白洲 次郎(しらす じろう、1902年2月17日 - 1985年11月28日)は、終戦連絡中央事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官、東北電力会長などを歴任した。兵庫県芦屋市出身。連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田茂の側近として連合国軍最高司令官総司令部と渡り合う。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業の役員を歴任した。一時は忘れられた存在であったが、1990年代前半頃から少しずつ再評価され各種メディアで取り上げられることが増え、21世紀に入ってからは「日本のプリンシパル」(ここでは“有数の要人”程度の意味)と持ち上げる書籍が多く刊行されている。白洲次郎は1902年(明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれた。後に兵庫県川辺郡伊丹町(現:伊丹市)に建築道楽の父が建てた邸へ転居した。1914年(大正3年)旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)に入学サッカー部・野球部に所属し手のつけられない乱暴者として知られ、当時白洲家にはすぐ謝りに行けるよう菓子折りが常備されていたという。アメリカ車ペイジ・オートモビル("Paige Automobile" )のグレンブルック("Glenbrook" )を父親から買い与えられて乗り回しており、級友等を同乗させている写真が残っている。神戸一中での成績は中以下で、成績表の素行欄には『やや傲慢』や『驕慢』、『怠惰』といった文字が並んでいる。神戸一中時代には宝塚歌劇団の生徒と恋仲になった。同級生の友人には後に作家で文化庁長官となった今日出海、他に古典中国文学者の大家として、文化功労者になった吉川幸次郎がいる。1919年(大正8年)神戸一中を卒業し、ケンブリッジ大学クレアカレッジに聴講生として留学、西洋中世史、人類学などの授業を聴講した。自動車に耽溺し、ブガッティ・タイプ35やベントレー・3リットルを乗り回していた。7代目ストラフォード伯爵ロバート・セシル・“ロビン”・ビングと終生の友となり、1925年冬ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を実行している。カメラはライカを所有していた。1928年(昭和3年)、神戸市神戸区(のちの中央区)で父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、留学を止め日本への帰国を余儀なくされた。1929年(昭和4年)、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となった。伯爵・樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた。婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた。その後セール・フレイザー商会に勤務し、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となった。この間、商談などで海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。またこの頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動する。近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・文隆の目付役を押しつけられていたこともあった。第二次世界大戦勃発の翌年の1940年(昭和15年)、東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のち東京都町田市能ヶ谷)の古い農家を購入し、鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったことから武相荘(ぶあいそう)と名付け、政治や実業の一線から離れて農業に励む日々を送った。第二次世界大戦戦末期に成人男子総赤紙の「国民兵役召集」を受けたものの、知己であり当時東部軍参謀長であった辰巳栄一(元駐英陸軍武官・陸軍中将・陸士27期)に頼み込み召集を免れた。一方で吉田を中心とする宮中反戦グループに加わっていたようである。同年に長女・桂子がうまれる。1945年(昭和20年)、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。GHQの要求に対して白洲はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれる。なお今日、武相荘のメールマガジンでは、『「マッカーサーを怒鳴りつけた男」 と書かれるに至っては、白洲は筋を通してもそんな失礼な男ではなかったと言いたくなります』との記述があり、また、占領期のGHQ関連文章を保管しているバージニア州ノーフォークにある「マッカーサー・アーカイブ」において1945年12月・1946年12月の執務記録、面会予定表、ゲストブックの全てに白洲次郎の名前が見つからない旨を徳本栄一郎が月刊「文藝春秋」に寄稿しており、このエピソードの真偽は意見が分かれる。同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。1946年(昭和21年)2月13日、松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。白洲は2月15日にGHQ草案の検討には時間を要するとコートニー・ホイットニーに宛てて書簡を出し時間を得ようとするが、これはGHQから不必要な遅滞は許されないと言明された。同年3月に終連次長に就任。8月、経済安定本部次長に就任。1947年(昭和22年)6月18日、終連次長を退任した。1945年(昭和20年)12月15日、商工省の外局として設立された貿易庁の長官に1949年(昭和24年)12月1日に就任する。汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立した。その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われる。同年、連合国軍が戦時に攻撃を避け占領後のため残したといわれた日本最大・最新鋭の日本製鐵広畑製鉄所(現在の新日鐵住金広畑製鐵所)が、日本側に返還されることになった。白洲は外貨獲得のためにイギリス企業に売却を主唱するも、永野重雄の反対によって頓挫した。永野は「(広畑製鐵所を)取れなかったら腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と啖呵を切ったとされる。その後白洲と永野は銀座のクラブで取っ組み合いの大ゲンカとなり、永野が白洲の顔を机に押さえつけ、白洲が泣いて土下座して謝った逸話も残る。戦後復興に欠かせない日本最大・最新鋭の製鉄所の外国資本への売却は、賛否が分かれるところである。また民間航空の再開に際しては、日本企業や政府資本のフラッグキャリアである日本航空の設立の動きに対抗して、アメリカの航空会社の資本による設立を画策して藤山愛一郎や松尾静磨と対立した。白洲は「俺はボランティアではない」が口癖で、イギリス留学時代の人脈をフルに活用し、主としてイギリス企業の日本進出を手助けし、成功報酬として成約金額の5%をロンドンの口座に振り込ませていた。広畑製鉄所の売却商談も成功していれば莫大な富を白洲次郎にもたらしたはずである。白洲は生涯浮世離れした豪奢な生活を送れたが、その根底にはこうした手数料収入があったことが挙げられている。1950年(昭和25年)、連合国との講和問題で池田勇人蔵相や宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米し、ジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約締結の準備を開始した。1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行した。外務省の説明によると、首席全権であった吉田茂は当初、英語で演説を行うつもりだったが、日本の「ディグニティ(尊厳)」のために日本語でするほうが良いだろうとの米国側からの提案に従い、当日になって、急遽日本語で演説することとしたという。しかし白洲の回想によれば、この時受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに白洲が激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽日本語に書き直したのだという。原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島、沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた。しかし、サンフランシスコ条約会議に、事務の元締めとして参加した西村熊雄条約局長は、受諾演説文は、日英両国語で作っていたこと、および、吉田は英語で演説するつもりだったが、シーボルト大使が西村熊雄に日本語で演説することを勧めたため、同僚や白州顧問等と相談したところ、皆、賛成であり、吉田にその旨伝えた、としている。1951年9月8日この原稿はオペラハウスで読み上げられたが、その様子を海外メディアは“吉田のトイレットペーパー”と報じ、朝日新聞の天声人語は「不思議な巻紙の勧進帳」と書いた。1952年(昭和27年)11月19日から1954年(昭和29年)12月9日まで外務省顧問を務めた。吉田退陣後は政界入りを望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻った。吉田側近であったころからすでに公社民営化を推進しており、1949年(昭和24年)には日本専売公社が発足している。そして1951年(昭和26年)5月には、日本発送電の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、東北電力会長に就任した。また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク・産業計画会議の委員に就任した。就任の同年福島県の只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから1959年(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。また当時東北地方で開発可能な水力の4分の3を有していた只見川の水利権を巡って、古くからの権利を主張して徹底抗戦してきた東京電力に対し、当時の野田卯一建設大臣を説得して、水利権を東北電力に切り替えるという超法規的措置を引き出した。これによって、東北電力繁栄の基礎が築かれたが、これにより白洲が受けた利権は大きいと言われる。東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロ)、日本テレビ、ウォーバーグ証券(現UBS)の役員や顧問を歴任した。軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務めゴルフに興じたほか、80歳まで1968年型ポルシェ911Sを乗り回し、三宅一生のショーにモデルとして出演もした。また、同時期には没後の1986年1月に発売が開始されることとなった2代目トヨタ・ソアラのアドバイスなども行なっていた。しかし1985年(昭和60年)11月に、妻の正子と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院、同年11月28日死去した。。墓所は兵庫県三田市の心月院である。妻の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。実はこの遺言書のフレーズは、白洲の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。そして白洲の墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。なお、1987年11月に自動車雑誌「NAVI」で、白洲の生涯を扱った「日本国憲法とベントレー」(その後「白洲次郎の日本国憲法―隠された昭和史の巨人」として刊行)が連載されたこともあり、没後2年を経てにわかに白洲の生涯とその功績が注目されることとなった。前出のように、白洲次郎についての一次資料は少ないとされる。彼自身の性格によるところもあるのだろう。第三者による白洲次郎評を以下に記す。宝塚歌劇団・宙組(そらぐみ)は、2008年(平成20年)に「黎明の風」という題名で白洲の波乱の生涯を扱った。2月、宝塚大劇場で初演。同大劇場は宝塚歌劇団の本拠地であり、兵庫県宝塚市は白洲家の出身地である三田市の隣町でもある。2 - 3月は宝塚大劇場で、4 - 5月は東京宝塚劇場で上演。5月にDVDやCDも発売。白洲を演じたのは同歌劇団理事で専科の轟悠。マッカーサー(大和悠河)や吉田茂(専科の汝鳥伶)をタカラジェンヌが演じ話題となった。白洲は東宝に大きな影響を持ち(本人はフィルム納入等で直接関係を持ち義兄・樺山丑二は東宝取締役、長男・春正は元東宝東和社長)、また前述のとおり白洲が神戸一中時代にタカラジェンヌと知り合いガールフレンドとしたことなど宝塚歌劇団に対する様々なエピソードを持ち、劇中でも触れられている部分がある。白洲家は、摂津国三田藩(現・兵庫県三田市を中心とした地域)の儒学者の家柄で祖父・白洲退蔵(文政12年7月15日(1828年8月15日)、現・兵庫県三田市屋敷町にて出生。父(曽祖父)は白洲文五郎、母(曽祖母)は播磨国小野藩(現・兵庫県小野市)一柳氏の家老黒石氏の娘・里子)は三田藩儒。明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時横浜正金銀行の頭取も務めた。また現在の元町、三宮といった神戸港周辺の神戸市の都市開発や神戸ホーム(神戸女学院大学の前身)の創立にも尽力した。父・白洲文平はハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績(カネボウ、現・クラシエ)を経て綿貿易で巨万の富を築き豪放磊落な人柄で「白洲将軍」と呼ばれた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。