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フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング

フロンティア・マーシャルアーツ・レスリングは、日本のプロレス団体。略称はFMW(エフ・エム・ダブリュー)。元全日本プロレスの大仁田厚が1989年にわずか5万円の資金で設立したプロレス団体である。日本におけるインディープロレス団体の草分け的存在で、日本で初めてミックスファイト及び女子単独興行も手がける男女混合団体でもあり、世界のハードコア・レスリングの先駆的存在でもあった。大仁田厚体制のFMWの成功は、それに倣ったインディープロレス団体の乱立を招くことになり、1990年代以降の日本プロレス界が多団体時代を迎える影響を及ぼした。2002年に会社が倒産し消滅、WMFなどに引き継がれた。1989年10月6日、名古屋市露橋スポーツセンターで旗揚げ。同年7月2日の「格闘技の祭典」で遺恨が勃発した、大仁田厚と空手家の青柳政司との抗争を軸にし、大仁田の全日本での後輩のターザン後藤や元新日本プロレスの栗栖正伸も参加する。初期におけるFMWはその団体名が示す通り、キックボクシングや柔道、テコンドーなどプロレス以外の格闘家が参加しており異種格闘技的な要素が強かった。しかし、その意味付けは当時隆盛だったUWFへの対抗心(あるいは皮肉)によるところが大きく、「総合格闘技オープン・トーナメント」と銘打たれた大会で栗栖がイス攻撃を駆使して優勝したり、ボクシングの元世界チャンピオン、柔道メダリスト、空手家、プロレスラーなどの「タッグチーム」が競う「世界最強総合格闘技タッグリーグ戦」が開催されたりした。男女混合団体であるが、「YAMATO NADESHIKO」と銘打った女子のみの興行も行っている。1992年9月19日に横浜スタジアムで行われた3周年記念興行「邪道」にて全日本女子プロレスと団体対抗戦を行い、これを機に女子プロレスの全団体対抗戦が実現することとなった。一方、1990年10月26日の岐阜県美濃市体育館大会において、ターザン後藤&デスピナ後藤VSリッキー・フジ&工藤めぐみ戦が日本初のミックスファイトとして組まれた。これらと並行して、団体の看板と位置付けて行ったのがデスマッチとストリートファイトマッチなどである。資金難を始め、様々な面で既存メジャー団体に劣っていたFMWが選んだのは「何でもあり」をキーワードにしての、アイデアで勝負する道だった。有刺鉄線デスマッチを皮切りに、数々の「日本初」を敢行。1990年8月4日に東京の汐留で行った大仁田と後藤の「究極のデスマッチ」、ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで団体の浮沈をも賭けた。その思惑は当たり、FMWは一躍注目を浴びるようになった。多様な格闘家、奇抜な試合形式、男女混合、怪奇派レスラーなどの、大仁田が「おもちゃ箱をひっくり返したような」と表現した団体色は、一大センセーションを呼び、UWFを除けば当時のメジャー団体だった新日本プロレスと全日本プロレスに匹敵する第3勢力となった。また、大仁田は団体の宣伝目的もありテレビ等に極力出演し、タレント並みの知名度を得た。このことにより、団体も知名度も全国区になり、ニュース番組やバラエティ「ギミア・ぶれいく」などでドキュメンタリーが放送された。後にライバルのミスター・ポーゴの離脱などもあったものの、ザ・シーク、タイガー・ジェット・シンといった新たなヒールも獲得し、1991年には川崎球場に進出した。因みにその同じ日に、10kmくらいの距離の先の横浜市では、新日本プロレスの横浜アリーナ大会が行われ、1万8千人もの観客を動員したこともあり、「時期尚早では?」と言われていたが、蓋を開けてみれば、約3万3千人の動員に成功した。その後1992年には横浜スタジアム、1993年には2度目の川崎球場と阪急西宮球場での興行を行い、経営規模は順調に拡大していった。デスマッチ中心の団体として1991年に分裂した茨城清志代表(元渉外担当)、ミスター・ポーゴら率いるW★ING(W★INGプロモーション)とは激しい興行戦争となったが、資金面に劣るW★INGから看板選手であったポーゴ、松永らを引き抜きW★INGを壊滅させ、インディペンデント団体の最高峰に立つまでに成長した。 1994年5月5日の川崎球場大会で、自らの土俵である電流爆破マッチに持ち込みながらも天龍源一郎(当時WAR)に敗れた大仁田は引退を決意。一年間の引退シリーズを経て、翌年の1995年5月5日に川崎球場大会で引退試合を行う。最後の対戦相手は当初は後藤が予定されていたが突如、ミスター雁之助・オーニタ・ジュニア(市原昭仁)らと共に団体を離脱。対戦相手の再考を余儀なくされた大仁田は、名乗りを上げていた東京プロレスの石川敬士を指名。さらに、試合の調印直前で名乗りを上げた弟子であり、次代のエースのハヤブサに、石川の了解を得て変更し引退試合を行った。「大仁田がいなければFMWは3か月で潰れる」というような声をよそに、大仁田の引退後もFMWは持ちこたえた。ハヤブサを中心に、工藤、田中正人(現・田中将斗)、松永光弘、金村ゆきひろ(現・金村キンタロー)、ザ・グラジエーターらの若い力がリングに活力を蘇らせ、大仁田時代の胡散臭さや怪しさを押し出したスタイルとは異なる、後にハードコアスタイルと呼ばれる激しい戦いが高い支持を得た。ハヤブサが腕を負傷、半年間の欠場の間も、田中と金村のライバルストーリーがファンの支持を得て、リング上のパワーは落ちなかった。1996年5月5日には、ハヤブサ、田中対テリー・ファンク、ポーゴをメインイベントに川崎球場でのビッグマッチを成功させる。しかし、もう一度スポットライトを浴びたいと願う大仁田は、復帰を画策する。ポーゴを引退させ、ポーゴの最後の願いとして、大仁田とのタッグ結成をファンに乞うというアングルで、ついに1996年12月11日駒沢大会でカムバックした。この頃から、ハヤブサ・田中・金村ら若い世代へ期待する路線と創始者・大仁田への回帰路線という2つの方向性がリング上に生まれ、FMWはギクシャクとし始めた。だが、大仁田が突然「ZEN」という団体内団体を旗揚げしたのも、2つの方向性を両立させようとする当時のFMWフロントの苦心の結果である。また、WARを離脱した冬木弘道、邪道、外道が参戦、金村、雁之助らと『チーム・ノーリスペクト』(TNR)を結成し、FMWの歴史上でも最も存在感の大きなヒール軍団となった。※なお、荒井体制の新生FMWは登記上「エンターテイメントプロレスリングFMW」とされており、大仁田体制の「フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング」とは別会社扱いとなっている。日本に進出を図ったCS放送ディレクTVがキラーコンテンツのひとつとして、FMWを選んだ。1998年3月に「3年3億円」で契約、テレビ放映を手にしたFMWは最大のインディ団体と言われるようになる。契約を結んだFMWは制作費の提供を受け、グレードアップしたエンターテイメント路線を走り始めた。その第一弾となった横浜大会では、ハヤブサVS雁之助、冬木VS大仁田、新崎人生VS金村、田中VSクラッシャー・バンバン・ビガロなどが行われ、いずれも好勝負となった。その後、荒井昌一社長と選手が一丸となって、大仁田に対し撤退を要求、1998年11月20日の横浜文化体育館大会を最後にして、大仁田はFMWを離れた。1999年5月からは、よりアクの強いエンターテイメント路線にシフトチェンジを行い、ドッグフードマッチやおばけ屋敷マッチなどこれまでの日本では考えられなかったショー要素の強いプロレスを展開した。さらにAV男優のチョコボール向井やAV女優の若菜瀬奈、演歌歌手の谷本知美など、プロレス経験のない素人までが試合に参加し、プロレスファンの話題と反発を呼んだ。特に同年10月29日に開催された後楽園ホール大会の最後に、H (エイチ) とハヤブサ(=偽ハヤブサ)が乱闘を起こし、一般人はおろか週刊プロレス記者の杉作J太郎までも巻き込まれ、警備員に制止される羽目になった(更にこの際、HがディレクTVの業務用ビデオカメラ=1,000万円相当=を叩き壊したりもしている)。好調であるかに見えたが、1999年11月23日に横浜アリーナで行われた10周年記念大会はショーン・マイケルズ、レイヴェンなどの大物レスラーを招聘し、内容面ではこの上ない最高の試合になったにもかかわらず興行的には失敗、FMWの経営状態は一気に悪化していった。2000年3月、ディレクTVが業績不振のため日本国内での事業を停止、スカイパーフェクTV!へ事実上統合となった。FMWのPPV放送はスカイパーフェクTV!に引き継がれたが、放映権料は大幅に下げられることとなり、経営悪化は一気に拍車がかかった状況となった。また、翌2001年には、話題作りのためか、荒井社長率いる正規軍6人が「経営権」をかけ、冬木軍と対決。結局敗れ、経営権を奪われる。ただし、これはあくまでもリング上の演出(アングル)であり、実際には倒産まで荒井が社長を務めていた。同年10月22日に、ハヤブサが後楽園ホールでの試合中の事故により頸椎を損傷、長期欠場を余儀なくされた。この時のシリーズの日程が異常ともいえるほどのハードスケジュールだったと荒井社長の著書に記されている。加えて2002年1月にはミスター雁之助も負傷、これも長期欠場となった。看板選手の欠場は、経営基盤の弱いFMWには致命傷となった。この間にも荒井社長はコストカットのため、田中、邪道、外道、中山香里の4名の契約解除を行うなど、FMWの危機は一般のファンにも明らかとなった。この頃に行なわれた、出来立ての飲茶を食べながら凶器にも使える「ファイティング・ディナーマッチ」や敗者を全裸にする「ネイキッドマン・マッチ」という試合形式は、ファンはおろかプロレスマスコミからも反発を受け、荒井社長も自著で「失笑すらおきない大顰蹙(ひんしゅく)を買い、さらに「ネイキッドマン」に関しては事前に「敗者を全裸にする」と告知していたため会場に私服警官が現れて呼び出しを受けた」と述べている。このような事態がFMWの迷走ぶりを示していたと言えるかもしれない。2002年2月14日と15日、団体は2日連続で不渡りを出し事実上倒産した。負債総額は3億円。経営不振の中、荒井社長はたった1人で金融業者28社から3000万円を借り入れていたと言われる。その他、運営の責任感から来るものか、家の権利書まで持ち出そうとした。実際、赤字続きで首が回らなくなった際にも、ちゃんと選手にはギャランティが支払われていたという。団体崩壊後、借金から逃れるため、身を潜めていた荒井社長は、著書『倒産!FMW カリスマ・インディー・プロレスはこうして潰滅した』を執筆後、5月16日に自殺した。その前日付けの消印で、団体関係者宅に「ご迷惑をおかけしました」といった文書が届いていたことも、その後明らかになった。最大のインディ団体は、面倒見が良く責任感の強い社長の自殺という、最悪の終焉を迎えた。この事件は「乱立するインディ団体へのメッセージ」として、安易に旗揚げできるインディペンデント団体に対しての警鐘ともなった。残された選手とスタッフのうち、冬木が事実上選手とスタッフを引き継ぐ形で2002年5月にWEWを旗揚げする一方で、ハヤブサと雁之助らも同年8月にWMFを旗揚げするなど、分裂状態となった。その後、WEWは社長の冬木が2003年3月に病没後、事実上消滅したが、後に冬木軍プロモーション→アパッチプロレス軍(一時、XWF)と形を変え現在も存続し、アパッチプロレス軍から分かれたプロレスリングFREEDOMSも存在している。一方、WMFは経営不振などで2008年8月に解散、消滅している。2009年11月、ターザン後藤が自らのデビュー30周年興行をFMW再旗揚げ興行にすることを発表した。12月、後藤、大仁田のタッグが決まり、対戦相手もミスターポーゴ、レザーフェイスに決定した。ちなみに上記のFMWが「フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング」なのに対し、後藤が旗揚げしたFMWは「FMWプロレスリング」であり、別会社である。元のFMWが残した負債や名前の権利のためだと思われる。2010年以降の興行名は「スーパーFMW」とする。ただし、スーパーFMWは旧FMW倒産前に離脱したターザン後藤を中心とする真FMWが、R2W→革真浪士団→ターザン後藤一派と名称変更を繰り返したものであり、旧FMWを実質的に引き継いでいるのはアパッチプロレス軍と、アパッチプロレス軍から分かれたプロレスリングFREEDOMS、そして解散したWMFである。FMW旗揚げから25年に当たる2014年、創始者の大仁田が中心となりFMWゆかりのレスラーを集めた「FMW25周年記念シリーズ」を開催すると発表した。7月25日の新宿FACE大会よりスタートし、2012年からファースト・オン・ステージが中心となって行われている電流爆破デスマッチをメインとする「大花火」シリーズを各地で行う予定となっている。2015年3月4日、FMWの名を冠する新団体「超戦闘プロレスFMW」が4月21日青森にてプレ旗揚げ戦を行う事が発表された。元FMWの営業で、全日本プロレスの営業であった高橋英樹が代表となり、超電戦士バトレンジャーの参戦が決定した。他にも旧FMWゆかりの選手たちも参戦が決定し、「FMW復活シリーズVol.1」のシリーズ名で、弘前市にてプレ旗揚げ戦を行い、その後仙台市、会津若松市にて2興行を開催したのち、同月27日に東京・新宿FACEにて正式な旗揚げ戦が行われ、創業者である大仁田も出場し、ハヤブサも同団体に協力する姿勢を示した。2016年からはW★INGプロモーションや船木誠勝を中心としたUWF連合軍と抗争を展開。

出典:wikipedia

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