高津 臣吾(たかつ しんご、1968年11月25日 - )は、元プロ野球選手(投手)・監督・野球解説者・評論家。広島県広島市南区出身。現在は東京ヤクルトスワローズ一軍投手コーチを務める。主に抑え投手としてメジャーリーグベースボール(以下:MLB)・日本プロ野球(以下:NPB)・韓国プロ野球(以下:KBO)・台湾プロ野球(以下:CPBL)を経験した初の日本人選手。NPB歴代2位の通算286セーブ、史上2人目となるNPB/MLB通算300セーブを記録している。幼少の頃から広島東洋カープのファンで、ミスター赤ヘルこと山本浩二の大ファンであった。広島工業高等学校ではに控え投手として春夏連続で甲子園に出場。第58回選抜は準々決勝に進むが宇都宮南高のエース高村祐に抑えられ敗退。第68回全国選手権は3回戦で鈴木健のいた浦和学院に敗れた。本大会での登板はなく代打での出場にとどまるが、広島大会では4試合に登板して2完封、準決勝でも尾道東高に完投勝利し、甲子園出場に貢献している。。卒業後は亜細亜大学に進学。同期に小池秀郎がおり、投の二本柱として活躍。東都大学リーグではに春秋季連続優勝を飾る。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で東北福祉大を降し優勝。リーグ通算40試合に登板し11勝15敗、防御率2.34、140奪三振。他の大学同期に川尻哲郎がいる。1990年度ドラフト会議にてヤクルトスワローズから3位指名で交渉権を獲得し契約金5500万円、年俸700万円(金額は推定)で入団。入団当時は先発投手として期待されていた。特に目立った特徴のない投手だったが、プロ入り後、長い年月をかけてシンカーを熟成させ頭角を現す。5月2日には、松井秀喜にプロ初ホームランを献上するも、チームのリードを守り切り、高津もプロ入り初セーブを記録。この年抑え投手に転向し、当時の球団記録を塗り替える20セーブを挙げてヤクルトのリーグ優勝、日本一に貢献。この年の日本シリーズでは3セーブを上げる活躍を見せ胴上げ投手になった。、熾烈なセーブ王争いに競り勝ちプロ入り初のタイトルとなる最優秀救援投手を獲得。、不動の抑えとして自身のセーブ記録を更新する28セーブを挙げリーグ優勝、日本一に貢献。日本シリーズでは二度目の胴上げ投手になった。、21セーブは挙げたものの年間通して今一つの調子でチームの不振に釣られる形になった。7月21日に行われたオールスターゲーム第二戦では松井の代打として登場、相手投手のイチローと対戦しショートゴロに討ち取られた。、シーズン序盤抑えとして結果を残せず、先発要員としても起用されるも先発でも3連敗と結果が出なかった。7月以降は中継ぎで徐々に安定感を取り戻し、抑えとして復活した伊藤智仁が復活はしたが故障明けで連投できないこともあり、左の加藤博人と共にセットアッパー兼抑えとしチームのリーグ制覇・日本一に貢献。日本シリーズでは三度目の胴上げ投手になった。この起用に関してはこのシリーズで伊藤の不調があったが、監督の野村克也からも「最後は伊藤より高津の方が似合う」の一言が高津の長年の信頼があることがわかる。、伊藤が先発投手に復帰したこともあり抑えを任されたが、シーズンを通して絶不調で抑え投手の座を失う。、監督の若松勉の就任とともに抑え投手として任命され、高津もその期待に答え自身のセーブ記録を更新するシーズン初の30セーブを挙げ最優秀救援投手のタイトルを獲得。、三度目の最優秀救援投手を獲得、チームのリーグ優勝および日本一に大きく貢献。日本シリーズでは四度目の胴上げ投手になった。日本シリーズでは自身の持つ日本シリーズの通算セーブ記録を8に更新して連続無失点も継続した。これが高津にとっての現役での最後の日本シリーズ登板となり無失点のまま現役を終えている。に佐々木主浩の持つ通算229セーブのプロ野球記録を更新。最優秀救援投手を獲得。オフにはFA権を行使。2003年11月にジョー・アーボンを代理人とし、シカゴ・ホワイトソックスと年俸75万ドルの1年契約(2年目は球団オプション)を結ぶ。4月9日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初登板を果たし、最初の打者として松井秀喜と対戦。その後はビリー・コッチに代わりクローザーを務める。開幕から無失点を続け、6月3日の対ミネソタ・ツインズ戦まで24試合連続無失点を記録し、監督のオジー・ギーエンは「マリアノ・リベラでも連れてこない限り、シンゴは我々にとって最高のクローザーだ」とコメント。9月にはESPNの選出した「お買い得だったFA選手ベスト10」では大塚晶則に次いで7位にランクイン。最終的にリリーフ投手中リーグ3位のWHIP0.98と同8位の防御率2.31を記録する投球で19セーブを記録した。10月28日には球団がオプションを行使し年俸250万ドルの1年契約を結んだ。も開幕からクローザーとして起用されるも、4月7日の対クリーブランド・インディアンス戦で1イニング3本塁打を浴びるなど序盤から救援失敗が続いた。特に5月までの14.1回で7被本塁打を喫し、6月は防御率0.96、WHIP0.75と復調したものの、7月には防御率12.60、WHIP2.20と再び打ち込まれ、18日にDFAとなり、8月1日に解雇された。2005年8月12日にニューヨーク・メッツとマイナー契約を結び、9月1日にメジャー昇格を果たすが、オフにFAとなり退団。このシーズンのホワイトソックスはワールドシリーズを制したため、チャンピオンリングを入手した。に古田敦也が監督に就任したこともあり、入団テストを経て3年ぶりにヤクルトに復帰。シーズン当初は中継ぎを任されたが、石井弘寿、五十嵐亮太が故障離脱した後は主に抑えを務めた。10月7日の対広島戦(神宮)でNPB/MLB通算300セーブを達成。このシーズン、チーム最多の13セーブを挙げた。NPB/MLB合計で通算300セーブを達成した日本人選手は佐々木主浩に次いで史上2人目。は前年同様、抑え投手を任された。6月30日の対中日戦(秋田)に登板したその夜に宿舎のホテルで入浴中に足を滑らせて転倒し、左足親指を剥離骨折(全治3週間)し戦線離脱。夏場には救援失敗を繰り返し、8月半ばから再び二軍に降格。約1か月後に一軍へ復帰し抑えに復帰。最終戦翌日の10月10日、戦力外通告を受けた。現役続行の意向を表明していたものの、12球団合同トライアウト(同年オフに2回実施)については「自分にもプライドがあるし、考えていない」と否定し、結局2回とも参加せず獲得の連絡を待ったが獲得する球団はなく、11月30日付で自由契約公示された。1月18日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加。しかし、オープン戦で登板した5試合で4回1/3を投げて防御率9.64と結果を残せなかった。3月11日に戦力外通告を受けたが、現役続行を表明。16日に古巣のシカゴ・ホワイトソックス監督のオジー・ギーエンから勧められて入団テストを受けるも不合格となった。2008年6月にKBOのウリ・ヒーローズと契約金6万ドル、年俸12万ドルで契約。KBOでは4人目の日本人選手となった。6月24日に初登板、6月29日には1回2/3を無失点に抑え初セーブを挙げた。最終的に18試合に登板し1勝0敗8セーブ、防御率0.86だったが、12月17日に外国人野手を獲得する球団方針のため退団。5月、ロサンゼルス郊外でメジャー球団のスカウトが見守る中でトライアウトを受験し、サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結んだ。40歳7か月は日本人最高齢での契約となり、7月にAAA級フレズノに合流した。1月にCPBLの興農ブルズと契約。背番号もヤクルト時代と同じ22。6月12日に球界トップの13セーブ目を挙げ、所属の興農ブルズが前期優勝を決め、胴上げ投手になる。11月26日、興農ブルズから契約打ち切りを告げられたことを発表。1月24日に新潟アルビレックスBCへの入団が発表される。名球会会員が独立リーグでプレーするのは史上初。また、4月より並行してフジテレビ『すぽると!』の毎週火曜のレギュラー野球解説者も務めることとなった(シーズン開幕後は試合日程に差支えがない範囲での出演)。BCリーグ1年目となる2011年のシーズンは27試合に登板し、0勝2敗16セーブ防御率2.16でセーブ数はリーグトップであった。より新潟の選手兼任監督に就任。8月31日、同年限りでの現役引退を表明。9月22日の長岡市悠久山野球場の新潟対信濃戦が引退試合となり、9回2アウトから登板し原大輝をレフトフライに打ち取った。試合後には「終球式」が行われ、ヤクルト時代にバッテリーを組んだ古田敦也に対して「最後の1球」を投じている。監督としてはBCリーグ初優勝、四国アイランドリーグplus王者の香川とのグランドチャンピオンシップは3連勝し制した。同年限りで監督を退任。背番号22番は、新潟の永久欠番に制定された。より、『すぽると』に加え、ニッポン放送『ショウアップナイター』解説者も務めることとなった。J SPORTSの解説者、スポーツニッポンの評論家も務める。同年10月23日、シーズンより一軍投手コーチとして東京ヤクルトスワローズに復帰することが発表された。2015年は投手陣が安定し、救援防御率リーグ1位を記録リーグ優勝に貢献した。
出典:wikipedia
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