、東京プロレス時代の縁を通じて新日本プロレスから参戦オファーがあったのを断り、日本プロレスに参戦したのは坂口がエースだから、とプロレス雑誌の坂口との対談で明かしている。またその際に、馬場・猪木離脱後の日本プロレスの集客の惨状を見て、「このままではダメだ」と坂口に進言し、西麻布の某焼肉店での猪木・坂口会談を実現させた。長州力の参謀についた頃〜現在に至るまでも、大学レスリング部出身およびオリンピック代表という両人の経歴のため、参謀につく以前から師弟関係が存在していたと見る向きがあるが、1982年末に長州力がマサ斎藤に会いに渡米するまでそれほど接点はなかったそうである。マット上では北米タッグ(長州は坂口のパートナーとして)やプレ日本選手権等でのシングルマッチ対戦経験はあったが、当時は「ほとんど喋ったことがなかった」と、プロレス雑誌のインタビューで語っている。解説時のユーモラスな一面とは違いリング上では鬼気迫る表情で、どんな大型選手相手でも決して退かないファイトスタイルが特徴であった。
出典:wikipedia
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