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タジク語

タジク語またはタジク・ペルシア語は、主にタジキスタン共和国とウズベキスタンのタジク人が母語としている言語で、タジキスタン共和国の公用語。系統的にはインド・ヨーロッパ語族イラン語派に属し、アフガニスタンのダリー語、イランのペルシア語とともに、新ペルシア語を基盤とする言語である。話者はタジキスタンを中心に、ウズベキスタン、アフガニスタン、中国などに分布する。話者の総数は約1000万人。そのうちの400万人強が旧ソビエト連邦圏内に暮らす。タジキスタンに320万人、ウズベキスタンに約933,560人、アフガニスタンに580万人、キルギスタンに33,518人、カザフスタンに25,514人。中国国内には西の国境地帯に約26,000の話者がいる。タジク語は隣接して混住する民族の影響を大きく受けており、タジキスタンなどのCIS諸国のタジク語にはロシア語及びウズベク語などのテュルク諸語の語彙が多く含まれ、中国西部のタジク語は中華人民共和国の文教政策により公用語として学校で教えられる事がないために話し言葉としてのみ存在し、またアフガニスタンのダリー語(タジク語)は、イランのペルシア語と同様にアラビア語の語彙を多く含みつつ、現地で主流を占めるパシュトー語の語彙も多く含んでいる。また、書き言葉としてのペルシア語はどの地域でも通用するが、話し言葉による地方の方言の格差は、イントネーションと発音に大きな違いが見られる。元来、中央アジアに暮らしていたタジク(タージーク)と呼ばれるペルシア語を話すイラン系の人々が使用していた方言の一種であった。「タージーク」の語源については諸説あるが、10世紀以降テュルク系の諸政権が中央アジア・イランで台頭すると、「テュルク」に対して「ペルシア語を読み書きできる(ムスリム系の)人々」の意味で「タージーク」という単語が使われるようになる。当時は書き言葉そのものは近世ペルシア語であり、イラン、アフガニスタンなどのペルシア語文化を共有していた。7世紀のアラブ征服時代にはじまるウマイヤ朝、アッバース朝による中央アジア征服の結果、旧サーサーン朝系のペルシア人の後裔たちはアラブ諸部族の入植に伴って、ソグディアナなど中央アジアの各地へ入植した。アッバース朝カリフ・マアムーンの時代にマアムーンのクーデターに協力したサーサーン朝貴族の末裔とされるサーマーン家の人々は、カリフ政権からホラーサーン、中央アジアの各地の支配を委任され、ついには875年にアッバース朝第15代カリフ・ムウタミドからマー・ワラー・アンナフル全域の支配権を改めて与えられてサーマーン朝を開いた。彼らはアラビア語の語彙と文字を用いてサーサーン朝でのペルシア語であるパフラヴィー語(中世ペルシア語)とは違う独自の「現代的」なペルシア語を確立することに尽力した。特にブハーラーなどの宮廷では詩文や年代記などの創作によってこれら新たなペルシア語による最初の文芸復興がなされた。9世紀以降に現れるアラビア文字で書かれアラビア語の借用語を多く用いたペルシア語を、特に近世ペルシア語と称する。これ以降、中央アジアはテュルク・モンゴル系の諸政権の支配を受けたが、近世ペルシア語文芸はそれら諸政権の庇護下で隆盛し、近代に至るまで中央アジア(マー・ワラー・アンナフル)はホラーサーンやイラン中部、ファールス地方などと並ぶ、近世ペルシア語文芸の一中心地であり続けた。この近世ペルシア語の誕生地はまさに現在、タジク語などが話される中央アジアである。今日「ペルシア語」と言った場合イラン・イスラーム共和国で公用語とされる近世・現代ペルシア語を指すが、タジク語とは中央アジアにおける近世ペルシア語を母体とする言語である。1928年、ソビエト連邦政府によりラテン文字による表記が制定されたことで、イランなどのペルシア語とは別の独立した言語であると主張されるようになった。しかし現在でも言語学的には上記の通り本来は近世ペルシア語の中央アジア方言にあたる。ソビエト連邦ではその後、1939年以降、キリル文字を用いて表記されるようになった。アフガニスタンなどでは現在もタジク語の表記にアラビア文字が用いられている。ロシア語の影響により、タジキスタン国内のタジク語と、イランやアフガニスタンのタジク語とのあいだには差異が生まれている。※後舌広母音の発音記号は識者により [o] 、[ɒ] 、[ɔː] と異なった措定がされる。

出典:wikipedia

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