青木 一重(あおき かずしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。摂津麻田藩初代藩主。天文20年(1551年)、青木加賀右衛門の長男として美濃国で生まれた。青木氏は美濃の豪族で、土岐氏、斎藤氏に仕えていたが、どういう経緯か分からないが、一重は父重直の下を離れて、はじめ今川氏真に仕えた。新坂(にいさか)の戦いで、敵と槍合わせをして組討って首級を挙げ、褒美に黄金を賜った。永禄11年(1568年)の今川氏滅亡の際の駿河侵攻で、武田・徳川軍との交戦で負傷して、遠江国掛川に蟄居した。元亀元年(1570年)、徳川家康に召されて仕えることになり、6月の姉川の戦いでは、朝倉家の武将真柄直隆の子、勇士真柄隆基(十郎)を討ち取るという武功を挙げて、勇名を轟かせた。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、本多太郎左衛門と共に増援を命じられ、高天神城の守備にあたっていたが、この戦いでは弟重経が武田勢を食い止めるために戦って討ち死にしている。天正元年(1573年)、徳川氏の元を出奔し、織田信長の家臣である丹羽長秀に仕えていた父重直を頼った。丹羽家の家臣として、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに参加したが、天正13年(1585年)に長秀が死去すると、羽柴秀吉に仕え、使番となり、後に黄母衣衆に選抜された。同年、摂津国豊島郡内に知行を与えられ、備中国・伊予国内などで加増されて、併せて1万石を領し、麻田城主(麻田陣屋)となった。天正15年(1587年)、九州戦役に従軍。天正16年(1588年)、後陽成天皇の聚楽第行幸に際して、従五位下民部少輔に叙任され、七手組の組頭の1人とされた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後も大坂城に出仕。慶長18年末の父の死に際して遺領(約2,000石)を継ぎ、摂津国豊島郡、兎原郡、備中国後月郡、浅口郡、小田郡の5郡、および伊予国においての所領、併せて1万2,000石となる。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では将として城の一角を守備した。12月、和議交渉が始まって、秀頼からの礼謝使節として駿府の家康のもとへ派遣されたところ、京都で返事をするというので随行したが、同地で京都所司代板倉勝重に、「もし大坂に戻れば(家康に近侍していた)弟可直は誅殺する」と警告されたために、大坂には戻らず、剃髪して隠棲した。このため、元和元年(1615年)の大坂夏の陣には参加しなかった。その後、二条城に召し出され、家康に再び仕えることになったが、減封はなく、弟可直に2,000石を分与して1万石とするとされた。また、幕府への配慮からか夏の陣で一重の代理で指揮を執っていた養子の正重を、病気を理由に廃嫡し、代わりに弟の可直の子である重兼を迎え、養嗣子とした。寛永5年(1628年)、死去。享年78。
出典:wikipedia
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