ボン岬沖海戦(, )は、第二次世界大戦中の1941年12月13日に地中海チュニジア沖で発生した、イギリス海軍とイタリア海軍との海戦または夜戦。1941年、イギリス軍とドイツ、イタリア軍は北アフリカ戦線で攻防を繰り広げていた。ドイツ、イタリア両軍の補給はイタリアから船団が担っており、イタリア海軍が護衛の中心であった。しかし、マルタ島を拠点としたイギリス軍の妨害により補給は滞っていた。そこで、イタリア海軍は高速の巡洋艦により、不足しているガソリンの輸送を試みることにした。12月、第6戦隊所属の軽巡洋艦ルイジ・カドルナによる輸送が行われ、これは成功した。そこで次は第4戦隊司令官上級少将の指揮の下、軽巡洋艦アルベルコ・ダ・バルビアーノ(第6戦隊所属)、アルベルト・ディ・ジュッサーノ(第4戦隊所属)、によるガソリン輸送が行われることになった。アルベルコ・ダ・バルビアーノ、アルベルト・ディ・ジュッサーノは12月9日17時20分にパレルモを出港したが、敵機の攻撃により任務を断念して引き返した。2隻は12月12日18時に再び出港し、トリポリへと向かった。このときは水雷艇のチーニョが同行していた。2隻の軽巡洋艦は航空燃料などの補給物資を搭載していた。このイタリア軍の動きはイギリス軍も察知した。マルタにはK部隊が存在していたが、マルタに十分な燃料がなかったこともあり、K部隊ではなく地中海を東に向かっていた4隻の駆逐艦がイタリア巡洋艦の迎撃に差し向けられた。その駆逐艦とはイギリスのシーク、マオリ、リージョンとオランダのイサーク・スウェールズであり、H部隊から地中海艦隊への転属のためアレクサンドリアへ向かっているところであった。ストークス中佐がこれを率いていた。4隻の駆逐艦は機雷原を避けるためにフランス領海内を航行し、13日3時過ぎにボン岬を回った。一方、イタリアの巡洋艦は航空機の音を聞いたことで反転しており、ストークスの部隊がそれを発見した。3時23分、シークが先頭を行くアルベルコ・ダ・バルビアーノに向けて魚雷4本を発射。うち2本が命中した。さらにリージョンが2本の魚雷をアルベルコ・ダ・バルビアーノに対して発射し1本が命中。アルベルコ・ダ・バルビアーノは沈没した。また駆逐艦はイタリア巡洋艦に対して砲撃も行った。マオリも2本の魚雷を発射し、アルベルコ・ダ・バルビアーノに1本を命中させたとしている。もう1隻のイタリアの巡洋艦アルベルト・ディ・ジュッサーノも反撃をおこなったが命中させられなかった。リージョンがアルベルト・ディ・ジュッサーノに対して魚雷6本を発射し、3時27分に1本が命中し炎上。砲撃も受けて程なく沈没した。チーニョも砲雷撃を行い、イサーク・スウェールズがチーニョに対して砲雷撃を行ったがともに命中しなかった。チーニョは無傷で南へ逃走した。この結果、イタリア海軍の高速艦艇を用いた補給も困難となり、北アフリカへの補給にはマルタ島の攻略が必要であることが明らかとなった。
出典:wikipedia
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