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松永浩美

松永 浩美(まつなが ひろみ、1960年9月27日 - )は、福岡県北九州市出身の元プロ野球選手(内野手)。「史上最高のスイッチヒッター」と称される。野球を始める前はサッカー少年であり、ポジションはFWだった。当時の夢は「ワールドカップ出場」だったと週刊ベースボールにて伝えられたことがある。福岡県立小倉工業高等学校では外野手兼控え投手であった。1978年に高校を中退し、阪急ブレーブスにドラフト外入団するが、野球協約に触れたため選手登録ができず、練習生兼用具係を経てに支配下選手となった。持ち味の俊足を生かしてスイッチヒッターに挑戦。に一軍デビューし、打数は少ないものの打率.326を記録。以降、阪急・オリックスにわたってチームの主軸打者として活躍。には38盗塁で盗塁王を獲得。、高沢秀昭との首位打者争いで敬遠作戦に遭い、11打席連続四球、10打席連続敬遠四球、1試合4敬遠四球(ダブルヘッダーで2試合連続)の日本記録となる。松永は最終打席で、到底届かない敬遠のボールに向かってバットを投げて当てにいくことを3度試みたが、いずれもボールには当たらず三振した。にも.0004差で首位打者を逃した。1試合左右両打席本塁打を日本人選手では初めて記録した(1982年5月15日、対日本ハムファイターズ戦)。1試合左右両打席本塁打は通算6回記録し、現役当時は単独1位記録であった(引退後の2007年、日本ハムのフェルナンド・セギノールが通算7回目の左右両打席本塁打を記録し、松永の記録を更新した)。、V9野球論を展開する土井正三監督との確執もあり、野田浩司とのトレードで阪神タイガースに移籍した。しかし、故障でわずか80試合の出場にとどまる。8月後半にようやく復帰し、3試合連続先頭打者本塁打の世界記録を樹立したものの、すでにペナントレースは逸していた。阪神在籍時に一旦は背番号2をつけていたが、1991年~1992年に阪神に在籍していて「スイッチヒッターの先駆け」とも言われた高橋慶彦がケガをして引退したため、縁起が悪いという理由で自分を鬼(02)のように強くと縁起をかつぎ、背番号を02番に変更した。0番、00番以外に0で始まる背番号で登録されたのは日本プロ野球の公式戦に出場した選手で唯一(ただし、西武のオレステス・デストラーデが、ユニフォームを忘れた際、チームスタッフの背番号05のユニフォームを借りて試合に出たことはある)。なお、現在では規定の変更により支配下登録選手は00・0~99番以外はつけられなくなった。オフに日本球界初のFA権を行使。マスコミから追われる中、「甲子園は幼稚園の砂場」という暴言を吐いたと報じられ、物議を醸した。より、この第1号FA宣言で地元・福岡に本拠地を置く福岡ダイエーホークスに移籍し、チームリーダーになった。ダイエーでは移籍1年目に打率.314と結果を残し、翌年にもオールスターゲームに出場したが、その後は満足のいく成績を挙げることができず、に自由契約を申し入れ、球団側も戦力外と判断したことから容認された。プロでは打率3割を通算7回、サイクル安打を通算2回記録した。1996年4月27日、対西武3回戦(西武球場)で新谷博投手から200号ホームランを放つ(プロ野球史上66人目)。同時に、全打順での本塁打も達成している(史上2人目)。ダイエー退団後、アメリカ・メジャーリーグへの挑戦を表明。オークランド・アスレチックスの入団テストを受け、プレシーズンゲームに出場するが、27打席ノーヒットなどの不振で引退することになった。2006年6月、埼玉県三郷市に「松永浩美ベースボールアカデミー」を設立。阪神時代の後輩の鮎川義文と元ヤクルト投手の矢野和哉と共に小・中学生を対象としてプロ野球選手の育成に乗り出した。別冊宝島のインタビューで本人は「プロの選手は完成されているから、興味がない。プロとしてのプライドもあるだろうし。それよりも無限の可能性のある少年の方がいい」などと述べていた(プロ野球球界からのコーチ打診があったかどうか自体も定かではない)が、後に独立リーグのコーチとなる。12月7日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載された。よりBCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサスの野手総合特別コーチに就任する。2月、任期満了に伴い退団。松永は、阪神タイガースへのトレードが決定した際の記者会見では、「トレードを意気に感じている」、「中村勝広監督を男にしてみせる。俺は義理堅い男だよ」などと熱い口調で決意を述べ、その姿に、強力な3番バッターを待ち望む阪神ファンの期待も高まる一方であった。開幕前の過熱振りはまさに「松永フィーバー」とも言うべき盛り上がりを見せ、関連グッズの数量も他選手をはるかに超えるものだった。さらに、開幕戦は5打数5安打でその過熱振りは頂点に達した。しかし、開幕2戦目で早くも故障して期待を裏切ってしまい、シーズンオフにFA権を行使して福岡ダイエーホークスへ移籍してしまった。松永のFA宣言は日本球界初のものでもあり、全国的な注目を集める話題となった。FA宣言した後、11月後半に他球団に先立って阪神と残留交渉を行ったが、FA交渉にもかかわらず阪神球団側から600万円のダウン提示と「松永君、キミとは縁が無かったんだよ」と突き放す発言があり、その後ダイエーと交渉・移籍に至った。このFA宣言の直後の記者会見で、松永が阪神からのFA移籍について「単なる通過点に過ぎない」、「阪神とは縁が無かったということ」などと、阪神ファンを突き放す発言で答える姿や、また自宅前で報道陣に「阪神ファンへのメッセージはないのか」と問われ、これに反発した様子で「何もないね!」と答える姿が、フジテレビの『プロ野球ニュース』や、NHKなど各局のニュース映像で流された。これに対し、入団時の松永の言葉を真に受けて、次シーズンでの挽回を信じていた阪神ファン達は驚き、球団や関係各所にその真意を求める問い合わせが殺到することとなった。騒ぎが拡大したのを受けて松永は行方をくらまし、故郷の福岡に雲隠れをする。さらにこの「FA宣言第1号」による過熱報道の渦中に、松永が「甲子園は幼稚園の砂場」と発言したとの報道が流れた。そもそもFA制度が日本球界に導入されたのは、選手会において松永が提案したことが始まり。松永自身へのインタビューによると、そのきっかけは1988年のドラフト最大の目玉だった慶應義塾大学・志村亮の指名拒否騒動だったという。ドラフト外から入団し、練習生から這い上がった松永にとって、ドラフト指名を拒否する者の登場は衝撃的で「そこまでプロ野球に夢がなくなってしまったのか」という危機感から、当時の労働組合事務局長と相談の上、選手会総会にてFA制度導入を提案したという。同時に「出身地である福岡でプレーすることも頭にあった」とも語っている。現在、「甲子園は幼稚園の砂場」発言は一部マスコミによる捏造だったとされている。当時、阪神の野手で盗塁を得意とする選手はほとんどおらず、加えて貧打に泣いて投手陣の防御率も悪かった阪神サイドとしては、せめて相手球団の攻撃力を下げるために内野全体を柔らかくしてヒット性の当たりを弱くしたり、ダッシュが効かないようにしていた。前年まで二桁盗塁をコンスタントにキープしていた松永は、当時阪神の正遊撃手だった久慈照嘉と相談して「もっと一塁ベースからのランニングエリアを硬くしてほしい」とグラウンドキーパーに要望を出したら「要望で軟らかくしている」と言われたので、誰の要望なのか聞き返すと「平田さんの要望で軟らかくした」と言われ、「試合に出ない人の要望を聞いてどうするの。柔らかすぎて滑るんだよ」と言ったら、その柔らかさについてグラウンドキーパーが「幼稚園の砂場くらいか?」と質問し、松永は「いや、そんなには…」と答えた(その後甲子園は、赤星憲広の入団によって硬めの仕様となっている)。この一連のやりとりが松永のFA宣言当時、一部マスコミによって「松永が『甲子園の土は幼稚園の砂場』と発言した」と歪曲報道され、火に油を注ぐことになってしまった。これは、松永の「言いたいことは不満だとしても濁さずハッキリと言う」性格上、阪急在籍時代から記者などのマスコミと発言趣旨の行き違いによるトラブルが頻発し、徐々に一部マスコミの間で松永を問題児(扱いにくい・都合の悪い人物)、トラブルメーカーとするようになったために起きた騒動である。その結果、松永の様々な発言は大多数がネガティブな物に変換されてしまい、阪急時代からスポーツ新聞を賑わせていた。FA宣言当時、松永は滞在先のホテルで記者に質問を受けたとされているがこれは全くの誤報どころか虚報である。松永はFA宣言当初、阪神ファンを突き放す発言をしたために、友人から「阪神ファンを逆撫でするような事は言わない方がいい」とアドバイスを受け、夫人を実家に帰らせ、自身は匿名でホテルに宿泊した上で一ヶ月の間新聞記者には全く誰にも会わなかったと断言している。それにもかかわらず、当時の新聞には松永のコメントが連日のように掲載され、「俺は話さなかったのに、これはどういうことなんだ?」とマスコミに対して恐怖を覚えたという。

出典:wikipedia

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