榊原 康勝(さかきばら やすかつ)は、江戸時代前期の武将、大名。従五位下・遠江守。上野館林藩第2代藩主。榊原家2代当主。徳川四天王の一人・榊原康政の三男。大須賀忠政、榊原忠長の弟。正室は加藤清正の娘本浄院(古屋)。子に勝政。3男であったが、慶長11年(1606年)には父の病死により、上野館林藩10万石の遺領を継いだ。これは長兄の忠政は外祖父・大須賀康高の養子として大須賀家へ出されており、次兄の忠長は早世していたためである。康勝が家督を継いだ頃、舘林藩の財政は早々に逼迫しており、これを憂慮した肥後国主で義父である加藤清正が財政再建のために度々榊原家に提言を行っている。慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも徳川方として参戦し、冬の陣では佐竹義宣隊の窮地を救っている。翌年の夏の陣にも参加し、5月6日の若江の戦いで豊臣方の木村重成と戦闘、翌日の天王寺・岡山の戦いにも参加したが、連日の戦いの結果、榊原軍は豊臣軍に大損害を与えられる結果となった。夏の陣後の5月27日、大坂から引き上げた先の京都にて、以前から患っていた腫れ物の為に死去した。26歳。「難波戦記」などの書物には、大坂冬の陣で腫れ物(痔)が破け、大量に出血。それが夏の陣の激戦で悪化したが、鞍壷に血が溜まってなお戦い続け、治癒する事無く死亡したと記されている。法名「心光院殿長誉了英大禅定門」。墓所は館林市の善導寺。康勝には庶子・平十郎(勝政)がいた。ところが、家老の中根吉衛門、原田権左衛門、村上弥右衛門の3名は、幼君では武功を立て難たく、立身を望めないと策謀して、幕府・家康からの質問に対し康勝に嗣子なしと回答したという記事が『横須賀覚書』に見えるが、康勝が亡くなった後も三家は榊原家に仕え、元和五年には二代将軍徳川秀忠から千石の公知が認められ、以後も代々朱印地及び榊原家からの知行地は継承されているため、この説は疑問である。榊原家の『綏定録』には平十郎は三歳まで病身であり、かつ康勝の実子としてのお披露目もなされないうちに康勝が死去してしまったため、忠次が養子に迎えられたとしている。家康は康勝の長兄で大須賀家に養子に出ていた大須賀忠政の子の大須賀忠次(康勝からは甥に当たる)に対し、榊原の名跡継承の意志を問うた。忠次側より榊原の名跡を継ぎたいと回答があったため、忠次が榊原氏に復帰し、相続をすることになった。徳川四天王の血統が絶えるのを懸念した徳川家康の命により、忠次が10歳で榊原氏館林藩10万石を相続したとも、忠次自身の希望で榊原家相続となったともされる。これにより、大名大須賀氏は絶家となった。しかし後に、養母の本浄院(古屋)が武蔵国岩槻藩の世子・阿部政澄に再婚することになり、その際に養っていた勝政の存在を幕府に報告した。平十郎勝政は養母の実家先である熊本藩主加藤忠広に預けられるなど流転したが、後に幕府より1,000俵を与えられ、その子勝直から旗本榊原氏が始まる。勝直の子の政邦が後に榊原本家を継いだ。
出典:wikipedia
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