イワノフカ事件(イワノフカじけん)は、1919年3月22日、シベリア出兵中の日本軍が、抗日パルチザンに対する掃討作戦の過程でアムール州ブラゴベシチェンスク郊外のイワノフカ村において多数の民間人を殺害した事件。白衛軍は都市部こそ掌握したものの、農村はソビエト寄りで武装解除の要求にも応じなかった。白衛軍に従わないイワノフカ村に対し、右派エスエル党に所属する反革命指導者のアタマン・ガーモフは日本軍に応援を頼んだ。 もともと戦争の意味が曖昧で戦意も低かった上に、軽視していた敵軍による戦友の戦死が相次いでいた日本軍は厳寒の中で疲労困憊して神経過敏に陥り、「暴徒」と「良民」も区別せずに「村落焼棄」の方針が打ち出された。1919年2月中旬、歩兵第十二旅団長山田四郎少将は「師団長ノ指令ニ基キ」次のような通告を発している。アムール州で日本軍により焼き討ちを蒙った村落は他にもあるが、もっとも大規模で残虐な被害を受けたのがイワノフカ村であった。その事があって以来、村民の大部分は極度に日本軍を恨み、パルチザン軍13個中隊を編成する結果となった。一方、山田旅団長はと威嚇を繰り返した。共同通信の報道によれば、日本軍は制圧の過程で女性や子供ら、1歳半の乳飲み子から96歳の老人まで含む、257人を銃などで殺害、36人を小屋に閉じ込め焼き殺したという。1994年、シベリア抑留者の慰霊碑を建てようと現地を訪れた全国抑留者補償協議会の会長は、村長にこう問われたという。「あなたはこの村で日本が何をしたか知らないのですか」。翌年、日露共同の慰霊碑ができたそれ以来、ロシアのイワノフカ村では毎年、犠牲者の追悼式典が行われている。。一方、日本では多くの人、特に若い人はこの事件の存在さえ知らないと現地紙は報道している
出典:wikipedia
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