『栄光への5000キロ』(えいこうへの5000キロ)は、1969年に公開された日本の映画作品である。石原プロモーション製作、松竹映配配給。『黒部の太陽』(1968年公開)に続く、石原裕次郎主演・石原プロモーション製作映画の第2弾。石原プロモーションと主に日産自動車によるタイアップ作品で、石原裕次郎扮する風来坊のレーサーが各種のレースを転戦したのち、ダットサン・ブルーバードを駆り過酷なサファリラリーに挑戦するという物語である。合わせて、危険なレースに打ち込む男とその帰りを待つ女という、2組のカップルの愛憎劇も挿入されている。原作は1966年の同ラリーにおいて日産チーム監督としてクラス優勝、チーム優勝を経験した笠原剛三が記した「栄光への5000キロ―東アフリカ・サファリ・ラリー優勝記録」。制作費4億円(現在の貨幣価値ではおよそ13億円に相当する)という大作であり、日本以外にヨーロッパ、アフリカで長期ロケを行い、雪と氷に覆われたアルプスの峠道、埃舞うアフリカの悪路など、現地ならではのレースシーンを再現した。外国人キャストとの掛け合いでは、石原ら日本人俳優たちも英語やフランス語の台詞をこなしている。映画の前半部は原作には存在しない映画用の筋立てであるが、とりわけ日本グランプリ参戦エピソードでは、当時の富士スピードウェイの30度バンクでの日産その他の各レーシングカーの迫力ある走行シーンが見どころである。本来この映画は『黒部の太陽』同様に上映時間が3時間超である可能性もあったが、配給元の松竹映配の要請で上映時間を3時間以内で収める必要から、冗長的とも言えるほどの場面作りとは対照的な唐突なエンディングに持込んだとも言われている。石原の存命時にはエンディングを再編集するつもりとも云われていたが、それもかなわないということとなった。また、「(映画は)劇場で見るもの」という製作者としての石原裕次郎の強い意思に基づき、この映画は『黒部の太陽』同様に永くソフト化されていなかった。1976年11月12日に「ゴールデン洋画劇場」でテレビ放映されたのは海外公開用の"SAFARI 5000"という実尺130分前後の、いわゆる国際版という短縮版であり、放送時間の制約によるカットが多かった(オープニング・解説・CM・エンディングを差し引くと実尺94分前後)。2012年3月23日より、石原プロモーションとチャンネル銀河は東日本大震災復興支援を目的とするチャリティー企画「『裕次郎の夢』プロジェクト」として、『黒部の太陽』と『栄光への5000キロ』2作品の完全版を全国各所でスクリーン上映した。それまでは裕次郎の17回忌(2003年)の際に30,000人限定招待による上映会が行われたのみである。2012年3月16日には、NHK BSプレミアムにおいて国際版として短縮編集された『栄光への5000キロ 特別編』がテレビ放映された。2013年3月下旬に石原プロモーション設立50周年記念として、ポニーキャニオンから『黒部の太陽』『富士山頂』『ある兵士の賭け』『甦える大地』と共に、何れも劇場封切時の完全版としてブルーレイ・DVDソフトが発売された。パッケージは通常版と特別版(特典ディスク付き)、本作ほか5作品を収録したボックス版が発売された。2015年1月1日にチャンネルNECOにて、ノーカット完全版(休憩画面を含め実尺2時間54分)がテレビ初放送され、更に同年12月5日にBS-TBSにて、同ノーカット完全版が無料の民放系衛星放送チャンネルとしてテレビ初放送された(CMを含めた場合で約3時間30分)。プロレーサー・五代高行(ごだい たかゆき)は3年前の日本グランプリでの失格処分を機に日本を離れ、レース毎にチームと契約するフリーランスとして海外の各種レースに参加していた。五代と恋人の優子、フランス人レーサーのピエールとその妻アンナ、ケニア人メカニックのジュマら5人は『ジプシー・クルー』を名乗り、トランスポーターに乗って各地を転戦する気ままな生活を謳歌していた。五代は雪のモンテカルロラリーに参戦するが、路上の落石を避けようとして起こったクラッシュでナビゲーターを失い、自らも瀕死の重傷を負う。ジュマはピエールに事故の件を責められて姿を消し、ジプシー・クルーは解散となる。ピエールは安定した生活を求め始めたアンナの願いもあり、自由の身を捨てて、アメリカのUAC自動車のワークスチームと専属契約する。五代は顔面に傷跡を残しながらも復活し、年に一度のビッグレース日本グランプリに向けて、日産ワークスチームの助っ人として帰国する。日産の開発チーフ竹内は元レーサーで、3年前の日本グランプリで五代と優勝を争った末にクラッシュし、右手が不自由になったという因縁があった。竹内が手がけたR381に乗り、五代はトラウマを払拭しようと日本GPへ臨む。しかし、決勝では五代の潰し役を命じられたピエールに邪魔されて2位に終わり、UACに優勝をさらわれてしまう。さらに、五代とのすれ違いに疲れた優子は、かつて恋人だった有名デザイナーのジャックと再会し、一緒にパリへ発ってしまう。日産の高瀬常務は五代の走りを改めて評価し、翌年のサファリラリーへの参加を要請する。五代は地元出身のジュマを呼び戻し、ナビゲーターに指名する。五代はダットサン・ブルーバード、ピエールはUAC・エスコートツインカムを駆り、メーカーの威信を背負い、広大なサバンナの大地で再び相まみえる。サファリラリーはケニアの首都ナイロビを出発し、ナクールからビクトリア湖の北側を通り、ウガンダのカンパラ、カバーレ、フォートポータルからカンパラに戻り、ケニアのヴォイ、インド洋岸のマリンディ、モンバサを昼夜を問わず5日間に5,000kmを走破してナイロビへと戻る、「カー・ブレイカー」とも呼ばれる過酷なイベントだった。スタート順の抽選会でピエールは有利な3番スタートとなるが、五代は極めて不利な90番スタートとなってしまう。しかし、五代のテクニック、日産サービスクルーの献身的なサポート、上位の脱落もあってしぶとく優勝圏内に浮上する。途中休息地のカンパラでは、パリから戻ってきた優子から新しい手編みのセーターを渡される。レース終盤、五代はついに首位のピエールを捉え、土煙を巻き上げながらつばぜり合いを繰り広げる。ふたりの勝負は思わぬ形で決着が付き、アンナと優子が帰りを待つ栄光のゴール地点へと辿り着く。モンテカルロで五代が乗る車輌はフィアット・124のベースに。カロッツェリア・ヴィニャーレがクーペボディを架装したフィアット・124ヴィニャーレ、ピエールが乗る車輌はルノー・アルピーヌA110。五代が乗る日産のグループ7マシンR381は、1968年日本GPで優勝した時のシボレーV8エンジンから日産製V12エンジン (GRX-1) へ換装された69年モデル (R381-II) 。五代の初走行シーンは東京都武蔵村山市にあった日産村山テストコースで撮影された。日本GPのシーンは1969年5月に富士スピードウェイで行なわれた「フジスピードカップ'69」で撮影された。これは実業家の滝進太郎率いるタキ・レーシング・オーガニゼーション (TRO) が主催したイベントで、レースシーンでは日産のR380、R381のほかに、タキ・レーシング所有のローラやポルシェが走行している。撮影に協力したドライバーとして日産追浜ワークスの北野元や高橋国光、タキ・レーシングの田中健二郎や長谷見昌弘らの名がクレジットされている。原作で優勝したダットサン・ブルーバードは410(ヨンイチマル)型であったが、撮影は1969年の第17回サファリラリーの際に行われたため、映画では当時の現行車種、510(ゴーイチマル)型が使用された。撮影車は所属チーム(ワークスポルシェ)のトラブルで車が届かず出走断念するところだったハーマン/シュラー組に貸し出され、撮影を兼ねて実際のラリーに出走し、追加エントリーのため最後尾からのスタートとなったにもかかわらず総合5位に入賞している。作中の五代車のカーナンバー90は彼らのカーナンバーをそのまま使っている。この車両は現在、北海道小樽市の石原裕次郎記念館で展示されている。ハーマン/シュラー組は、その実績を買われ、翌年の第18回同ラリーには日産ワークスからカラーリング等もほとんど同じの510(ゴーイチマル)型で出場し、映画さながらに総合優勝した(画像はこのときの優勝車)。さらに翌年の19回では510つぶしのための超高速コース設定の裏をかき、フェアレディZで出走、連続優勝を勝ち取っている。日産と総合優勝を争うUACは架空の自動車メーカーであるが、車名「エスコートツインカム」はフォード・エスコートを彷彿とさせる名前である。
出典:wikipedia
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