久野 収(くの おさむ、1910年6月10日 - 1999年2月9日)は、日本の哲学者・評論家。体系だった著作や、いわゆる「主著」と呼ばれるものがないものの、多くの評論や対談などを通じて、戦後日本の政治思想や社会思想に大きな影響を与えた。また、「戦後民主主義」の形成に寄与した人物の一人である。久野を理解するキーワードは「市民」であると言われている。大阪府堺市生まれ。奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)、第五高等学校を経て、1934年京都帝国大学文学部哲学科卒業。京都帝国大学在学中の1933年、学生の立場で「滝川事件」にかかわる。大学卒業後、中井正一らと共に1935年に雑誌『世界文化』、1936年から隔週刊新聞『土曜日』と、マルクス主義とは一線を引いた、軍国主義反対のメディアを刊行。久野は一時期、中井正一宅の居候をしていて、先輩の中井を支えた。だが、1937年に治安維持法違反とされ逮捕された(1939年に釈放)。戦後は、思想の科学研究会の主要メンバーとなり、60年安保反対闘争、ベ平連などの思想的指導者として活動。学習院大学専任講師を長らく務め、その後、教授になる。1962年には、有限会社「思想の科学社」の初代社長に就任。1993年には『週刊金曜日』の創刊にも関わり、死去するまで編集委員を務めた。大阪府立中央図書館には久野の蔵書約2000冊が遺贈され、2005年2月には「久野収図書収蔵記念展」が催された。林房雄から山田宗睦が1965年に刊行した『危険な思想家』に「ここには彼の血がほとばしっている」という「外科医的讃辞を書いている」推薦文を寄せたことを批判されており、竹内洋によると吉本隆明から山田や久野らは自分たちのネットワークを壊し孤立させようとしている学者を告発しているにすぎないと批判されている。
出典:wikipedia
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