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エイブラハム・リンカーン

エイブラハム・リンカーン( 、1809年2月12日 - 1865年4月15日)は、アメリカ合衆国の政治家である。名はアブラハム、姓はリンカンと表記されることもある。弁護士、イリノイ州議員、上院議員を経て、1861年3月4日に第16代アメリカ合衆国大統領に就任した。愛称はエイブ ("Abe") 。また、オネスト・エイブ ("Honest Abe")、レール・スプリッター ("the Rail Splitter")、偉大な解放者 ("the Great Emancipator")とも呼ばれる。リンカーンはアメリカ合衆国の歴史上初の共和党所属の大統領である。「奴隷解放の父」、有名なゲティスバーグ演説、南北戦争による国家分裂の危機を乗り越えたことなどが評価され、歴代大統領ランキングではしばしば“最も偉大な大統領”の一人に挙げられる。奴隷制の拡張に反対するリンカーンの大統領当選は南部諸州の反発を招き、合衆国を二分する南北戦争に結びついたが、北部連邦をよく指揮し勝利へ導いた。しかし、南部連合総司令官のロバート・E・リー将軍が降伏した6日後の1865年4月15日、ワシントンD.C.のフォード劇場で観劇中にジョン・ウィルクス・ブースの凶弾に倒れた。これにより、リンカーンはアメリカ史上最初の暗殺された大統領となった。一方で、インディアンに対しては強い迫害の姿勢を見せ、民族浄化とも言われるロング・ウォーク・オブ・ナバホや、ダコタ戦争を始めとする多くのインディアン戦争はリンカーン政権下で行われた。エイブラハム・リンカーンはケンタッキー州ラルー郡(当時はハーディン郡)のシンキング・スプリング農場(ホーゲンヴィルの町の3マイル南、ノーリン・クリーク)に建てられた間仕切りされていない丸太小屋で、1809年2月12日にトーマス・リンカーンおよび夫妻の息子として生まれた。彼の誕生日はチャールズ・ダーウィンと同じ日である。彼はインディアンに殺害された父方の祖父エイブラハム・リンカーンにちなんで命名された。祖父のエイブラハムは家族とともにバージニア州からケンタッキー州ジェファーソン郡に移り住み、1786年そこでインディアンに襲撃され、リンカーンの父トーマスを含む子供達が見ている前で殺された。トーマスはこの辺境の地で自ら生計を立てて行くしかなかった。リンカーンの母ナンシーはルーシー・ハンクスの娘として現在のウェストバージニア州(当時はバージニア州)ミネラル郡で生れた。ルーシーはナンシーを伴ってケンタッキー州へ引っ越した。1806年、ナンシーは尊敬される市民となっていたトーマスと結婚した。トーマスはシンキング・スプリング農場を含め幾つかの農場を売り買いした。この一家は、厳格な道徳規範を持ち、飲酒やダンス、奴隷制度に反対するセパレイト・バプテスト教会に通った。。トーマスはケンタッキーでそこそこの地位を占め、陪審員になり、土地を評価し、郡の奴隷警邏隊員を務め、刑務所の看守にもなった。息子のエイブラハムが生れる頃には、600エーカー (2.4 km²) の農場2か所と町の数区画、家畜や馬を所有していた。彼は郡内ではもっとも裕福な者の部類に入っていた。しかし1816年、土地の権利証が偽物だったため、彼は訴訟で土地の全てを失った。両親は無学な開拓農民であり、リンカーンが7歳の時(1816年)に一家は貧困と奴隷制度のために、自由州(奴隷のいない州)であるインディアナ州スペンサー郡へ転居して新たなスタートを切った。リンカーンは後に、この転居は「奴隷制という理由もあった」が、主として土地獲得の困難さだったと述べていた。父がケンタッキー時代に土地と訴訟で何度も苦しむ様を見ていたリンカーンが成人して測量術を覚え、その後に弁護士になったのもこれらの事情が動機になった可能性がある。9歳の時(1818年)に、母ナンシーが毒草を食べた牛の乳を誤飲したことでミルク病()になり、34歳で亡くなった。母の死後は2歳年上の姉のサラがリンカーンの面倒を見ていたが、リンカーンが19歳の時に、サラは死産をして21歳で急逝した。10歳の時(1819年)に、父トーマスが3人の子を持つ未亡人サラ・ブッシュ・ジョンストンと再婚した。エイブラハムと継母との関係は良好で、彼女のことを「お母さん」と呼んでいたという。リンカーンは幼い頃に辺境の生活に伴うきつい労働を好まなかった。家族や近所の者の中には彼が怠け者だと考える者もいた。10代になって長じるに連れて、家事を行ううえで少年に期待されるあらゆる雑用を進んでこなすようになり、レールフェンスを作るときには斧使いの達人になった。リンカーンは21歳になるまで家の外で稼いできたものを父に渡すという当時の慣習的義務を果たしていたことも認めている。後年は度々父に金を貸すことがあった。リンカーンの父は無学だったこともあって、次第に父からは疎遠になっていった。教育ジャーナリストのアンナ・スプロウルは、トーマス・リンカーンの言葉として「エイブのやつァ、また教育とかに夢中なんじゃろう。わしは止めようとしたんだが、思い込みがはげしくて、どうにもならん」を紹介している。父トーマスの様子を窺うことができる。リンカーンの受けた正式な教育は幾人かの巡回教師からの1年分に相当するほどの基礎教育だけであり、それ以外はほとんど独学であり、読書も熱心だった。1830年にオハイオ川一帯でのミルク病の蔓延を怖れたリンカーン一家は、父親が選んだ沿いのやはり自由州であるイリノイ州メイコン郡(現在のディケーター付近)の公有地に転居した。その年の冬は厳しい寒さだった。1831年父親は再度イリノイ州コールズ郡への転居を決めるが、大望ある22歳のリンカーンがより良い生活を求め一人で生きていくことを決めたのがこの時だった。独りでをカヌーで下り、イリノイ州サンガモン郡(現在のメナード郡)に移り住んだ。同年春、ごろつき集団「クレアリーズ・グローブ・ボーイズ(Clary’s Grove boys)」の有名な首領ジャック・アームストロングの挑戦を受け、デントン・オファットのゼネラルストア(雑貨屋)でレスリングの賞金試合(創世期のプロレス)を行ない引き分けたという。非常に激しい試合の展開で、その腕力と大胆さで知られるようになった。1831年末に彼はニューセイラムの実業家デントン・オファットに雇われ友人と共に平底船に乗ってニューセイラムからルイジアナ州ニューオーリンズへサンガモン川からミシシッピ川を下り品物を運搬した。ニューオーリンズ滞在中に彼は自身の生涯に大きな影響を与えることとなる黒人奴隷売買を目撃しているかもしれない。1832年4月11日の地方新聞(イリノイ州ビアーズタウン)にレスリングの試合でロレンゾ・ダウ・トンプソンがエイブラハム・リンカーンを2-0で破ったという記事がでた。リンカーンは歩いてニューセイラムに戻った。リンカーンは若いころにジョシュア・フライ・スピードという友人と共に暮らし、さらには夜に同じベッドで睡眠をとっていた。この生活は4年間続き、スピードのほかに別の友人も同じ部屋で生活した時期もあった。スピードとの特別な友情は彼の死まで続いた。極めて親密ではあるが性的行動は介在しない同性との関係はロマンティックな友情と呼ばれ当時の西欧社会では珍しいことではなかったが、妻のメアリー・トッドとの関係がやや希薄であったとの資料もあり、歴史家の中にはリンカーンがバイセクシュアルであったと考えるものもいる(を参照)。リンカーン自身は自らについてあまり語らなかった。大統領指名が問題になった頃、選挙関係の文書に使う資料として求められ、早急に起草した自伝風の素描が「自叙伝」と呼ばれるものであり、上述のような半生が語られている。高木八尺がフロンティア精神を発揮したパイオニアの典型に挙げたのは、リンカーンである。丸太小屋に育ち、斧で樹を伐ることにすぐれ、敬虔、素朴、質実、健全という辺境生活が培った美徳を備えた人物として、リンカーン像が描かれており、ユーモアのセンスを豊かに持っていたことを含めて、リンカーンの性格は「すべて辺境において彼の経験した、人としての鍛錬と切り離しては考え難い事柄である」と述べている。後にリンカーンが大統領になってから、『アンクル・トムの小屋』を書いて有名になっていたハリエット・ビーチャー・ストウをホワイトハウスに招いたことがあった。この時、リンカーンはいきなり「ではあなたがこの大きな戦争を起こした本を書いた小さな婦人ですね」と述べた。ハリエットに付き添っていた娘のハティは、兄弟にあてた手紙の中でこの時の様子を述べ、「ホワイトハウスで過ごした時間はとてもおどけていたのよ、本当よ」と書き、「帰ってからはなすけれど、とにかくとてもおかしくて、いつも今にも笑いが爆発しそうだったわ」と会談の雰囲気を描いていた。リンカーンのユーモアを推測させる逸話である。1832年、23歳のリンカーンと共同経営者がニューセイラムで小さな雑貨屋を借金で購入した。経済は上り調子だったが、事業は難しく、リンカーンは最終的に持ち分を手放した。この年、イリノイ州とソーク族およびフォックス族インディアン連合との間で、ブラック・ホーク戦争が始まった。ソーク族とフォックス族は、この地に広大な領土を持っていたが、イリノイ州は彼らを一人残らず州外へ追い出そうとした。リンカーンはイリノイ州民兵隊に大尉として参加した。ニューセイラムでの最初の冬に、リンカーンはニューセイラム討論クラブの集会に出席した。ここで行ったこと、店や製材所、製粉所を切り盛りする効率の良さ、さらには彼自身の自立していく努力もあって、間もなく町の指導者であるジョン・アレン博士、メンター・グラハムおよびジェイムズ・ラトリッジなどから敬意を持って迎えられるようになった。彼らはリンカーンがこの成長する町に利益をもたらすことができると考えて政治の世界に入ることを勧め、1832年3月にリンカーンは、スプリングフィールドの印刷屋「サンガモン・ジャーナル」に持ち込んだ原稿でイリノイ州議会議員候補者になることを宣言することで、政治との関わりを始めた。ブラック・ホーク戦争から戻ると、4月6日の選挙日に向けて運動を始めた。リンカーンはサンガモン川の航行をやりやすく改良することを訴えていた。ニューセイラムでは持って生まれた雄弁家として人気を集め聴衆を引き付けた。リンカーンの身長は6フィート4インチ (193 cm) あり、「対抗馬をおびえさせるほど強かった。」最初に演説をしている時に、群衆の中の支持者が攻撃されているのを見て、攻撃者の「首とズボンの尻の部分を」つかむと放り投げた。しかし教育がなく、強力な友人と金がなかったことがその落選に結びついた可能性がある。選挙結果でリンカーンは立候補者13人のうち8位(上位4位までが当選)だった。得票数300票のうちニューセイラムから277票を受けていた。リンカーンはニューセイラムの郵便局長を、さらに後には郡測量士を務め、その間も貪欲に読書を続けた。その後弁護士になる決心をし、ウィリアム・ブラックストンの『イギリス法注釈』など書籍を読むことで法律を独学し始めた。その学習方法について「私は誰にも付かずに学んだ」と語っていた。リンカーンが1834年に州議会議員へ2度目の出馬を行う決断をした背景には、彼の言う「国の負債」を支払う必要性と、議員としての給与からくる追加収入に強く影響されるものがあった。この時期までにリンカーンはホイッグ党員となっていたが、その選挙戦略は国家的問題に関する議論を避け、地区内をくまなく歩いて有権者一人一人に挨拶することに集中された。その地区のホイッグ党を指導するのは、リンカーンがブラック・ホーク戦争の時から知っていたスプリングフィールドの弁護士だった。地元の民主党員はリンカーンよりもスチュアートの方を怖れており、13人いた党候補者のうち2人を降ろし(1832年と同様に上位4人が当選)、リンカーンへの支持を表明し、スチュアートを破ることに集中できるようにした。スチュアートは自身の勝利を確信しており、リンカーンに民主党の後援を受け入れるよう助言した。この戦略が功を奏し、8月4日の選挙ではリンカーンが第2位の得票数となる1,376票を得て当選し、スチュアートも当選した。リンカーンは、たくさんの聴衆に向かって話すときに、一番端にいる者にも聞こえるように声を鍛えた。ある時、11歳の少年が一番前の席でリンカーンが演説するのを見上げていると、額に霧のようなものが落ちてきて濡れてしまったという。しかし、その少年は大型のハンカチを使ってその場を動かなかったということである。リンカーンの演説にはそれほど人を引きつける力があった。リンカーンの最初のロマンスはニューセイラムに初めて来たときに出会ったアン・ラトリッジだった。1835年には交際を続けていたが、正式に婚約することはなかった。アンはこの年8月25日に死んでおり、腸チフスだったとされている。1836年には法廷弁護士として認められ、スプリングフィールドに転居して、後に妻となるメアリーのいとこであり、上にも触れたの下で法律実務を始めた。弁護士としては、反対尋問や最終弁論では手強い相手という評判を取り、有能で成功した弁護士となった。1835年から1836年、下院議会で白人男性の選挙権を土地の所有に拘わらず拡大する案に賛成の投票を行った。奴隷制と奴隷制廃止論のどちらにも反対する「自由土地派」("free soil")と呼ばれた政治姿勢で知られた。1837年にこのことについて初めて発言し、「奴隷制度は不正と悪政にねざすことを信じるが、しかし奴隷廃止論の公布はその害悪を減ずるよりはむしろ増大させるものと信ずる」と述べている。アメリカ植民地協会を推進していたヘンリー・クレイに密接に従い、解放された奴隷をアフリカのリベリアに再入植させることで、奴隷制を事実上廃止できると考えていた。イリノイ州下院議員の方はサンガモン郡選出のホィッグ党員議員として連続4期(8年間)務めた。1841年から1844年にはと共同で法律事務所を運営した。1830年代前半にはケンタッキーから姉妹の家を訪れていたメアリー・オーウェンズと出会った。1836年後半、リンカーンはメアリーがニューセイラムに戻ってくるなら結婚することに合意した。メアリーは1836年11月に実際に戻ってきて、2人はしばらく交際したが、2人共にその関係を再考することになった。1837年8月16日、リンカーンはメアリーに宛てて、彼女が2人の関係を終わらせたとしても決して責めたりはしないということを示唆する手紙を送った。メアリーはこれに対する返事を出さず、2人の交際は終わった。1840年、ケンタッキー州レキシントンの裕福な奴隷所有家の出身であるメアリー・トッドと婚約した。2人は1839年12月にイリノイ州スプリングフィールドで出会って、翌年12月には婚約していた。結婚式は1841年1月1日とされていたが、リンカーンからの申し出で婚約が破棄された。しかし、後にあるパーティで再会し、1842年11月4日にスプリングフィールドにあるメアリーの姉妹が嫁いでいた邸宅で結婚した。結婚式の準備をしているときに再度躊躇う気持ちになり、どこへ行こうとしているかを問われた時に、「地獄へだと思う」と答えていた。1844年、この夫婦はスプリングフィールドにあるリンカーン法律事務所の近くで家を購入した。メアリーはケンタッキーの家であれば家族がこなしていたであろう家事一切を引き受け、勤勉に働いた。彼女は夫が法律実務で挙げる限られた収入を効果的に遣うこともできた。1843年に長男のロバート・トッド・リンカーン(1843年8月1日 - 1926年7月26日)が生まれた。1846年には次男のエドワード・ベイカー・リンカーン(エディ、1846年3月10日 - 1850年2月1日)が生まれた。リンカーンはかなり子供好きであり、躾には厳しくなかったと考えられている。ロバートは成人まで成長した唯一の子供になった。エディは1850年2月1日に亡くなり、結核と考えられている。1850年12月21日にウィリアム・ウォレス・リンカーン(ウィリー)が生まれ、1862年2月20日に死んだ。四男タッド・リンカーンは1853年4月4日に生まれ、1871年7月16日、18歳で心不全のために死んだ。息子達に死なれたことは両親に大きな影響を与えた。メアリーは後に夫や息子達をなくしたことに関わるストレスに苦しむようになり、長男のロバートは1875年に彼女を一時的に精神疾患療養所に入れた。リンカーン自身も今日で言う臨床的鬱病に相当する抑鬱状態を味わったことがあった。リンカーンの義父はケンタッキー州レキシントンを本拠にしていた。彼とその他のトッド家は奴隷所有者であるか奴隷売買業者だった。リンカーンとトッド家の関係は親密であり、家族で度々レキシントンのトッド家を訪れることがあった。リンカーンは留守をすることが多かったが、愛情豊かな夫であり、かつ4人の子供の父親だった。現在リンカーンの直系子孫は断絶(1985年、曾孫の一人であるロバート・トッド・リンカーン・ベックウィスが81歳で死去し、断絶)しているが、リンカーンの母ナンシーの出身一族ハンクス家の子孫は今日まで続いており、俳優のトム・ハンクスはそのひとりである。このほか6世の孫であるジョン・ディキンソン(1973年-)が1984年(昭和59年)の第8回アメリカ横断ウルトラクイズにおいて日本に紹介された。リンカーンは1830年代初期から確固たるホイッグ党員であり、1861年には友人達に「古いホイッグ党路線、ヘンリー・クレイの弟子」と表明していた。ホイッグ党はリンカーンを含め、銀行、鉄道の経済近代化、内国改良に賛成し、都市化や保護関税を支持していた。1846年にリンカーンはホイッグ党員としてアメリカ合衆国下院議員に選出され、1期2年間を務めた。イリノイ州選出ホイッグ党議員はリンカーン1人だったが、投票を行うほとんど全ての機会に参加し、党の路線に沿った演説を行うことで党への忠誠を示した 。奴隷制廃止論者のジョシュア・R・ギディングスとの共同提案で、コロンビア特別区における奴隷制を廃止するという法案を起草した。これには奴隷所有者に補償金を支払うこと、逃亡奴隷を捕らえることを強制すること、さらにこの件について住民投票を行うという条件が付いていた。しかしホイッグ党支持者から十分な支持を得られなかったので、この法案を取り下げた。信頼されるべきホイッグ党員として彼はしばしば党首のヘンリー・クレイを賞賛した。下院議員として多くの時間を彼はワシントンD.C.で独りで過ごし、また政治家仲間にめざましい印象を与えた。外交政策や軍事政策では米墨戦争に反対し、その原因がジェームズ・ポーク大統領の「軍事的栄光 - 血の雨の後に出来る魅力的な虹」への野望にあるとして反戦の演説を行った。ウィルモット条項も支持した。これが成立しておれば、アメリカ合衆国がメキシコから獲得した領土で奴隷制が禁じられるはずだった。1847年、リンカーンは「スポット決議」(連邦議会下院における現地点問題に関する決議案)を起草して提案することでポークに対する反対を強調した。この戦争はメキシコがメキシコとアメリカ合衆国との間で紛争になっている地域でアメリカ兵を殺したことに始まっていた。ポークはメキシコ兵が「我が国の領土」を侵犯し、「我が国の大地」で仲間市民の血を流させたと主張した。リンカーンはポークに血が流された正確な地点を示し、そこがアメリカの大地であることを議会に示すよう要求した。議員たちの多くも、ホイッグ党の議員が民主党を攻撃しているという程度にしか受け止めず。、議会はこの決議案を取り上げず議論すらしなかった。全国紙はこれを無視し、リンカーンの地元のイリノイ州では、民主党系の新聞が予想通りリンカーンを攻撃した。リンカーンはその選挙区での支持を無くす結果になった。あるイリノイ州の新聞が「スポッティ・リンカーン」とあだ名をつけて嘲った。リンカーンは後に、自分の声明の中で特に大統領の戦争遂行能力を攻撃したことを後悔した。高木八尺は、「本質的には、国策決定の根底に事実の歪曲、虚偽の介在を許すべからずとする人間リンカーンの血のにじむような良心の叫びだった」と評している。1848年のホイッグ党大統領候補指名選挙では、ヘンリー・クレイでは勝ち目がないと理解し、下院で1期のみ務めると誓っていたリンカーンはザカリー・テイラー将軍を支援した。テイラーが当選し、リンカーンは土地利用局のコミッショナーに指名されることを期待していたが、この職は同じイリノイ州出身のライバルであるジャスティン・バターフィールドに行った。バターフィールドは内閣から高度に熟練した弁護士と考えられていたが、リンカーンの見解では「古い化石」に過ぎなかった。下院の任期が終了したとき、来るテイラー政権はリンカーンに論功行賞としてオレゴン準州の州務長官あるいは知事の職を用意した。この遠隔の地は民主党の強い地盤であり、それを受ければイリノイ州での法律と政治の経歴が終わりになると判断したリンカーンはそれを断り、スプリングフィールドに戻って、活動的なホイッグ党員のままではあったがその精力のほとんどを弁護士の活動に向けた。1844年にはリンカーンが「学問好きな若者」と考えたウィリアム・H・ハーンドンとの法律実務を始めた。リンカーンは、スプリングフィールドで法律実務に戻り、「プレーリーの弁護士の前に来るあらゆる種類の案件」を取り扱った。16年の間に年2回、1回あたり10週間、州の中央にある郡庁所在地で郡裁判所が開かれているときに現れた。国が西方に拡張していく中で、多くの運輸関係訴訟を取り扱った。特に多くの新しい鉄道橋の下を通る川のはしけの運行から持ち上がる紛争があった。リンカーンは川船に乗った経験があり、当初は川船の側に付いていたが、最終的には誰でも彼を雇う者の仕事をした。その評判は上がり、橋に衝突した後に沈んだ運河用船の訴訟では合衆国最高裁判所の法廷にも立った。1849年には喫水の浅い水域で船を動かすために浮上装置の特許を取得した。このアイディアは商業化されなかったが、リンカーンは特許権を得た唯一の大統領となった。1851年にに代わって、その株主ジェームズ・A・バレットを訴えた。バレットはオールトン・アンド・サンガモン鉄道が計画した路線を変更したという理由で株を購入するときに誓約した企業に対する差引勘定の支払いを拒絶した。リンカーンは、法律問題として公益のためであれば企業は契約書に拘束されないと主張した。新しく提案されたオールトン・アンド・サンガモン鉄道の路線は以前の路線に比べ利便性に勝り、変更のための費用もそれほどかからなかった。従ってオールトン・アンド・サンガモン鉄道には逆に支払いの遅延でバレットを訴える権利があった。リンカーンはこの訴訟に勝利し、イリノイ州最高裁判所によるこの判例はアメリカ国内の他の法廷で引用されることとなった。リンカーンはイリノイ州最高裁判所に175の訴訟で出廷し、そのうち51件は単に助言だったが、31件で有利な判決が出た。ことに西部方面へのインディアン領土への鉄道拡張に関しては、インディアンの土地権利の抹消処理を多数手がけた。リンカーンが「無効(neutralized)」としたインディアン部族の土地に対する書類は現在も数多く残されている。1853年から1860年、リンカーンのもう一つの重要な顧客はイリノイ・セントラル鉄道だった。もう一件の鉄道弁護士としての成果は州がイリノイ・セントラル鉄道に許可した免税に関する訴訟だった。マクリーン郡は、州にはそのような免除を与える権限がないと主張し、鉄道会社への課税の権利を主張した。1856年1月にイリノイ州最高裁判所は、リンカーンの申し立てを受理して免税が妥当であるとする見解を示した。弁護士としての彼は非常に精力的で、寝る間を惜しんで働いていたことから周囲から「正直者エイブ」「働き者エイブ」と親しまれていた。しかし実は、妻がヒステリー持ちでしばしばリンカーンに当り散らすため、家にあまりいたくないからオフィスで働いていたといわれる。リンカーンが扱った最も有名な刑事事件は、1858年にジェイムズ・プレストン・メッツカーの殺人容疑で起訴されたを弁護したときだった。この事件では目撃者の信用性に異議申し立てするために司法判断によって成立した事実を使うという方法で有名になった。目撃者が深夜に犯罪を目撃したという証言に反論した後、農民暦を取り出して、月が低い角度にあったことを示し、視認性が非常に落ちていたはずだと語った。この証拠に基づき、アームストロングは無罪となった。リンカーンは法廷では滅多に声を荒げることはなかった。しかし1859年の事件では、他人を刺殺した容疑で告発されたいとこのピーチー・ハリソンの弁護に当たり、被告の利益につながる証拠を判決から除外していると、激怒しながら抗議した。その判事は民主党員だったが、予想された法廷侮辱罪でリンカーンを責めることなく、裁定を覆して証拠を認め、ハリソンを無罪とした。リンカーンはハーンドンとの共同事業を始める前には、隣接する地域社会の法廷に立つことはあまりなかった。1854年まで法廷の最も活動的な常連の一人になるに連れてこれが変化し、アメリカ合衆国下院議員になって2年間中断されただけだった。第8巡回裁判所は11,000平方マイル (28,000 km) の範囲をカバーしていた。毎年春と秋に、1回あたり9ないし10週間、リンカーンはこの地域を回った。10週間の巡回で150ドルほどの所得になった。巡回中の弁護士や判事は安いホテルで生活し、2人の弁護士が1つのベッドを分け合い、6人から8人の者が同じ部屋になった。この巡回裁判で、リンカーンの誠実さと公平さという評判が、顧客や援助を求める地方弁護士の双方からの高い需要につながっていった。リンカーンが終生続くニックネームであるオネスト・エイブ (正直者エイブ)をもらったのもこの巡回裁判のときだった。彼の受けた顧客、同時期に巡回裁判を回った者達、および彼が行った町の弁護士たちは、リンカーンの最も忠実な支持者になった。この支持者の1人がデイビッド・デイビスであり、同じくホイッグ党員で、リンカーン同様国家主義経済計画を推進し、実際の廃止論者にはならなかったが、奴隷制に反対した。デイビスは判事として1848年の巡回裁判に参加し、折に触れてリンカーンに代理を務めるよう指名することがあった。この二人は11年間巡回裁判に同行し、リンカーンはデイビスを1862年にアメリカ合衆国最高裁判所判事に指名した。その他親密な仲間としてイリノイ州ダンビルの弁護士だったウォード・ヒル・ラモンがいた。ラモンはリンカーンが実際に正規の労働協約を結んだ唯一の地方弁護士であり、1861年にはリンカーンと共にワシントンに行った。1850年代まで奴隷制はアメリカ合衆国南部で依然として合法だったが、イリノイ州のような北部州では一般に違法とされてきていた。リンカーンは奴隷制を認めず、西部の新しい領土で奴隷制が拡大することに反対だった。1854年に成立した奴隷制を擁護するカンザス・ネブラスカ法はリンカーンをワシントンへ引き戻すきっかけとなった。この法は奴隷制を制限する1820年のミズーリ妥協を無効にしていた。イリノイ州選出の古参アメリカ合衆国上院議員スティーブン・ダグラスはこのカンザス・ネブラスカ法に「国民主権」という言葉を入れた。リンカーンが反対したダグラスによる法では、新しいアメリカ合衆国領土に入植した者達が奴隷制を認めるかどうかを決める権利があり、連邦議会がそのような決定を規制できないとしているものだった。歴史家のフォーナーは、奴隷制が罪であるとみなす奴隷制廃止運動家や奴隷制に反対するアメリカ合衆国北東部の急進的共和党員と、奴隷制が白人を傷つけ発展を阻害するので悪であると考えた保守的共和党員とを対照させている。フォーナーは、リンカーンがその中間的中庸な立場であり、奴隷制が建国の父達の唱えた共和制の原則、特にアメリカ独立宣言に盛られたあらゆる人々の平等と民主的自主政府の原則に違背しているので、奴隷制に反対していたと主張している。しかしリンカーンは、「現在、南部に存在する奴隷制度については間接的にも直接的にも干渉する意思はない」と述べており、時間をかけてこの問題を解決しようとしていた。1858年には、「これまで私は黒人が投票権をもったり、陪審員になったりすることに賛成したことは一度もない。彼らが代議士になったり白人と結婚できるようにすることも反対だ。皆さんと同じように白人の優位性を疑ったことはない」と語っている。1854年10月16日のピオリアにおけるカンザス・ネブラスカ法に反対する演説で、リンカーンは奴隷制に対する反対意見を表明し、その後は大統領になるまでこれを繰り返すことになった。ケンタッキー訛りで大変力強く話したリンカーンは、カンザス・ネブラスカ法が奴隷制の拡大について国家としての「無関与を「宣言」しているが、(そこに隠れている)奴隷制の拡大について秘密の「真の」情熱を考えなければならない。私はそれを憎まざるを得ない。奴隷制自体の巨大な不公正の故に私はそれを憎む。それが我々の共和制の世界の規範としての影響力を奪うので私はそれを憎む。」と語った。この演説は当日集まった自由土地主義の弁論家達の中で彼への注目を集めさせることとなった。1854年遅く、リンカーンはイリノイ州選出アメリカ合衆国上院議員選挙でホイッグ党候補として出馬した。当時上院議員は州議会によって選出されていた。イリノイ州議会で行われた投票では、リンカーンが6回目の投票までリードしながらその支持がしぼみ始め、リンカーンはその後援者達にライマン・トランブルに投票するよう指示し、トランブルは対抗馬の民主党員ジョエル・アルドリッチ・マットソンを破った。カンザス・ネブラスカ法でホイッグ党は修復できないくらい分裂した。リンカーンは「私はホイッグ党員だと考えるが、今はホイッグ党がないと言う者がいる。奴隷制の「拡張」に反対する以上のことはしていないとしても私は奴隷制廃止論者である。」と記した。古いホイッグ党の生き残りに、幻滅した自由土地党、自由党および民主党のメンバーを寄せ集め、リンカーンは新しい共和党の形を作り出す中心人物となった。1856年の共和党大会では副大統領の党候補を決める投票でリンカーンは第2位になった。1857年3月、アメリカ合衆国最高裁判所は「ドレッド・スコット対サンフォード事件」に判決を下した。主席判事のロジャー・トーニーは、黒人はアメリカ市民ではないと判断し、それゆえに憲法の規定する権利(内国民待遇)を受けられないとした。リンカーンはこの判決を非難し、それは奴隷権力を支持するための民主党の陰謀による産物であると主張した。リンカーンは「アメリカ独立宣言の起草者は『全ての者は肌の色、体の大きさ、知能、道徳的発達、あるいは社会的能力等の点で同等であると言う』つもりはなかったが、彼らは『全ての者は平等に生れついており、一定の奪うべからざる権利、そのうちに生命、自由および幸福の追求を含む権利』について平等であると考えたはずである」と主張した。1857年から1858年、スティーブン・A・ダグラスはジェームズ・ブキャナン大統領と袂を分かち、民主党の主導権を争うことになった。ダグラスが新しく州となるカンザス準州が奴隷州として連邦に加入することになるに対して反対する立場を採ったので、東部共和党員の中には1858年の上院議員選挙でダグラスの再選に賛成する者もいた。1858年に共和党州大会でリンカーンは上院議員候補に指名された後、聖書のマルコの福音書から引いた「」演説を行った。「分かれたる家は立つこと能わず(マルコ伝3の25)。半ば奴隷、半ば自由の状態でこの国家が永く続くことはできないと私は信じます。私は連邦が瓦解するのを期待しません - 家が倒れることを期待するものではありません。私の期待するところは、この連邦が分かれ争うことをやめることです。それは全体として一方のものとなるか、あるいは他方のものとなるか、いずれかになるでしょう。」この演説は奴隷制論議で引き起こされる連邦の解体の危険性について刺激的なイメージを作り出し、北部中の共和党の共感を集めた。高木八尺は「この演説は、後年のゲティスバーグの演説と並んで、リンカーンの生涯の二大演説と称される」としているが、「その単刀直入の言明は、政党ととすれば多くの友を失い、敵を作る惧れのあるものであった。決して賢明とは言えない行動であった」とも評している。次の段階はイリノイ州議会での選挙のために州全体の選挙運動となり、上院議員にリンカーンかダグラスかを決めることとなった。1858年にスティーブン・A・ダグラスへの対立候補として上院議員選挙に出馬するが、選挙活動中のダグラスとの7回に及んだ、いわゆる「リンカーン・ダグラス論争」はアメリカ史の中でも最も有名な討論となった。この2人は体型的にも政治的にもはっきりと対照的な立場を採った。リンカーンは「奴隷権力」が共和制の価値に脅威を与えていると警告し、ダグラスが全ての人は生まれながらに平等であるとした建国の父達の価値を貶めていると非難すると、ダグラスは地方の住人は奴隷制を認めるか否かを選ぶ権利があるというそのを強調し、リンカーンは奴隷制度廃止論者に加わっていると非難した。この討論は賞金を掛けた戦いの雰囲気があり、多数の聴衆を引きつけた。リンカーンは、ダグラスの国民主権理論が国の道徳観に対して脅威になると述べ、ダグラスが自由州に奴隷制を広げる陰謀に加担しているとした。ダグラスは、リンカーンがアメリカ合衆国最高裁判所の権威と「ドレッド・スコット」判決を否定していると述べた。当時多くの東部共和党員はブキャナン政権への反対勢力の全国的指導者としてダグラスを支援した。イリノイ州議会議員の選挙で共和党は多くの票を獲得したが、議席では民主党が上回った。上院議員選挙自体はダグラスが接戦を制したが、選挙活動におけるリンカーンの雄弁さと歯切れの良さは彼を全国的な政治家に押し上げた。1859年5月、リンカーンはドイツ語新聞の「イリノイ・シュターツ・アンツァイガー」を買収した。この新聞は一貫してリンカーンを支持し、州内13万人のドイツ系アメリカ人の大半は民主党に投票したが、ドイツ語新聞が動員できる共和党の支持票もあった。1860年2月27日、ニューヨークの党指導者がリンカーンを招待して、強力な党員達の前でを行わせた。リンカーンは、建国の父たちがダグラスの主張するような「国民主権」という考え方をほとんど用いず、奴隷制を制限することを繰り返し求めたと論じた。共和党の道徳の基礎に従えば奴隷制に反対することを求めており、「正しいことと間違ったことの間の中間を模索すること」、すなわち部分的に奴隷制を容認することを拒否すると主張した。リンカーンの洗練されていない外貌にもかかわらず(聴衆の多くは彼が不恰好で醜いとすら考えた)、リンカーンは自身を党の前線に立たせる知的指導者であることを示し、共和党の大統領候補である印象を与えた。ジャーナリストのノア・ブルックスは「ニューヨークの聴衆に対して彼ほど初登場の印象を与えた者はいなかった」と記していた。歴史家のデイビッド・ドナルドは、この演説を「第2のライバル(サーモン・チェイス)の支持者が用意したイベントで、第1のライバル(ウィリアム・スワード)の出身州に予想もされていなかった(大統領)候補者が現れ、その演説中も2人のライバルの名前にすら触れることなく、最高の政治的動きを作り上げた」と表現した。リンカーンはその大統領になる意思について尋ねられたときに、「その味は少し私の口の中にある(言外にそのつもりだと言っている)」と返した。1860年5月9日と10日、イリノイ州ディケーターで開催された共和党イリノイ州大会で、リンカーンは州推薦大統領候補に初めて指名された。リンカーンの応援者達はデイビッド・デイビス、ノーマン・ジャッド、レナード・スウェットおよびジェシー・デュボイスが率いる選挙運動チームを組織した。リンカーンが父と共に過ごしたフロンティア時代の伝説を脚色し、支持者達は「レールの候補者」という愛称を付けた。5月18日、シカゴで開催された共和党全国大会では、大統領候補に名乗りをあげた共和党政治家の中で対南部強硬派のウィリアム・スワードやサーモン・チェイスが有力だったが、リンカーンの友人が多数派工作を行い、リンカーンが、無難な妥協候補として3回目の投票で共和党大統領候補に選ばれた。組み合わせのバランスを取るために、北部メイン州出身のハンニバル・ハムリンが副大統領候補に指名された。リンカーンの成功は奴隷制問題で穏健派であるという評判があり、また内国改良や保護関税というホイッグ党時代からの政策を強く支持したからだった。3回目の投票の時は、ペンシルベニア州の代議員団がリンカーンに鞍替えしてトップに押し上げた。ペンシルベニアの産する鉄に関する利益が保護関税によって保証されるからだった。リンカーンの選挙参謀はこの代議員団やその他の州の代議員団に巧みに取り入り、一方でリンカーンが「私を縛るような約束はしないこと」と強く指示していたことにも従った。当時の国政は「ドレッド・スコット」の判決が出たことや、ジェームズ・ブキャナンが大統領職にあったことで南部の奴隷権力が握り、北部の共和党は苦しい状況にあったので党員の大半は候補者リンカーンに同意した。1850年代を通じてリンカーンは内乱の可能性を心配し、支持者達は彼が大統領に選ばれたとしても南部の脱退を誘発することはないと考えていた。一方ダグラスは北部民主党の候補者に指名され、ハーシェル・ベスパシアン・ジョンソンが副大統領候補に指名された。1860年民主党全国大会ではダグラスの国民主権という考え方に同意できない奴隷州11州の代議員が大会会場から退出し、最終的にとしてブキャナン政権で副大統領を務めていたジョン・ブレッキンリッジを大統領候補に指名した。ダグラスなど他の候補者が独自の選挙運動を展開する中、リンカーンだけは選挙演説を行わなかった。その代わりに運動を密に監視し、共和党の熱心さに依存した。共和党は北部中で多数派工作を行い、大量の選挙ポスター、小冊子および新聞論説を制作するという下働きを行った。多数の党員演説者がおり、まず党の綱領に焦点を当て、続いてリンカーンの経歴を話し、特に少年時代の貧窮を強調した。その目的は普通の農家の少年がその努力によって国のトップまで上り詰めることができるという「自由労働者」のすばらしい力を示すことだった。共和党の制作した選挙宣伝用文書は対抗馬全ての力を殺いだ。「シカゴ・トリビューン」紙の記者はリンカーンの生涯を詳述する小冊子を発行し、10万部から20万部を販売した。リンカーンは選挙戦の最中に11歳の少女グレース・ベデルに「ひげを生やしたほうが良い」とアドバイスされ、それに従ってあごひげを生やした。1860年11月6日、リンカーンは民主党候補のスティーブン・ダグラス、南部民主党候補のジョン・ブレッキンリッジおよび新党の立憲連合党候補のジョン・ベルを破って第16代アメリカ合衆国大統領となった。共和党からの初めての大統領だった。リンカーンは支持の強かった北部と西部の州を獲得したことで勝利しており、15州あった南部の奴隷州のうち10州では一票も得られず、南部の996郡の中では2郡を制しただけだった。一般選挙での得票数を見ると、リンカーン1,866,452票、ダグラス1,376,957票、ブレッキンリッジ849,781票、ベル588,789票だった。投票率は82.2%であり、リンカーンは北部州の他にカリフォルニア州とオレゴン州を抑え、ダグラスはミズーリ州を抑え、ニュージャージー州の一部をリンカーンと分けた。ベルはバージニア州、テネシー州およびケンタッキー州を抑え、ブレッキンリッジが南部の残り諸州を抑えた。選挙人投票の結果は、リンカーンに180票、他の3人は合わせて123票だった。ニューヨーク州、ニュージャージー州およびロードアイランド州では、リンカーンに対抗する党のすべてがあらかじめ組んで同じ候補者名簿を支持するように連合するというヒュージョン・チケットを使ったが、リンカーンの反対票が全ての州で組まれたとしても、選挙人投票ではリンカーンが多数を獲得できる結果になった。リンカーンの当選が決まると、分離主義者達は彼が翌年3月に大統領に就任する前に連邦から脱退する意思を明らかにした。妥協の試みはあった。1860年12月18日のは、奴隷州と自由州を分ける1820年のミズーリ妥協で決まったを西に延伸するものであり、共和党の自由土地綱領には反するものだった。リンカーンは「私は同意するまえに死を味わうだろう...我々が憲法で規定される権利のあるこの政府を売り渡すような特典を与える譲歩や妥協に対しては」といってこのアイディアを拒否した。しかしリンカーンは憲法に対するには支持を与えた。これは議会を通過しており、すでに存在する州の奴隷制を保護するものだった。戦争が始まる数週間前、脱退を避けるための手段として全ての州知事にコーウィン修正条項の批准を求める手紙を書くことまでした。12月20日、サウスカロライナ州が脱退条例を採択してその先鞭を切った。1861年2月1日までに、フロリダ州、ミシシッピ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州およびテキサス州が続いた。これらのうち6州は1つの憲法を採択し、アメリカ連合国という主権国家であることを宣言した。アッパー・サウスと境界州(デラウェア州、メリーランド州、バージニア州、ノースカロライナ州、テネシー州、ケンタッキー州、ミズーリ州およびアーカンソー州)は分離主義者の言い分を聞いたが、当初は追従を拒否した。ブキャナン大統領と次期大統領のリンカーンはアメリカ連合国の認知を拒否し、脱退を違法だと宣言した。1861年2月9日、アメリカ連合国はジェファーソン・デイヴィスを暫定大統領に選出した。リンカーンは2月11日にスプリングフィールドを発って、ワシントンに向かうにあたり、送りに来た地元の人たちに別れの挨拶を述べた。その冒頭で、「皆さん、私の今の立場におかれたことのない方にはこのお別れに際しての、私の悲しみは解っていただけないでしょう」と述べ、「今私はこの土地を去ります。いつ帰れるか、果たして再び帰れるか、わかりません」と悲壮な思いをこめて語った。リンカーンは列車で就任式に向かう途中、北部中の群衆や議員に演説した。ボルティモアでは暗殺の危険性がある()とのことだったので、立ち寄りを避け、夜陰に乗じてボルティモアを過ぎた。これはリンカーンの護衛を指揮していたアラン・ピンカートンが探り出したことだった。2月23日、ワシントンD.C.には変装して入った。そこはかなりの数の軍隊による厳戒下に置かれていた。1861年3月4日の就任式では、ターナーがリンカーンの護衛を行った。リンカーンは下記のような南部の市民に向けたを行い、再度南部州における奴隷制を廃止する意志も意向もないと強調した。南部州が連邦からは脱退できないと述べた後、「この国もその制度も、この国に居住する人民のものであります。国民が現在の政府に飽きてきた場合には、いつでも憲法上の権利を行使して、政府を改めることもできますし、あるいは革命権を行使して、政府を解体し打倒することができるわけであります。」と語った。さらに南部の人々に対する次のようなアピールで演説を締めくくった。1861年和平協議も失敗し、立法による妥協は難しくなったことを示していた。1861年3月までに、如何なる条件でも反乱(脱退州)の指導者達は連邦に戻ろうと提案することが無くなった。一方リンカーンと共和党指導者のほとんど全ては、連邦を解体することを許容できないという見解で一致していた。サウスカロライナ州サムター要塞の司令官アンダーソン少佐はワシントンに食料を要求する伝言を送り、リンカーンがこの要求を満たすために命令を出すことは分離派によって戦争行為と見なされた。1861年4月12日、南軍はサムター要塞の連邦軍守備隊を攻撃して降伏させ、戦端が開かれた。歴史家のアラン・ネビンスは就任したリンカーンが連邦を守ることができると考えたことに計算違いがあったと主張し、当時文民のウィリアム・シャーマンは就任式のあった週にホワイトハウスのリンカーンを訪れ、リンカーンが「この国は火山の上に眠っており」南部は戦争の準備をしていることを理解できていないように見えたことに「大いに失望した。」と記していた。歴史家のドナルドは「就任からサムター要塞砲撃までの間に衝突を回避しようと繰り返し努力したことは、かれが同胞の血を流させる最初の者にならないと誓ったことに固執していたことを証明している。この難しい状態を解決する唯一の方法は南軍が最初の砲弾を放つことだった。かれらはまさにそれをやった。」と結論づけた。4月15日、リンカーンはサムター要塞を取り返し、ワシントンD.C.を守り、「連邦を守る」ために、各州に総計75,000名の軍隊を立ち上げるよう呼びかけた。彼の見解では、連邦は脱退した州の行動があったにもかかわらず、無傷で存在していた。この呼びかけで各州にはどちらに付くべきかを判断させることになった。バージニア州は脱退を宣言し、その報償として北軍との前線に近く脆弱な位置にあるリッチモンドがアメリカ連合国の首都に選ばれた。ノースカロライナ州、テネシー州およびアーカンソー州もその後2か月の間に脱退を決めた。ミズーリ州やメリーランド州でも脱退の機運が強かったが、州全体の意志にはならなかった。ケンタッキー州は中立を守ろうとした。サムター要塞が陥落した後、リンカーンは直接戦争を指揮することと、反乱を鎮圧するために全体戦略を策定することの重要性を認識した。前例のない政治的および軍事的危機に直面し、前例のない権限を使う最高司令官として反応した。その戦争指揮権を拡大し、アメリカ連合国の外港全てを封鎖し、連邦議会による予算割り当て以前に資金を支出し、人身保護令状の発行を中止した後はアメリカ連合国の同調者と見なされる者を数多く逮捕させ収監させた。これらの行動については連邦議会と北部大衆の支持を得ていた。さらに境界にある奴隷州の強力な北軍同調者を補強し、この戦争が国際紛争とならないようにしておくために奮闘する必要性があった。リンカーンの呼びかけに応えて軍隊が南のワシントンに向かった。4月19日、ボルティモアの鉄道分岐点を占領していた分離派暴徒が首都に向かう軍隊を攻撃した()。ボルティモア市長などメリーランド州の政治家が令状無しに逮捕され収監された。これはリンカーンが人身保護令状の発行を停止していたためだった。メリーランド州の分離派グループの指導者は最高裁長官のロジャー・トーニーに、リンカーンが審問無しにメリーマンを拘束しようとしているのは違法だと言って、人身保護令状の発行を請願した。トーニーは令状を発行することでメリーマンの解放を命じたが、リンカーンはそれを無視した。リンカーンにとって戦争の遂行が他の何よりも優先されるものであり、彼の時間と注意の多くを戦争の遂行に向けた。初めから戦争を成功に導くためには二大政党双方の支持が不可欠であり、北軍の指揮官に指名する者を選ぶときなどは、共和党員を選ぼうと民主党員を選ぼうと、いかなる妥協も議会反対側の党派を疎遠な関係にしてしまうことは明らかだった。1861年6月3日にスティーブン・ダグラスが腸チフスで急死すると、北部民主党に指導者が不在となり、カッパーヘッドなど北部の戦争反対派が民主党内の主導権を握り、リンカーンが奴隷問題で妥協を拒んでいることを批判した。リンカーンは戦争の期間を通じて北部民主党の(アメリカマムシ)と呼ばれた反戦派からきつい、また悪罵の攻撃を受けた。リンカーンをヤンキーの脅威そのものと見ていた南部の者は言わずもがなだった。いっぽう急進派共和党は奴隷制廃止の動きが鈍いと批判した。1861年8月6日、南軍の戦争遂行を支援するために使われる奴隷を没収し解放する司法手続きを認める没収法に署名した。この法は実際にはほとんど効力を持たなかったが、南部の奴隷制廃止に対しては政治的支援の信号になった。その8月下旬、1856年の大統領選挙で共和党候補にもなったジョン・C・フレモント将軍が、リンカーンに相談無くミズーリ州で戒厳令を発した。その内容は、武器を持っていると分かった市民は軍法会議にかけられ銃殺される、反乱軍を助けている個人の奴隷は解放される、というものだった。フレモントはすでに不正と汚職の告発を受け西部方面軍の指揮を怠っているという嫌疑がかけられていた。リンカーンはフレモントの宣言を取り消させた。フレモントの奴隷解放は政治的なものであり、軍事的に不要で法にかなっていないと考えた。北軍のメリーランド州、ケンタッキー州およびミズーリ州からの徴兵数は4万名以上増加した。1861年遅くのトレント号事件ではイギリスとの戦争のおそれがあった。アメリカ海軍が公海でイギリスの商船"トレント号"を停止させアメリカ連合国の使節2人を捕獲した。イギリスは激しく抗議したがアメリカ合衆国民は喝采を送った。リンカーンはその2人を釈放することで問題を解決し、イギリスとの戦争は回避させた。リンカーンの外交政策は、経験がなかったために当初人任せだった。外交官の任命や外交政策に関することは国務長官のスワードに任せた。しかし、"トレント号"事件に対するスワードの初期反応はあまりに喧嘩腰だったので、リンカーンは上院外交問題委員長でイギリスとの外交は専門家だったチャールズ・サムナーに処理を任せた。リンカーンは軍事専門用語を学ぶために、ヘンリー・ハレックの著書「軍事科学の基礎」を議会図書館から借りて研究した。ワシントンD.C.の陸軍省に入る電報による報告は労を惜しまず目を通した。軍事行動の全ての面に目を光らせており、知事達と相談し、過去の成功体験(および出身州と支持政党)を元に将軍達を選定した。1862年1月、陸軍省の非効率さと不当利得行為について多くの苦情が出ると、サイモン・キャメロンに代えてエドウィン・スタントンを陸軍長官に据えた。スタントンは、リンカーンの指導下では反奴隷制共和党員に転じた多くの保守派民主党員の一人だった(1860年大統領選挙ではブレッキンリッジを支持した)。戦略に関しては、2つの優先事項を求めた。ワシントンの守りを固めることと、迅速で決定的な勝利という北部の要求を満足させるために攻撃的な姿勢を貫くことだった。北部の主要新聞編集者は90日以内の勝利を予測した。リンカーンは週2回閣僚との午後のミーティングを開くこととした。妻のメアリーはリンカーンがあまりに懸命に働くことを心配していたので、馬車に乗ることを強制することがあった。リンカーンは参謀総長でヨーロッパの軍事学者アントワーヌ=アンリ・ジョミニの弟子であるヘンリー・ハレックから、ミシシッピ川のような戦略的地点を支配することの重要さを学んだ。またミシシッピ州ビックスバーグの重要さをよく知っており、単に領土を占領するよりも敵軍を倒すことの必要性を理解していた。北軍が第一次ブルランの戦いで敗北し、1861年古参のウィンフィールド・スコット将軍が引退した後、リンカーンは全北軍の総司令官にジョージ・マクレランを指名した。マクレランはウェストポイントの陸軍士官学校卒業生であり、このとき35歳と若く、鉄道会社の役員をしていて、ペンシルベニア州の民主党員だった。マクレランは半島方面作戦の作戦を立て実行するまでに数か月を要したが、それはリンカーンの望んだ姿ではなかった。この方面作戦の目標はアメリカ連合国の首都リッチモンドを占領することであり、そのために船でポトマック軍をバージニア半島に移動させ、陸路リッチモンドに迫る作戦だった。マクレランの動きが常に遅かったことでリンカーンと連邦議会の憤懣が募った。この作戦ではワシントンを守る軍隊の必要性はなかったが、リンカーンはマクレランの配下の幾らかの部隊が首都を守ることに固執していた。マクレランは常に南軍の勢力を過大評価しており、最終的に半島方面作戦に失敗したが、その責をリンカーンの指示にあると非難した。1862年3月、リンカーンはマクレランを更迭し、ヘンリー・ハレックを総司令官に据えた。これはマクレランがリンカーンに戦争遂行に注意を促す押し付けの政治的助言を送った、いわゆる「ハリソンズランディング・レター」()の後のことだった。マクレランの手紙は、リンカーンに圧力を掛けて新しいバージニア軍の司令官に共和党員のジョン・ポープを指名させていた急進派共和党を激怒させた。ポープはリンカーンの戦略的な希望に従って、北からリッチモンドに向けて進軍することで首都を攻撃から守る形を採った。しかしこのときポトマック軍を指揮していたマクレランに要請した援軍が到着せず、ポープは1862年夏の第二次ブルランの戦いで完敗し、ポトマック軍は2度目のワシントン守備に就くしかなくなった。1862年には海上にも戦争が拡大した。もとはUSS"メリマック"と呼ばれていた南軍の装甲艦CSS"バージニア"がノーフォーク沖で北軍の木造艦船3隻に損傷を与えるか沈めるかし、その後、北軍の装甲艦USS"モニター"と交戦して損傷を受けた。このハンプトン・ローズ海戦について、リンカーンは報告書を精査し、海軍士官を尋問した。リンカーンはマクレランがポープを支援しなかったことについて不満だったが、他に手段が無く、マクレランをワシントン周辺の全軍司令官に再登用した。このことはスワード以外の閣僚全てを当惑させた。マクレランが司令官に戻ってから2日後、南軍のロバート・E・リー将軍は、ポトマック川を越えてメリーランド州に入り(ハーパーズ・フェリーの戦い)、9月17日のアンティー

出典:wikipedia

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