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波照間島

波照間島(はてるまじま)は、沖縄県の八重山諸島(八重山郡竹富町波照間)にある日本最南端の有人島である。面積12.73km²、人口は508人(2016年7月末現在)。有人島として日本最南端の島であるとともに、民間人が日常的に訪問できる日本最南端の地でもあり、「日本最南端の碑」と「日本最南端平和の碑」が建てられている。また、島内にある波照間郵便局は「日本最南端の郵便局」である。緯度が低く、日本国内では南十字星を好条件で観測できる数少ない島であり、高那崎に程近い島の南海岸には星空観測タワーが立っている。周囲に人工的な灯りが極めて少ないため、他の場所では見えにくい星を肉眼で観測することができる。同タワーには200mmの屈折式天体望遠鏡やプラネタリウムがあり、観光客も見学可能である。波照間島のさらに南に「南波照間島」(パイパティローマ)があるという伝説がある。重税から逃れるため、1648年に島人が南波照間島に渡ったという伝聞が、琉球王府の記録である『八重山島年来記』に記されている。波照間島にはサキシマハブなどハブ類は生息していない。また島内には信号機が一箇所も設置されていない。波照間島に人が住み始めたのは西表島に次いで2番目に早かったと推定されている。それは下田原貝塚に残る痕跡からも確認されて、3700年前まで遡るとされる。遺跡から出土した土器は「下田原式土器」と呼ばれ、八重山地域の文化は縄文文化の圏外で、インドネシア系文化と深い関係があったと推測される。しかし、この後人の生活の痕跡は途絶え、3~12世紀頃の無土器文化までの間が空白になっている。下田原貝塚のすぐそばにあったこの文化は、フィリピン系文化との関連性が指摘されている。14~15世紀に至ると、群雄割拠時代に入り八重山は中国や日本との私貿易で力を付けるようになる。波照間でも競合が起こり、独自貿易の結果、下田原城、マシク村のような要塞集落が築かれる。また、このころには、オヤケ・アカハチ、長田大主など歴史に残る英雄も輩出する。しかし、沖縄本島の統一を成し遂げた琉球王府が西へと進出、ついには1500年、オヤケ・アカハチが琉球王朝側に付いた宮古の仲宗根豊見親に破れ、八重山は琉球王府の支配下に入った。17世紀には琉球王府が薩摩藩の支配下に置かれると人頭税制度が導入され、過酷な支配の始まりとなり、重税から逃れるためパイパティローマをめざし、島を離れる人々の伝説も残されている。さらに18世紀に入ると、島分けがたびたびおこなわれるようになり明和大津波で壊滅した集落の復興という名目で他島への強制移住が実施された。19世紀後半に至り、明治政府により琉球王国が日本へ編入されるが、その後も人頭税は課され20世紀に至りようやく廃止された。また、波照間島は首里から最も離れた島であったため、政治犯などの流刑地でもあったとされる。第2次世界大戦末期には、陸軍中野学校より送り込まれた山下虎雄陸軍軍曹を名乗る諜報員によって、西表島の南風見への 強制疎開 が行われた。住民の多くは反対したが、軍の命令であったため仕方なく従ったものの、西表島は当時マラリア発生地帯で、島民のほとんどがマラリアに感染し、3分の1が死亡した。南風見田の浜の石には、当時の学校長が刻んだ「忘勿石」の文字が今も残されている(詳しくは「戦争マラリア」を参照)。 八重山方言では「我らの島」を意味する「ベスマ」と呼ばれ、現地でもこの呼び方を使うことがある。波照間という表記は当て字であり、「果てのうるま」(「うるま」は、琉球、または珊瑚礁の意味)に由来するという説が一般的である。これに対して、金関丈夫はインドネシア系言語であるアミ語(台湾のアミ族の言語)で「沖の島」を「ボトル」と呼ぶことと関係があるのではないかとの説を唱え、宮良当壮と論争になった。島の成因は隆起珊瑚礁であるが比較的起伏が大きく、中央部には標高60mに達する地点もあり、この付近に灯台が立つ。1960年代まではカツオ漁がさかんで、鰹節に加工して出荷していたが、現在漁業専従者は一桁となる。就業人口の半数が農業に従事し、かつては米や粟が作られたが、1960年代初頭にサトウキビ栽培への転換が進み、現在島の主力産業は製糖である。一方でスイカ、メロン、パッションフルーツ、モチキビなどの栽培も試行されている。2001年には、75億円の事業費と22年間の歳月を費し土地改良(ほ場整備)事業が完了し、島は一面のサトウキビ畑となる。ヤギが2005年調査時で登録数で411頭、さらに野生のヤギがその数倍いるといわれる。また和牛の飼育も約30戸ほどが行い、2005年当時で500数十頭を飼育している。島内の唯一の酒造所である波照間酒造所では、泡盛の中でも、製造量が少なく入手困難なことで有名な「泡波」という銘柄を生産している。1990年代半ばまでは宿泊施設は民宿が7軒しかなく、観光地化されていなかったが、その後観光客が急増し、民宿は約倍に増え、さらにペンション、ホテルも開業した。 入域観光客数は2005年で14000人と、1987年の3700人に比較し6倍以上に増えている(ちなみに竹富島は41万人、西表は35万人)。島の周囲にはニシ浜、ペー浜、ペムチ浜など白砂の美しい砂浜が多いが、ニシ浜以外は基本的に遊泳禁止である。2006年5月17日には、修学旅行に来ていた横浜市立鶴見工業高等学校の男子生徒3名が遊泳禁止区域の海に入り亡くなった(1名は遺体が見つからず、死亡認定。)。ニシ浜ビーチは2016年にトリップアドバイザーが発表した「トラベラーズチョイス世界のベストビーチ2016」の日本国内のランキングで2位となった。島のほぼ中央部に前、名石、南、北の4つの集落が隣接し、小中学校・診療所・郵便局が存在する。さらに西寄りに冨嘉集落があり、合計5集落が形成されており、それぞれの集落には小さな共同売店がある。行政区上はすべて八重山郡竹富町に属する。島内には、小学校および中学校があるが高校は無いため、島の生徒のうち進学希望者は、中学校を卒業すると島外の高校へ通うために島を出る。年間の平均気温は24.1度。冬季には北東風を中心に強い季節風が吹く。降水量は1829mmと日本平均よりやや多目程度。7月から9月にかけてはしばしば台風の直撃を受け大きな被害が出ることがある。一方、台風が少ない年は少雨となり農作物のできに悪影響が出たり、海水温の上昇で珊瑚が死ぬなどの影響がある。

熱帯雨林気候(Af)に属する。全域が沖縄県八重山郡竹富町波照間となっている。郵便番号は907-1751である。石垣島との間を結ぶ。かつては波照間海運も 石垣港との間にフェリー・高速船を就航させていたが、運航休止となった。

出典:wikipedia

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