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琴欧洲勝紀

琴欧洲 勝紀(ことおうしゅう かつのり、1983年2月19日 - )は、旧・ブルガリア人民共和国(現在のブルガリア共和国)ヴェリコ・タルノヴォ州ヴェリコ・タルノヴォ市出身で佐渡ヶ嶽部屋所属の元大相撲力士。現在は第15代年寄:鳴戸勝紀。本名は安藤(あんどう)カロヤン。ブルガリア国籍時代の旧名はカロヤン・ステファノフ・マハリャノフ(ブルガリア語:、ラテン文字転写例:Kalojan Stefanov Mahljanov)、愛称はカロヤン。身長200cm、体重157kg、握力120kg、血液型はO型。得意手は右四つ・寄り・上手投げ。趣味はゴルフ、好きな色は青、好物はラーメン、好きなスポットは北海道・沖縄県。最高位は東大関。来日前にブルガリア国立体育大学を休学(事実上2年時中退)したが、ブルガリアの大学在籍時の単位数が認められる形で2015年4月に日本体育大学第3学年に編入。同時に臨時の学生コーチに就任する見込み。一般的な琴欧洲の人物評価は、肉体面においては極めて豊富な身体能力を持ち、その風貌もいわゆる「ハンサム」類型であるとされている。逆に、精神面においては、把瑠都に代表される陽性・躁性に対比して、「陰性」・「鬱性」の典型であると評価されている。平時の気性は非常に穏やかで、妻が日本人であることも含め、日本に対して非常に理解ある印象を持っている。過去には朝青龍の相撲スタイルに対して非難をする発言が複数あり、「(興行である本場所上での)荒々しい相撲」に否定的で、客に対しては「綺麗な相撲を見せるべき」であるとの所感を持つ美観主義者である入門以来、その長身と懐の深さ、抜群の格闘技センスを活かして番付を駆け上がり、初土俵から最速となる所要11場所で入幕(当時、幕下付け出しを除く)。2005年11月場所終了後に大関に昇進した。端正な顔立ちで人気も高く、一時期は「角界のベッカム」とも呼ばれた(因みにベッカムと最初に形容したのは大相撲中継にゲスト出演した大村崑である)。しかし琴欧洲の好きなサッカー選手は母国の英雄フリスト・ストイチコフである。また、他の相撲部屋の同僚から「琴欧州はベッカムが嫌い」と本人はあまり好んでいない様子が『関口宏の東京フレンドパークII』にて放送されたこともある。得意は四つ相撲で、特に左上手を取ってからの強烈な投げや寄りが得意。左四つでも右上手を取れば十分相撲が取れた。懐の深さを活かして外四つで廻しを取って引きつける相撲も得意であった。相手が二本を差して肘を張った状態でも通常のように浅い位置の上手を取って引きつける相撲も見せたことがあり、関ノ戸(元小結・岩木山)は自身の対戦経験を元に「嘘だろ、これはまずいと思って一気にがぶったんですよ」とその相撲ぶりを証言した。稀勢の里のような脇が甘い相手には立合いで両差しにしての速攻の相撲も取る。上半身の力は横綱と評される一方で、総じてプレッシャーに弱いところが弱点とされていた。自身の精神面や体調に左右されすぎる面があり、調子が良い時には横綱をも負かすが、悪い時には平幕にもあっさり負ける面があった。大関昇進時には栃東と共に当時無敵だった横綱朝青龍と互角に渡り合える力士として、優勝、綱取りを期待されていた。概してとったり、腕捻りといった手繰り技に弱く、少しの手繰り技であっさりと負けてしまうことが多かった。特に魁皇との対戦でその傾向がよく見られた。何より右膝の不安が不振の主因となっていた。これは2006年3月場所前に朝青龍との申し合いで痛めた以前から慢性的に悪い状況にあり、三段目時代には右膝亜脱臼を経験している。琴欧洲に改名後は、一貫して黒色の廻しを締めて、本場所の土俵に上がっていた。大関昇進直後は深緑色の廻しだったが、この廻しは巡業などで使用するだけになった。2人兄弟の次男坊で4人家族。レスリング経験者で、欧州ジュニアチャンピオンの実績も持つ。大きな体は家系のようであり、自身を含めて実家の家族4人の体重の合計が400kgを超えたこともあったという。少年時代には父からもレスリングの基礎の手ほどきを受けた。当初はオリンピックを目指すが、レスリング競技において無差別級が廃止となった事もあってレスリングの道を断念。レスリングの練習の一環として行ったことが相撲との出会いとなっており、これをきっかけとして佐渡ヶ嶽親方(当時=元横綱・琴櫻)のドイツ在住の知人で実業家の中本氏(部屋の元床山)を介して来日。四股名はヨーロッパ出身であることに由来し、下の名前の“勝紀”は師匠の現役時代の四股名である“ 琴櫻 傑將”の名前の読み(まさかつ)の一部と本名“鎌谷 紀雄”から一文字ずつ取った。師匠の佐渡ヶ嶽は停年前、横綱昇進の際には自身の現役名(琴櫻)から櫻を譲り『琴櫻州(読み方はそのまま)』への改名を考え、土俵入りの型も決めていたが、後に改名については撤回した。2002年11月場所に初土俵を踏んだ。2004年5月場所新十両、同年9月場所に新入幕を果たした。そして、新小結で迎えた2005年3月場所では4勝11敗に終わった(前場所前頭4枚目での9勝6敗による、やや幸運な昇進であったため致し方ない面もあった)。2005年7月場所で小結に復帰し12勝3敗の好成績を挙げたが、優勝争いの千秋楽で極度の緊張から自分を見失いあっけなく黒星を喫した。また、この場所は10日目の旭鷲山戦で勝ち越したが、相手の引きに手を付いたようにも見えた微妙な一番であった。2005年9月場所には関脇昇進を果たし、それまで大鵬、千代の富士が持っていた、年6場所制における新関脇での初日からの連勝記録(8連勝)を大幅に上回る12連勝の新記録を樹立した。しかし、13日目朝青龍に敗れ連勝はストップ。朝青龍に敗れ部屋に帰る際にマスコミに雪駄を踏まれ、それに怒って雪駄を地面に叩き付けた。その翌日の14日目には当時前頭16枚目ながら優勝争いに加わっていた稀勢の里に呆気なく敗れ、12連勝の後2連敗。千秋楽は大関千代大海に勝ち13勝2敗の成績で朝青龍との優勝決定戦を行い、13日目の本割に続いて敗戦、史上最速での初優勝は成らなかった。しかし新関脇で13勝の勝ち星は史上最多タイの快記録である(過去に1940年5月場所の五ツ嶌、1950年9月場所の吉葉山が新関脇で13勝をあげている、後に2015年3月場所の照ノ富士が並んだ)。翌場所は初日垣添に敗れたものの、横綱朝青龍と大関千代大海を破り11勝4敗の成績を挙げ、殊勲賞と敢闘賞を受賞。場所後に大関昇進。入門からわずか19場所での大関昇進は年6場所が定着した1958年以降では幕下付出を除き史上最速であった。大関昇進伝達式においては、前師匠の元横綱琴櫻と現師匠の琴ノ若夫妻が同席する異例の事態となった。これは、同場所中に琴櫻が65歳停年を迎えたため、規定により佐渡ヶ嶽部屋の力士が千秋楽まで土俵に上がれるよう、琴ノ若が引退して部屋を継承したことに、協会側が配慮したもの。ちなみに、琴ノ若はいわゆる「婿入り婚」のため、琴櫻は退職後も亡くなる直前まで部屋での稽古に顔を出していた。新大関の2006年1月場所は、初日に露鵬に敗れたが、順調に白星を積み上げて行き、一時は優勝争いにも加わったが終盤に負けが込み、10勝5敗とまずまずの成績だった。幕内10場所目で大関2場所目だった翌3月場所は直前の稽古で右膝を痛め、一時は出場すら危ぶまれたが、本人の意思で何とか出場にこぎつけ、9勝6敗と勝ち越した。翌5月場所も右膝と右足首が完治せず負け越しが危ぶまれたが、先代師匠の激励を受けて千秋楽にかろうじて勝ち越し8勝7敗で取り終えた。次の7月場所も1勝2敗から5連勝し6勝2敗としたものの、そこから崩れ再び負け越しの危機に直面したが、またしても千秋楽に勝ち越して8勝7敗。その次の9月場所は序盤3連勝の好スタートを切ったが、中盤の3連敗が響いて10勝5敗に終わっている。場所後の2006年9月27日、成績が伸び悩んでいたため、より良い画数を考え琴欧州から琴欧洲(読みは同じ)に四股名を改名した。その改名後の翌11月場所は序盤3連勝したものの、中盤での取りこぼしが響いて結局10勝5敗だった。2007年1月場所は、稀勢の里戦に於いて大関であるにもかかわらず立合いの変化で勝利を収めたため、国技館内からブーイングが起こった。2007年5月場所は、中日に7勝1敗だったが、終盤崩れて9勝6敗であった。2007年9月場所では新入幕の豪栄道の活躍で、大関という立場では対戦があるはずの大関・千代大海、横綱・白鵬との取組が外されてしまった。横綱・朝青龍、大関・魁皇が休場、大関・琴光喜が同部屋所属のため、大関なのに大関以上との対戦がなかった。さらにそのような事態にもかかわらず下位力士に大きく取りこぼし、8勝7敗に終わった。翌11月場所には膝の古傷を痛めて、7日目に力士人生で初めての不戦敗・途中休場となる。そのため、2007年は一度も二桁勝利を挙げることが出来なかった。改名の効果が全く出ていない状態が続き、「大関に挙げない方が良かったのでは?」という声も囁かれていた。翌2008年1月場所は初の大関角番となったが、9勝6敗と勝ち越し角番を脱出した。3月場所では4日目の取組の際、左上腕部を負傷したため、9日目から通算2度目の休場に追い込まれ、悔しさのあまり思わず涙した。大関に上がるまでは、強烈な引き付けや投げを武器に優勝争いに加わる等の活躍を見せていたが、大関昇進後は怪我とそれに伴う大関陥落に対する精神的な重圧から、一転して長身を持て余すようなスケールの小さい取り口となった。琴櫻は生前この不振を「技術的なことよりも、精神的なことだよね」と語っていた。ところが、体重を5キロ増やして臨んだ2008年5月場所では初日から絶好調をキープし、8連勝で角番を脱出。さらに11日目、12日目と朝青龍と白鵬の両横綱に寄り切りで勝利し、優勝目前となる。翌13日目は苦手の安美錦に対し一方的に押し出しで敗れてしまったものの、援護射撃で同部屋の先輩大関である琴光喜が白鵬を寄り倒しで破り2差とし、更にその直後朝青龍が魁皇に上手出し投げで敗れて4敗目を喫したため優勝圏外に去った。そして翌14日目は平静さを取り戻し、安馬(当時、現横綱・日馬富士)を送り倒しで破り初優勝を決めた。千秋楽の千代大海戦にも寄り切りで勝利し、最終的には14勝1敗の好成績でヨーロッパ出身力士では史上初となる自身念願の幕内最高優勝を果たした。次の2008年7月場所は本来綱取り場所となるところであったが、3月場所までは勝ち越しがやっとだったこともあり、綱と言うよりは大関としての真価を問われる場所となった。しかし初日に苦手の安美錦に敗れると 、7日目までに3敗を喫し結局9勝6敗に終わり、綱取りは白紙に戻った。その後の9月場所、11月場所は2場所ともに8勝7敗で千秋楽で勝ち越してはいるが、優勝した時の強さが全く見られない取り口となった。2009年1月場所は中日までを7勝1敗とし、一時は優勝争いにも加わったが後半失速し、結局10勝5敗に終わった。第33回日本大相撲トーナメントでは決勝戦まで勝ち進んだものの、決勝では白鵬に敗れ、優勝同点だった。翌3月場所も10勝5敗、大関昇進後では14場所ぶりの連続二桁勝利となった。5月場所は9勝6敗で大関初の3場所連続二桁勝利はならなかったが、14日目に白鵬を破って連勝記録を止め、存在感を示した。次の7月場所前には1日50番近い稽古をこなした。それが実り、7月場所では10連勝とし11日目に千代大海に敗れたものの、当時1敗だった琴光喜が全勝の白鵬を破り再び優勝争いのトップを守った。注目された13日目の白鵬との一敗同士の直接対決では完敗、優勝争いから一歩後退する。翌日の14日目には朝青龍、千秋楽には日馬富士を破り逆転優勝への望みを繋いだが、千秋楽に白鵬が朝青龍に勝利したため優勝決定戦に持ち込むことはできなかった。それでも最終的には13勝2敗の好成績を挙げ、久々に優勝争いを大きく盛り上げた。翌9月場所は初日から6連勝したものの、7日目に鶴竜に敗れると、10日目から5連敗を喫して9勝6敗に終わった。11月場所は9日目まで1敗を保持し優勝争いに加わっていたが、9月場所同様、10日目で魁皇に敗れてからは失速、10勝5敗に留まった。2010年5月場所千秋楽の結び前の一番、大関・魁皇に右上手を許し寄り切りで敗れたが、この琴欧洲の敗戦で魁皇が大相撲史上二人目の「通算1000勝」の大記録を達成させるという、余りに皮肉な結果となった。翌7月場所は初日から7連勝と好スタートを切ったが、中日に好調の鶴竜に敗れると後半またも失速し10勝5敗に留まった。9月場所は2009年7月場所以来となる中日での勝ち越しを決め、横綱・白鵬を追う一番手として期待されたが、9日目に苦手の安美錦に敗れると、11日目から4連敗を喫して失速。結局7月場所同様、10勝5敗に留まった。11月場所は5日目までに3敗を喫し、その後6連勝して11日目に勝ち越しを決めたが終盤4連敗を喫し8勝7敗に終わった。2011年1月場所は9日目まで8勝1敗とし、一時白鵬に星一つ差であったが、終盤に失速、10勝5敗に留まった。しかし大関陣の中では唯一の二桁勝利であった。5月技量審査場所は序盤から不調で、9日目に古傷を悪化させたこともあって11日目から休場した。これで幕内初優勝の2008年5月場所から続いた、連続勝ち越し記録は17場所でストップ。翌7月場所は3度目の大関角番だったが、10日目に魁皇を下し8勝2敗と勝ち越して角番を脱出した(なお魁皇はこの琴欧洲戦を最後に現役引退を表明)。しかし11日目以降は1勝のみで、結局9勝6敗に終わった。9月場所は5月技量審査場所と同様に序盤から1勝5敗と不調で、右膝と右肘を負傷したこともあり7日目から途中休場。しかし場所後の明治神宮例祭奉祝全日本力士選士権大会には出場し、決勝で把瑠都を破って2005年以来6年ぶり2回目の優勝を果たした。11月場所は4度目の大関角番だったが、11日目に角番を脱出し9勝6敗。2012年1月場所では2010月9月場所以来の初日からの6連勝と好スタートを切り、13日目に横綱白鵬を13場所ぶりに寄り切りで破った。(この一番で把瑠都の初優勝が決定。)最終的には10勝5敗と2011年1月場所以来の二桁勝利を挙げた。5月場所14日目、同場所平幕優勝を果たした旭天鵬戦で右足根骨靱帯を損傷したため、千秋楽の栃煌山戦を休場し、8勝7敗(千秋楽不戦敗)に終わった。この不戦敗で4敗力士の優勝が消滅し、館内からはブーイングが起こり、理事長の協会挨拶では琴欧洲に対する異例の名指し非難と謝罪があった。怪我が完治しない中強行出場した翌7月場所は12日目に勝ち越しを決め、千秋楽に稀勢の里を破り9勝6敗で終えた。2012年9月場所で大関在位数が40場所を迎え、小錦(現タレント・大関在位39場所)を超える歴代単独5位の記録となった(外国出身力士としての大関在位数は琴欧洲が史上最多)。しかし5日目、苦手の豊ノ島戦で掬い投げで敗れた際右肩を痛め、翌6日目より途中休場(他大関陣は把瑠都と琴奨菊も4日目から途中休場、6大関の内3人が不在に)。次の同年11月場所は、自身5度目の角番となったが、11日目に横綱白鵬を下し勝ち越しを決め角番を脱出した。2013年1月場所は序盤に3連敗したが12日目に横綱白鵬に連勝するなど存在感を見せ、千秋楽に稀勢の里を上手投げで下し、最終的には10勝5敗と一年ぶりの二桁勝利で取り終えた。しかし、3月場所は場所前から痛めていた左肘の負傷が悪化し5日目で1勝4敗と絶不調、左肘関節外側側副靱帯損傷により翌6日目から途中休場。翌5月場所は大関在位44場所と北天佑と並び歴代4位タイ記録と同時に、6回目の角番(武双山と並び歴代5位タイ)を迎えることになった。同場所は初日から4連勝を達成したが5日目から3連敗するなど大きく崩れ、千秋楽に鶴竜を送り出して8勝7敗と辛うじて勝ち越し、角番を脱出した。2013年7月場所は大関在位45場所を迎え、歴代単独4位となった。同場所は14場所ぶりに9日目で早々勝ち越し、10日目まで9勝1敗と優勝争いに加わったが、その後横綱・大関戦は全敗(14日目は小結・松鳳山にも敗戦)を喫し、終盤5連敗の9勝6敗に終わった。翌9月場所は、初日から4連勝したが、5日目豪栄道に上手投げで敗れた際に左太股裏を負傷し、7日目から途中休場(一時は再出場する意向だったが、怪我が回復しないため断念した)。翌11月場所は2013年5月場所以来7度目の角番を迎えた(小錦と並び歴代4位タイ)。しかし1勝1敗で迎えた同場所の3日目、松鳳山戦で左肩を負傷し、「左肩鎖関節脱臼で全治4週間」の診断により4日目から途中休場。その後同場所9日目の時点で大関で2場所連続負け越しとなり、47場所務めた大関から陥落が決定した。2014年1月7日に日本国籍を取得して、欧州出身力士としては初となる日本への帰化を果たした。2014年1月場所前の2013年冬巡業では取組を行わず、土俵入りだけの参加としながら土俵外で四股を踏んで調整する様子が報じられた。その1月場所では10勝以上を挙げれば、1場所で大関特例復帰となっていた。序盤戦では4勝1敗と好調だったが中盤戦で黒星が増え、終盤戦に入った11日目の白鵬戦で5敗目となり絶体絶命に。そして13日目の遠藤戦でついに6敗目を喫してしまい、大関再昇進はならなかった。14日目の玉鷲戦に勝って勝ち越しを決めたが、千秋楽の豪栄道戦は敗れて8勝7敗に終わった。2014年3月場所では初日こそ白星をあげたが、翌日から8連敗を喫し負け越しが決まった。1勝9敗で迎えた11日目、左肩鎖関節脱臼のため休場。翌日3月20日、引退を表明。元琴錦の中村は「体だけで上がってきて、この試練を乗り越えなければ何も残らず、後進に教える事はない。」と現役続投を薦めたが、結局それは叶わなかった。引退会見では思い出の一番として前相撲での取組を挙げ、「稽古して強くなって、早く次の場所で試したいと思って」と述懐していた。尚、この時点で琴欧洲は年寄名跡を所有していなかったが、『大関経験力士が3年の期限付きで日本相撲協会に残留出来る』規定を行使し、琴欧洲親方として佐渡ヶ嶽部屋付き親方となり後進の指導に当たることとした。会見ではまた、指導者としての出発を迎えるにあたり「厳しく教えるだけでなく、競技の面白さや楽しさを教えなくては駄目。個人ごとの体格や体型によって教えることも変わってくる。その人にあった教え方をしないと」と力説していた。引退相撲・断髪式は2014年10月4日に両国国技館で行われた。断髪式ではデーモン閣下、白鵬、井岡一翔、父ステファンら約350人がはさみを入れ、師匠の佐渡ケ嶽が大銀杏を切り落とした。「12年間皆さんの力を借りて相撲を取ることができました。満員御礼で胸が詰まって言葉が出ません」と涙を流した。 今後については「できるかできないか話は別だが、部屋を持ちたい」と将来的な独立への意欲を見せた。2015年2月12日、年寄:鳴戸を襲名。2016年3月場所直前の新弟子検査では自身の内弟子が佐渡ヶ嶽部屋から受検しており、既に佐渡ヶ嶽部屋から独立することも認められている。                                      (カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。太字は2015年現在、現役力士)

出典:wikipedia

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