甲州勝沼の戦い(こうしゅうかつぬまのたたかい、慶応4年3月6日(1868年3月29日))は、戊辰戦争における戦闘の一つである。柏尾の戦い、勝沼・柏尾の戦い、甲州戦争、甲州柏尾戦争とも呼ばれる。合戦地の甲斐国山梨郡勝沼(現在の甲州市勝沼町)は甲府盆地の東端に位置する。信濃国から甲府(甲府市)を経て江戸へ向かう甲州街道の勝沼宿が所在する宿場町で、交通の要衝地であった。一帯は農村。甲州街道は江戸から郡内地方の山間部を経て甲府盆地(国中地方)へ至り、勝沼は盆地へ入った最初の地点に位置する。勝沼から郡内地方を越えれば武蔵多摩地方であり、新選組の幹部や隊士を多く輩出した多摩地方にも近い。甲斐国は享保9年(1724年)に一国が幕府直轄領化され、甲府城(甲府市)には甲府勤番が配置され、在地には代官支配であった。甲斐に配置されている兵力は乏しく、天保7年(1836年)に発生した甲斐一国規模の天保騒動の際には勤番士三百数十人と各代官手付・手代50余りであった。新選組は京都守護職指揮下で京都市街の治安維持などに従事していたが、慶応4年1月、旧幕府軍の一員として鳥羽・伏見の戦い、淀千両松の戦いで新政府軍と戦って敗れ、江戸へ移った。新政府軍は東海道・東山道・北陸道に別れ、江戸へ向けて進軍した。新選組局長の近藤勇は、抗戦派と恭順派が対立する江戸城において勝海舟と会い、幕府直轄領である甲府を新政府軍に先んじて押さえるよう出陣を命じられた(一説には、江戸開城を控えた勝海舟が、暴発の恐れのある近藤らを江戸から遠ざけたとも言われる)。新選組は甲陽鎮撫隊と名を改め、近藤勇は大久保剛(後に大和)、副長の土方歳三は内藤隼人と変名して、3月1日に江戸を出発し甲州街道を甲府へ向かった。近藤は混成部隊を指揮するため、行軍中に大名旅行のように振舞い、さらに天候の悪化なども重なり時間を空費する(沖田総司は途中で江戸に戻った)。一方。同年正月には甲府城へ公家の高松実村を総帥とした「官軍鎮撫隊」が入城した。高松隊は高松を中心に伊豆国出身の宮大工・彫刻師である小沢一仙らを加えた草莽諸隊で、甲斐で年貢減免などの政策を約束しつつ甲府城へ入城したが、官軍東海道総督府から勅宣を受けていない高松隊への帰国命令が発せられ、小沢一仙は処刑された(偽勅使事件)。同年3月4日から新政府軍の土佐藩の板垣退助、薩摩藩の伊地知正治らが先鋒総督府参謀として、新政府軍3,000を率いて甲府城に入城した。甲府城内の勤番士は立退きを命じられ、後に官軍は甲府市中に残った勤番士を場内に戻し、近藤派に属したものは入牢させた。甲陽鎮撫隊は勝沼から前進し、甲州街道と青梅街道の分岐点近くで軍事上の要衝であるこの地に布陣した。300いた兵は恐れをなして次々脱走し、121まで減ってしまったという。近藤は会津藩の兵がこちらへ向かっているといい、なんとか脱走を防いだ。土方は神奈川方面へ赴き旗本の間で結成されていた菜葉隊に援助を頼むが黙殺される。3月6日、山梨郡一町田中村・歌田(山梨市一町田中・歌田)において甲陽鎮撫隊と新政府軍との間で戦闘が始まった。戦況は鎮撫隊側が不利で、新政府軍からの砲撃で大砲は破壊された。のち、近藤は勝沼の柏尾坂へ後退し、抗戦を続ける。会津の援軍が虚報だとわかると、近藤、永倉新八、原田左之助らの説得も空しく、兵は逃亡した。甲陽鎮撫隊は八王子へ退却した後に解散し、江戸へ敗走した。近藤らはその途中土方と合流した。甲府城の新政府軍はその後江戸へ向かい、江戸城の無血開城と上野戦争で江戸を確保し、戊辰戦争の戦場は関東北部の宇都宮やより北の会津、越後へと移った。甲府城ではその後も次々と諸藩の藩兵が入城・滞在したため、応対に忙殺された。現在の甲州街道沿いには古戦場跡や墓所などが残されている。一町田中村出身の新選組隊士で明治後にキリスト教伝道師となった結城無二三は軍監として合戦を見聞しており、後にその様子を記している。また、山梨県では甲州勝沼の戦いを記した『甲府大功記』が成立し、歌川芳年による戦争画も描かれた。また、鎮撫隊が放った不発弾も現存している。
出典:wikipedia
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