カッパ・ブックスは、光文社により、1954年から2005年まで発行された、ソフトカバータイプの新書レーベル。名称の由来は、日本の想像上の動物である河童(かっぱ)から来ており、「カッパは、いかなる権威にもヘコたれない。非道の圧迫にも屈しない。なんのへのカッパと、自由自在に行動する。その何ものにもとらわれぬ明朗さ。その屈託(くったく)のない闊達(かったつ)さ。裸(はだか)一貫のカッパは、いっさいの虚飾をとりさって、真実を求めてやまない。たえず人びとの心に出没して、共に楽しみ、共に悲しみ、共に怒る。しかも、つねに生活の夢をえがいて、飽(あ)くことを知らない。カッパこそは、私たちの心の友である。」という精神を編集方針としていた。 ホルンを吹いている河童をロゴマークとしていた。光文社常務取締役出版局長を務めていた神吉晴夫は、知識人向け教養新書路線とされる先行の岩波新書(1938年創刊)に対して、わかりやすさを重点に置いた、大衆向け教養新書路線の新書を企画し、光文社は1954年(昭和29年)10月に伊藤整の『文学入門』、中村武志の『小説 サラリーマン目白三平』をもって、カッパ・ブックスを創刊した。当時としては大きい9ポイントの活字で印刷され、また、現在多くの新書で採られている、本の裏表紙に著者の写真と略歴を入れる装丁は、日本の新書で初めての試みであった。創刊当初は必ずしも順調な出足とは言えない状態であったが、神吉が「創作出版論」と呼ぶ、編集者による企画先行の姿勢と、「カッパの本はみんなヒットする」などのキャッチコピーを使った積極的な広告によって大量生産化を実行し、カッパ・ブックスは日本の第1次新書ブームの主役と呼ばれる存在となっていった。刊行分野は生活実用書を中心としていたが、時にノンフィクションを含むなど、多岐に渡っている。1960年代から1970年代の表紙の装丁は田中一光が担当していた。1959年(昭和34年)5月に総発行部数が1000万部を突破、光文社は、カッパ・ブックスを発展させたシリーズとして、「カッパ・ノベルス」(1959年創刊)・「カッパ・ビジネス」(1963年創刊)・「カッパ・ホームス」(1969年創刊)、「カッパ・サイエンス」(1980年創刊)などを創刊していった。1961年(昭和36年)に出版した岩田一男の『英語に強くなる本』は「パンのように売れる」のキャッチコピーのもと、三ヶ月で100万部以上を売上げて、カッパ・ブックス初のミリオンセラーとなった。なお、社会学者の加藤秀俊は1962年(昭和37年)に東京新聞の「日本の新書文化」で、「新書の流行で、読書という行為が知識階級だけの特殊な行為でなく、すべての人間の日常行為に組み入れられるようになった」と述べている。また、その後も1966年にシリーズ第1作目を出版した多湖輝の『頭の体操』や、1966年に出版した五味康祐の『五味マージャン教室』や、1970年に第1作目を出版した後、全4巻のシリーズとなった塩月弥栄子の『冠婚葬祭入門』などのベストセラーを連発し、1972年(昭和47年)には累計部数が1億冊を突破するなど、読者の支持を獲得し、好調な売上げを記録していった。そうした中、1970年から1977年(昭和52年)にかけて、光文社では「光文社闘争」と呼ばれる激しい労働争議が起こり、カッパ・ブックスの発行も一時中断した。社長となっていた神吉は、批判の中で光文社を退職し、かんき出版を創業した。また、一時カッパ・ブックスの編集長を務めていた伊賀弘三良ら、光文社の役員も退職し、祥伝社を設立、カッパ・ブックスのノウハウを活かした、ノン・ブックシリーズを発刊した。また、多湖輝の『頭の体操』などを担当していた、編集者の柳下要司郎も、光文社を退職し、ごま書房(現在のごま書房新社)の創業に参加した。1990年代以降は、一時の勢いと比べて衰えを見せるようになっていき、2001年(平成13年)11月に刊行開始した光文社の同じ新書レーベルである光文社新書と入れ替わる形で、カッパ・ブックスは、2005年(平成17年)1月の『頭の体操 四谷大塚ベストセレクション』を最後に、新刊の刊行を停止した。※太字はミリオンセラー。書籍名の多くにサブタイトルが付いているのは、神吉の方針に端を発していた。なお「カッパ・ノベルス」の作品はここから省いている。
出典:wikipedia
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