勾当内侍(こうとうのないし)勾当内侍(こうとうのないし)は、南北朝時代の女性である。本名は不詳。公家の世尊寺家の一族で、一条経尹あるいは一条行尹の娘、一条行房の娘もしくは妹ともされる。『太平記』に新田義貞の妻の一人として登場する。鎌倉時代後期に後醍醐天皇の討幕運動に加わり、鎌倉陥落に功績のあった上野国の新田義貞の妻になったといわれ、建武の新政を開始した後醍醐天皇が義貞への恩賞として与えられたとされる。建武3年(1336年)初頭、新田義貞は新政から離反した足利尊氏を楠木正成や北畠顕家らとともに京都で破り、足利尊氏らは九州へ逃れたが、2月から3月にかけて義貞は尊氏追撃を行わなかった。その理由として、『太平記』では新田義貞は京都において勾当内侍との別れを惜しみ、出兵する時期を逃したとし、勾当内侍が結果的に義貞の滅亡の遠因を作った女性であるとする描き方がされている。その後、尊氏が上京して後醍醐天皇を追い、新田義貞は恒良親王らを奉じて北陸地方へ逃れた。『太平記』よると、琵琶湖畔の今堅田において別れ、京にて悲しみの日々を送っていた勾当内侍は新田義貞に招かれ北陸へ向かった。だが、義貞は足利軍の攻勢により延元3年/建武5年(1338年)閏7月2日に越前国藤島で戦死した。なお、新田義貞が戦死した藤島近くの三国湊は、勾当内侍の収入源の1つであった事も指摘されている。勾当内侍は杣山(福井県南条町)においてその戦死を知り、京で獄門にかけられた新田義貞の首級を目にして落飾して比丘尼になったと描かれている。また、勾当内侍の父とされる行房も新田義貞に従い、北陸で戦死していると記されている。墓所については、後述の野上神社(野神神社)のほかに、江戸時代に講釈として『太平記』が流布すると、各地に勾当内侍の墓所が作られた。そのうちの一つは群馬県太田市阿久津町(旧新田郡尾島町阿久津)にある『太平記』によると、義貞の死後、勾当内侍は京都の嵯峨にある往生院で、義貞の菩提を弔って余生を過ごしたとされる。一方で、琵琶湖琴ヶ浜に入水したという伝説が、大津市堅田にある勾当内侍を祭神とする野上神社(野神神社)・菩提寺の泉福寺に伝わっており、慰霊のための野上祭(野神祭)も行われている。なお、新田義貞との関係についての当時の史料としては『太平記』のみで、年代的な推定などから創作ではないか、さらには「勾当内侍」そのもの実在すら疑わしいとする説もある。『太平記』における義貞が勾当内侍と色恋沙汰に落ちていた期間は、実のところ義貞が病に罹患していた時期ではないかとされており、奥富敬之・峰岸純夫らがこの説を支持している。その病名は瘧病(おこりびょう)という名のマラリア性の熱病であったといわれる。
出典:wikipedia
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