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幸手宿

幸手宿(さってじゅく)は、江戸時代に整備された日光街道・奥州街道、そして日光御成道の宿場町の一つ。幸手宿は、古利根川右岸の平地に位置していた。江戸・日本橋から数えて6番目の日光街道および奥州街道の宿駅(宿場町)で、下総国(後、武蔵国に属する)葛飾郡にあった。宿場町は現在の幸手市中部から北部にかけての旧街道筋付近に位置し、南北900メートル程度の範囲で広がっていた。江戸(日本橋)から幸手宿の距離は12里であった。また、幸手宿前(旧上高野村)にて日光街道と日光御成道が合流していることから、日光御成道の6番目の宿駅であった。幸手は、奥州に通じる渡しがあった場所として古くから栄えていた。かつて、日本武尊が東征に際して「薩手が島」(当時この近辺は海だったという伝説がある)に上陸し、中4丁目にある雷電神社に農業神を祀ったという記述が古文書に残っている。鎌倉時代にはこの地に鎌倉街道が通じ、軍事・交易上でも交通の要衝として栄えていた。室町時代以降は一色氏の領地となり、天神神社付近に陣屋が築かれていた。江戸時代になると、幸手一帯は江戸幕府直轄の天領となった。幸手宿は日光道中・奥州道中と日光御成道との合流点、さらに筑波道が分岐する宿場町となった。『新編武蔵風土記稿』によると、元和2年(1616年)に人馬の継立が始まり、夫25人、馬25匹を定数とした。地子免許の地を1万坪、助郷を1万1845石あり、民家845軒あったという。近世前期より江戸幕府直轄の天領で、宿内は右馬之助町 ・久喜町・中町・荒宿の4町および枝郷の牛村であった。この地は下総国葛飾郡に属していたが、万治年間(1658年-1660年)より武蔵国桜井郷田宮の庄(武蔵国葛飾郡)に属するようになり、田宮町または薩手・幸手町と称されるようになった。その後、元禄年間(1688年-1704年)より幸手宿と称されるようになった。幸手宿の名主 ・問屋を世襲する旧家は、「右馬之助町の開発者右馬之助の子孫中村平左衛門家と,久喜町の開発者帯刀の子孫知久文左衛門家」があげられている。「知久文左衛門は天明期の浅間山焼と凶作、および完成期の農民移住(野州都賀郡へ)と洪水等に際して、多額の金穀を拠出して困窮者の救済に尽力した」ことから「寛政6年(1794)に代官より苗字帯刀を許された」と言われている。天保14年(1843年)によると、高2095石6升、当時の人口は3,937人、家数962軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋27軒、問屋場1ヵ所、問屋4人であった。幸手は、『新編武蔵風土記稿』によると、毎月27日に六斎市が行われた。「日光街道と日光御成道が合流する重要な宿場であるとともに六斎市のたつ武州東部の重要な商品流通の拠点である 」といわれている幸手宿には、聖福寺境内に御殿が設置された。御殿焼失後利用されたのは、建物の本堂の一室が利用された。日光社参での主要なルートには、日光御成道を北上し幸手で日光街道に入り、日光へ至るとするものであった。『徳川実記』によると、日光社参での御殿の休泊利用は、家光の寛永17年、19年、慶安元年、家綱の慶安2年、寛文3年、吉宗の享保13年、家治の安永5年、家慶の天保14年にあった。権現堂河岸は、幸手宿の東北14町30間の権現堂村の権現堂川沿いに設置された河岸場で、「幸手宿に集散する物資や年貢米の移出入港の機能を果していた」。江戸時代前期、伊奈氏を中心とした利根川東遷事業が行われ、権現堂川、江戸川が整備された。新田開発による米作の増大と相まって、これらの川を利用した江戸との間を結ぶ舟運が発展した。天保期前半(1830年代)、天保4年・同7年を中心に東日本を襲った凶作(天保の大飢饉)とそれに伴う物価高騰により、幸手宿では打ちこわしがあった。古文書『幸手宿打毀一件 天保四年巳十月』により示されている。「幸手宿打殿一件」 によると、天保4年6月の天候不順、8月の大風雨により、米麦の高騰から宿内店借住民の生活が逼迫し、9月に穀屋の襲撃が予告され正福寺門前に張札がたてられた。穀屋は集まり対策を協議し、仲町の釜屋が各自米を安売りにし踏み切ることを提案したが、賛同が得られず、結論もなく散会した。穀屋の代表は知久文左衛門に相談したが、米価の高騰から対策に消極的であった。役人、穀屋からの対策がでずに、打ちこわしが勃発した。正福寺境内に5~600人が集まり、幸手宿で19軒、隣接する上高野村で4軒の呉服店・鉄物塗物類商・砂糖問屋・材木屋等の富商と穀屋が打ちこわしにあった。幕府の打ちこわし参加者への裁決は、 「勘定奉行所宛御請証文」によると、「27日に廻状の作成・廻達を行ない打ちこわしにも参加した清吉・惣吉は所払い」となり、「小前集会を主導し、打ちこわしにも参加した勘右衛門・平七・浅五郎 ・藤七は過料銭3~5貫文」、「反物を拾得しようとした平吉は入墨上敲きの刑」 、「打ちこわしに参加した幸手宿内の小前41名と上 高野村の小前3名は 「急度御叱り」に」処せられた。また、幸手宿と上高野村の役人は,「打ちこわ しの取鎮めに失敗した責任により名主は「急度御叱り」,年寄以下は'「御叱り」を受けた」という。幸手宿での打ちこわしの結果、「幸手宿や隣接の宿場では、米の安売りや施しが行われ、困窮者は助かったという」。安政大地震は、安政2年10月2日(1855年11月11日)に、東京湾北部を震源とした直下地震があり、古文書から幸手領では震度6程度とされる。幸手宿では、安政2年10月2日安政江戸地震による被害があった。震度は、「ⅤとⅥの 中間,それもVIに近い方とみられー(中略)ーこの地震では、荒川沿いに震度Ⅴ以上の所が北にのび熊谷に達している」。『安政二卯年十月、大地震ニ付潰家其外取調書上帳幸手宿村々』 によると、幸手宿周辺の村々の安政江戸地震の被害の記録があり、幸手宿は家数1,089軒に対し、潰数2軒、人家土屋物置等潰同様1027軒との被害があったという。

出典:wikipedia

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