風船爆弾(ふうせんばくだん)とは、太平洋戦争において日本陸軍が開発した気球に爆弾を搭載した兵器である。秘匿名称は「ふ号兵器」。「風船爆弾」は戦後の用語で、当時の呼称は「気球爆弾」である。戦果こそ僅少であったものの、ほぼ無誘導で、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器であり、実戦に用いられた兵器としても約7700km(茨城県からオレゴン州への概略大圏距離)は、発射地点から最遠地点への攻撃である。風船爆弾は、陸軍少将であった草場季喜によれば、昭和8年(1933年)には自由気球に爆弾を懸吊し兵器として使用する着想があったと伝えられ、ほぼ同時期に陸軍少佐であった近藤至誠が、デパートのアドバルーンを見て「風船爆弾」での空挺作戦への利用を思いつき、軍に提案をしたが採用されなかったので、軍籍を離れ、自ら国産科学工業研究所を設立し研究を進めた。この時点でコンニャク糊を塗布した和紙「メイジン紙」を使用することは近藤の想定の中にあった。昭和14年には関東軍に持ちこまれ、近藤は極秘研究主任となる。昭和15年近藤は病死するが研究は進められ、神奈川県の陸軍登戸研究所で開発されている。試験の責任者は佐藤賢了であった。和紙とコンニャク糊で作った気球に水素を詰め、大気高層のジェット気流に乗せてアメリカ本土を攻撃しようとする兵器で、満州事変後の昭和8年頃から関東軍、陸軍によって対ソ連の宣伝ビラ配布用として研究され、小型の気球爆弾の研究命令は昭和14年8月に、ふ号兵器としては昭和18年(1943年)8月に研究命令が出され、昭和19年(1944年)11月にふ号兵器として実用化した。当初は海軍も対米攻撃用にゴム引き絹製の気球の研究をしていたが、海軍の計画は途中で放棄され、機材と研究資料は陸軍に引き渡された。海軍式のゴム引き気球も少数、実戦に使用された。1944年9月5日、陸海民の科学技術の一体化を図るため、陸海技術運用委員会が設置され、研究の一つにふ号も含まれていた。開発責任者は第9陸軍技術研究所(登戸研究所)の草場季喜少将と書かれている資料もある。当時、日本の高層気象台(当時茨城県筑波郡小野川村(現・つくば市))の台長だった大石和三郎らが発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾を乗せ、日本本土から直接アメリカ本土空襲を行うもので、千葉県一宮・茨城県大津・福島県勿来の各海岸の基地から、1944年11月から1945年3月までの間約9300発が放球された。気球の直径は約10m、総重量は200kg。兵装は15kg爆弾1発と5kg焼夷弾2発である。ジェット気流で安定的に米国本土に送るためには夜間の温度低下によって気球が落ちるのを防止する必要があった。これを解決するため、気圧計とバラスト投下装置が連動する装置を開発した。兵装として爆弾を2発としたものや焼夷弾の性能を上げたものも発射された。爆弾の代わりに兵士2-3名を搭乗させる研究も行われた。また、陸軍登戸研究所において研究されていた炭疽菌、ペスト等の搭載が検討され、登戸研究所第七研究班はふ号兵器用の牛痘ウイルス20トンを製造し使用可能な状態まで完成していたが、昭和19年10月25日の梅津美治郎参謀総長の上奏に際して昭和天皇は本作戦自体は裁可したものの細菌の搭載を裁可せず、細菌戦は実現しなかった。昭和19年11月3日未明に3カ所の基地から同時に放球が開始された。この日が選ばれたのは、明治天皇の誕生日(明治節)であったことと、統計的に晴れの日が多い(晴れの特異日)とされたためであったが、実際には土砂降りの雨であった。昭和19年冬から20年春まで攻撃したが、戦況の悪化などの理由により、昭和20年冬の攻撃は計画されなかった。材質は楮製の和紙が使われ、接着剤には気密性が高く粘度が強いコンニャク糊が使用された。このためコンニャク芋が軍需品となったため食卓から姿を消した。楮の繊維が縦方向の大判に対し、小判の繊維を横方向にし網目状に組み合わせ、和紙を5層にしてコンニャク糊で貼り合わせ、乾燥させた後に、風船の表面に苛性ソーダ液を塗ってコンニャク糊を強化し、直径10mほどの和紙製の風船を作成した。気球を調査したアメリカ軍は、それが紙製であることはすぐに突きとめたものの、紙を張り合わせている接着剤が何であるかを特定することはできなかった。気球内には水素ガスを充填した。大佛次郎は1944年10月17日の日記に「新聞を読むと、ヘチマとコンニャクが航空機の基地で入用で供出を求めている。防諜用だとのこと」と記している。埼玉県比企郡小川町では昭和8年ごろ小川和紙から風船爆弾用の気球紙が開発された。昭和19年以降は高知市をはじめ日本国内のほかの地域でも気球紙は製造されるようになったが、開発段階で小川和紙が選ばれた理由は、楮の繊維が長く強靭であり、東京に近く、以前より軍需紙を漉いてきた歴史があることなどが挙げられている。その後生産量の増加命令に伴い、各地方でもふ号兵器用の気球紙が製造されるにあたり、小川和紙の手法が全国の和紙産地に伝えられた。当時、紙漉き作業に携わった人々には爆弾に使用されるとは知らされてはいなかった。気球一基に対し和紙は約600枚必要であった。気球紙のサイズは2種類あり大判は6尺3寸5分×2尺2寸(約193×67cm)、小判は2尺2寸四方(約67×67cm)だった。昭和19年には軍の命令により楮の皮剥作業や紙漉きに対しても昼夜休むことなく作業するよう警察の監督のもとに作業が続けられた。無誘導の兵器であったが、自動的に高度を維持する装置は必須であった。川崎の東芝富士見町工場で製造と開発が行われていた。これにはアネロイド気圧計の原理を応用した高度保持装置が考案され、三〇七航法装置と呼ばれる。発射されると気球からは徐々に水素ガスが抜け、気球の高度は低下する。高度が低下すると気圧の変化で「空盒」と呼ばれる部品が縮み、電熱線に電流が流れる。バラスト嚢を吊している麻紐が焼き切られ、気球は軽くなりふたたび高度を上げる。これを50時間、約二昼夜くり返して落下するしくみであった。気球を天井から吊り下げて行う満球テスト(水素ガスを注入して漏洩を検査する)のために天井が高い建物が必要とされたため、日本劇場の他、東京では東京宝塚劇場、有楽座、浅草国際劇場、両国国技館で、名古屋でも東海中学校・高等学校の講堂で作られた。他にも毒ガスの製造施設があり機密性の高かった瀬戸内海の大久野島などでも製作が行われた。作業にあたって動員されたのは女子学生であった。脚本家・作家の向田邦子も、学生だった当時、旋盤工として部品の製作に動員されたことを著書に記している。吉村昭はこれに加えて芸者が参加しているという話を耳にしている。既に座敷遊びをするような客が少なくなり、三味線を弾くこともなくなっていたのである。糊に混入されている防腐剤の影響で指の間がただれ、また作業者には疲労回復のためヒロポンが渡されたという証言も残る。製造中の事故により6名の死者を出している。千葉の気球連隊が母体となり『ふ』号作戦気球部隊が編制された。昭和19年9月編成。連隊長:井上茂大佐。連隊本部:茨城県大津。総員:約2千名。連隊本部のほか、通信隊、気象隊、材料廠を持ち、放球3個大隊で編制された。1個中隊は2個小隊で構成され、1個小隊は3個発射分隊(発射台各1)を持つ。中隊人員は、将校12-13名、下士官22-23名、兵約190名。大隊には水素ガスの充填、焼夷弾・爆弾等の運搬・装備を担当する段列中隊1個があった。また、陸軍気象部や中央気象台の技師といった科学者も配属されていた。その中の一人に、陸軍軍医学校教官の内藤良一がいた。千葉県一宮には試射隊が置かれた。試射隊はラジオゾンデ装備の観測気球を放球し気象条件を探った。ほかに気球の行方を追う標定隊があり、宮城県岩沼に本部を置いた。実際の標定所は青森県古間木、宮城県岩沼、千葉県一宮の3カ所に設置されたが、これでは不足であったのか、後に樺太標定所が設置された。約9300発の放球のうち、アメリカ本土に到達したのは1000発前後と推定され、アメリカの記録では285発とされている。最も東に飛んだ記録としてミシガン州で2発が確認されている。1945年5月5日、オレゴン州ブライで風船爆弾の不発弾に触れたピクニック中の民間人6人(女性1人と子供5人)が爆死した例が確認されている唯一の戦果である。放球は1945年3月が最終であるため、この5月の事故は冬の間に飛来したものが雪解けによって現れたのではないかと言われている。また、プルトニウム製造工場(ハンフォード工場、ワシントン州リッチランド)の送電線に引っかかり短い停電を引き起こした。これが原爆の製造を3日間遅らせたという説がある。一方、実際には工場は予備電源で運転され、原爆の完成にほとんど影響はなかったという説もある。焼夷弾は小規模の山火事を起こしたが、冬の山林は積雪で覆われていたため火が燃え広がりづらく、大きな戦果をあげたという記録はない。ただし、風船爆弾による心理的効果は大きく(日本側でもこの作戦自体が心理面での効果を期待していた。担当したのが参謀本部第二部第8課、情報や傍受、諜報に関わる部署であった)、アメリカ陸軍は、風船爆弾が生物兵器を搭載することを危惧し(特にペスト菌が積まれていた場合の国内の恐慌を考慮していた)、着地した不発弾を調査するにあたり、担当者は防毒マスクと防護服を着用した。また、少人数の日本兵が風船に乗ってアメリカ本土に潜入するという懸念を終戦まで払拭することはできなかった。また、終戦後すぐに、細菌兵器研究者を日本に派遣し、風船爆弾開発に関わった研究者の調査を行っている。風船爆弾対策のため、アメリカ政府と軍は大きな努力を強いられた。アメリカ政府は厳重な報道管制を敷き、風船爆弾による被害を隠蔽した。上記の事故の一報を受けた電話交換手は決して口外するなと軍から口止めされた。これはアメリカ側の戦意維持のためと、日本側が戦果を確認できないようにするためであった。この報道管制は徹底したもので、戦争終結まで日本側では風船爆弾の効果は1件の報道を除いてまったくわからなかった。戦後すぐの日本で放送された『眞相はかうだ』でも、風船爆弾については明確に触れられておらず、「日本の潜水艦から発進した飛行機が、アメリカの都市を爆撃したというのは本当か」という質問の形式をとって曖昧な説明を行うにとどめている。これを紹介した保阪正康は、風船爆弾のために発生した山火事の件を伏せたくて、ぼかしているという印象を持っている。兵器の現物は日本国内に残存しないが、東京都江戸東京博物館に5分の1模型があり、埼玉県平和資料館に7分の1模型が展示されている。国立科学博物館に非公開ながら、重要部品の風船爆弾の気圧計(後述の高度保持装置)が保管されている。アメリカのスミソニアン博物館の保管庫には気球部分が保管。気圧計及び爆弾部分の気球下部部分の実物は国立航空宇宙博物館に展示されている。
出典:wikipedia
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